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ゆまにだより

突然の訪問者―創業四十周年を迎えて思い出す人々(2)(H・A) 投稿日:2015/02/10

 人は誰でも齢を重ねると今までとは異なった景色が見えてくるようになります。かつては
さり気なく通り過ぎて行ったものが大変興味深く思えてきます。それは一つの芸術なのかもしれません。
 ゆまに書房も四十年の間に大きく出版物が変化を遂げ、多くの人との出会いがありました。

 1975(昭和50)年5月に創業したゆまに書房は、当初の十年間は近世文学を中心に出版活動を続けました。処女出版は同年10月に刊行した『五世市川団十郎集』(日野龍夫編・解説)です。『近世漢詩人大系』の刊行は中村幸彦先生のご都合で長引きそうだということで日野先生が書き留めていた原稿を提供しても良いということで実現しました。
 『五世市川団十郎集』の発行作業は緊張の連続でした。すべての業務が初めてのことです。底本所蔵機関との出版許可交渉や撮影のためのマイクロ業者の派遣は『編集の手引き』にも載っておらず、さらに印刷会社や製本会社との取引開始業務は若輩者にとって想像以上に大変でした。特に紙の購入は困難を極めました。紙は薄利多売なので、それ相応の信頼がなければ買うことができません。今では日常茶飯事のように電話一本でやり取りしている全ての仕事の基礎はこの時築かれたのかもしれません。

 翌1976(昭和51)年3月、二冊目の『せわ焼草』(米谷巌解説)を刊行。本書は貞門俳諧の俳言を分類収録したものですが、近世初期の俗語が多く収められており、俳文学研究ばかりではなく国語学研究にとっても貴重な資料です。
 我々は米谷先生にお願いして本書の巻末に類書との同一語・同義語・類義語の有無をも記した語彙索引を附しました。この作業等の丁寧な編集作業・本づくりが認められて、書誌学者・谷沢永一氏に『完本紙つぶて』(文芸春秋社、1978年8月)のなかでゆまに書房の創業を絶賛していただきました。
 これまで貫いてきた姿勢が認められたことは我々にとって大変栄誉であり、私たちの勲章でした。

 同年5月『戯作者考補遺』、7月『小説三言』(尾形仂監修・解説)を刊行後、現在シリーズ№107まで続いている「書誌書目シリーズ」がスタートしました。
 第1弾は№1『高潮』と№2『あふひ』を同時に二冊刊行しました。両書は、明治後期、大槻如電や朝倉無声等当時書誌研究者らが執筆する書誌学雑誌です。特に、「蔦屋重三郎伝記と出版書目」や「旧幕府の出版条例」等々は貴重史料であり、高度な江戸軟文学研究雑誌です。

 そしてその年の10月のことでした。ある紳士が突然狭い事務所に訪ねてこられました。差し出された名刺には「中央公論社専務取締役 高梨 茂」と書かれてありました。
 氏は江戸モノが好きで、「江戸関係の本を立て続けに出版するゆまに書房とはどのような会社なのだろう?」と、興味を持たれて突然訪ねてこられたとのことでした。あまりにも狭い事務所とあまりにも若い編集者に驚かれた様子でしたが、大変丁寧に、そして優しく私たちに接してくださいました。出版に関する経験談や江戸文学の面白さなどを一時間ほど話されたと思います。
 その会話の中で、氏が「本当に好きな本だけを出版していたいのであれば、人数は増やさない方が良いですよ。まあ、三人ぐらいが理想かもしれません。」とおっしゃったことが今でも強烈に覚えています。そして帰り際に、「今度我社に遊びにいらっしゃい」と告げられて席を立たれました。

 初めての刊行以来企画は順調に進みましたが、営業面がまったくの素人で芳しくありませんでした。取次に口座を持つことができなかったので全て直販でした。当時faxはまだ普及していないので、主な注文はハガキと電話、そして学会会場で受け付けました。
 『せわ焼草』刊行前、俳文学会会場へ唯一冊の既刊書『五世市川団十郎集』を展示して注文を取ると同時に、『せわ焼草』の予約注文を受付ました。持参した大学ノートが予約申込で数頁になったのがとても印象に残っています。
 これは余談ですが、郵便受けに最初に入っていた『五世市川団十郎集』の注文ハガキは近世文学研究者・神保五弥先生(当時、早稲田大学助教授)からのご注文だったことは昨日のことのように新鮮に思い出されます。
 それでもやはり多くのお客さんは書店を通して注文を下さるので、書店からの電話注文や問い合わせが来るたびにお断りせざるを得ませんでした。熱心なお客様は書店より不扱いの報告を受けた後、直接電話かハガキでご注文をいただけたのですが、半数位はそのままになってしまったようです。
 これらの問題を打開しようと取次の仕入窓口には毎週のように口座開設の申し込みに通いました。一応会議にかけてみましょうとはおっしゃって下さるのですが、結果、小部数発行のため取次経由より「直販」の方が利益が上がるのではと却下の連続でした。

 高梨氏の来訪はそんな悩みを抱えているときでした。翌週、氏のお言葉に甘えて中央公論社を訪ねました。氏は私たちを快く歓迎し、専務室で悩み聞いてくださいました。そしてその場でトーハン(当時は「東販」)の隅田社長に直接電話をかけてくださいました。
「隅田社長が『今からお会いするから尋ねていらっしゃい』と言っているので、これから尋ねられたら如何ですか?」と氏はおっしゃいました。私たちは大急ぎでトーハンに行くと、隅田社長は社長室で担当部長を紹介してくださいました。そしてそれまで交渉していた窓口の担当者と引き合わせ、取引口座はその日のうちにトントン拍子に開設されました。
 これを機にほかの取次会社はトーハンで取引しているのであれば結構ですよと、取引を開始することが出来ました。
 何のコネもなく、唯若さのみで出航したゆまに書房は初めて「世間」というものを知らされました。高梨専務にはその後お会いする機会に恵まれませんでしたが、出版界の様々な会合に出席して中央公論社の方とお会いするたびに当時の思い出を語りました。きっと氏はそんなことは忘れてしまっていたかもしれませんが、ゆまに書房にとって今でも忘れることのできない大切な恩人の一人です。それは創業二年目の秋のことでした。

 僅かな資本金でスタートしたゆまに書房は資金面で徐々に厳しさを増していきました。取次に口座を開設したとはいえまだまだ直販も多かったため、代金回収も思うようにいかず売掛金も増えるばかりでした。そして何より営業の世界に無知でした。
 1978(昭和53)年、創業から四年目になってくると次第に経営が厳しくなってきていました。今後について何度か話し合いの場が持たれるようになっていました。
 これまで、ゆまに書房を一緒に立ち上げたKの父は、若い者の素人商売を見るに見かねて何かと助けの手を差し伸べてくれました。暑い夏裸で仕事をしていた姿を見ては秋葉原からクーラーを買って担いできて自ら事務所に設置したり、家で使用していたライトバンを提供したりと、物心両面で援助して頂いておりました。そしてこの年Kの父は、所有していた千葉の土地を売却して数百万の大金をつくり、「これでこのピンチを乗り切りなさい」と無担保で提供してくれました。「これでもうまくいかなかったら潔く諦めなさい。」と最後のチャンスを与えてくれました。しかし、業績を回復することができませんでした。

 1980(昭和55)年の春、一旦リセットすることになりました。故郷に居住地を移して単身東京に住んだ私は月曜日から金曜日まで東京で過ごし、週末になると約五時間の道のりを車で帰郷しました。その往復の車中で当時大ヒットしていた五輪真弓の「恋人よ」がラジオから盛んに流れていたことが何故か鮮明に思い出されます。

 振り返ってみると、ゆまに書房の創業は高校三年生の夏「御堂」に籠った時と同じだったような気がします。下調べもせず綿密な計画書も作成せず、思いだけで行動に移してしまう性格は、生来のもので今でも治りません。しかし、Мをはじめ城田氏、高梨氏、そしてKの父にように無償で私たちを応援してくれる人々に出会うことが出来ました。これは幸運でした。私の宝物と言えるこの人たちとの出会いがなかったならば、現在のゆまに書房が存立していないことは確かです。
 そしてその後も多くの忘れることのできない人々に出会うことになります。

Mと城田氏のこと―創業四十周年を迎えて思い出す人々(1)(H・A) 投稿日:2015/01/13

人は人生を重ねると誰でも二,三人は生涯忘れられない人ができるものです。今年創業四十周年を迎え、ゆまに書房にとってもなつかしく思い出される人たちがいます。

約四十五年前の1970(昭和45)年8月、大学三年の二十一歳になったばかりの私は盲腸の手術を受けて池袋の病院のベッドでウトウトしていました。一週間前の日曜日、腹痛がひどくあまりの痛さに耐えられず、這うようにしてこの病院に入院して緊急手術を受けました。その為普通なら一週間で退院なのですが、一か月余り入院するはめになりました。この年は十年毎に改定されていた日米安全保障条約の改定の年でもあり、街は学生たちの反対運動で騒然としていました。ほとんどの大学は学生がピケを張って封鎖され、日本のカルチェラタンと呼ばれていた神田古本街の石畳みは学生の投石で全て剥がされていた頃です。またこの年は三島由紀夫が割腹自殺を図った年でもあります。その日はとても暑い日でした。昼ごろ、突然病室の入口近くから聞き覚えのある声がしました。「おい!Мが死んだぞ」。高校で同級だった友人である。昨日、Мが睡眠薬自殺を図って亡くなったという。

Мは高校時代からの親友でした。高校三年生の夏休み、もう一人の友人と三人で人里離れた福島県の山奥の「御堂」に一ヶ月山籠もりをした仲でありました。当時高校生に人気のあった『蛍雪時代』の巻頭に「夏休みの山寺受験勉強」の経験談と写真を見つけた私たちは、興味本位でそのような計画を話し合っていました。夏休みも近くなったある日、朝の通学列車の中でそんな私たちの会話を聞いていた見知らぬ人が、福島県川内村長福寺の住職・矢内俊晃氏を紹介するという。そして翌週の日曜日、同寺まで同行してくれました。矢内俊晃氏は文学や哲学にも造詣が深く、テレビ等にも度々出演していた有名人でした。蛙の詩で有名な草野心平とも親交があり、その関係で草野心平は同村の平伏沼のモリアオガエルを愛し、同村に「天山文庫」を建立しています。私たちは矢内住職から、さらに数キロほど山奥に入った長福寺の末寺である「御堂」が良いだろうと、勧められました。そこは、一時放射能にすっかり汚染され、全住民が避難していた地域です。

7月の下旬、6畳余りの「御堂」のある山の麓までコメや野菜の食糧、炊事道具、少々の寝具をトラックで運んでもらい、数百メートルある麓と御堂を何度か往復してそれらの宿泊道具を運び上げました。当然電気も瓦斯も通っていません。昼はそれぞれが気に入った場所に散り、夕刻にまた集合して夕食の支度をしました。夜はランプの灯で過ごし、夜中は食べ残した食糧を漁りにやってくる狸が立てる物音を聞きながら睡眠をとりました。ただ、幸いにして宿所の隣に大きな滝があったので飲み水と入浴には困りませんでした。一番困ったことは、三台しかなかったランプが一夜ごとに煤がこびり付き、それを何度か洗うたびに一台ずつ壊してしまったことです。さらに、食糧が2週間位で残り少なくなってしまったことも計算違いでした。食糧は麓の農家まで下りてなんとか調達したのですが、肝心の勉強がはかどらず、誰とはなく次第に中止の話が出るようになりました。そんな諸々の条件が重なって、内心はホッとした気持ちをもちながら、一ヶ月の予定を一週間ほど早く切り上げて下山しました。今考えてみれば、下見もせず直ちに決行した蛮行は、やはり若さがなせる青春であったような気がします。

その間もМは受験勉強の合間に太宰治を熱く語りました。太宰治の心酔者でした。中学まで野球ばかりやっていて、理数系であった私にとって、彼の語りがとても新鮮でした。高校入学後すぐ友人になったМは私に本の魅力を教えてくれました。私の文学の師匠でもあったような気がします。Мの熱弁を何度も聞かされた私は次第に文学に興味をもつようになり、Мとは対照的に漱石と、演劇をやっていた関係もあってサルトルを好んで読むようになりました。Мとは何時頃からか、「文学ノート」らしきものも交わすようになっていました。学校にいるときは授業中に回覧し、帰宅すると前日の続きが記された手紙が届くようになっていました。上京する時にはその手紙は数十通になっていたことを覚えています。       
翌年3月、私はМと二人で大学受験のため東京に来ました。受験校は異なったが、試験が行われた会場が偶然にも二人とも早稲田大学工学部でした。Мの父親が試験会場に近い新大久保に宿を予約してくれました。どうにかして新大久保にたどり着いたが、修学旅行以来の東京はそれこそ外国のようで、控えてきた親戚の電話番号も「03」の市街局番からかける始末で連絡が取れず、どうにかたどり着いた宿は異様な雰囲気のホテル(どうやら連れ込みホテルであったようだが)で、二人は怪訝な気持ちで早々に床に就きました。試験が終わった翌日は、新宿を見学して帰ろうと相談し、予約を取っていた急行指定券を解約し、午後10時上野発の夜行列車で帰郷しました。翌日は卒業式の日でしたが、二人で示し合せて卒業式より睡魔の解消を選択したのもМとの懐かしい思い出の一つです。
彼はその後早稲田大学の文学部へ進み、私とМとの関係もより深く続いていました。彼の死は本当に突然でした。何故彼は死を選択してしまったのか。私なりには感じるものはあったのですが、未だに本当の動機は分かりません。ゆまに書房を立ち上げる五年前のことです。

出版社をやりたいとかねがね考えていた私にとって、Мの死は決定打となりました。夏休みが終わると密かに準備を始め、出版社でアルバイトとして働き始めました。「編集の真似事」をして編集業務を覚え、会社を通して出版社や印刷所、製本所の人たちとも知り合いになることが出来ました。この時知り合いになった人たちが創業時応援をしてくれました。なかでも、某出版社編集部長・城田昭三氏に出会えたことは大きく、出版社立ち上げの話は一気にスピードを増し、現実味を帯びていきました。氏は樋口一葉の研究者でもあり近代文学全般に造詣の深かった人物です。八十二歳で亡くなるまで本を愛し、本に埋もれた生活を通し、生涯「文学青年」を貫いた人でした。煙草とコーヒーが大好きで、食事はいつも冷奴ばかり食べていたような気がします。給料はほとんどが本に化け、部屋の中は蔵書で埋め尽くされていました。蔵書の真ん中にテーブルを置いて読書や食事をし、夜はそのまま横になって寝ていました。ある日、ゆまに書房を始めて二年目の頃だったかと思います。彼は千葉のアパートを退去しなければならなくなって、蔵書の置き場に困っていました。見るに見かねてそれらの蔵書を会社の倉庫に運んだことも忘れられない一コマです。城田氏には出版に関するあらゆることを教えていただきました。割付の仕方や紙の取り方、企画のコツ等々、営業業務を除く編集業務全般をさりげなく教授していただきました。原稿を級数やポイント指定する際、一般的には「Q」を使用しますが、私が「♯」を使用するのも氏の名残の一つです。
1974(昭和49)年、同氏は近世文学研究者・前田愛先生(立教大学教授)を紹介してくれました。前田先生の案で『近世漢詩人大系』の出版計画を立ち上げました。本企画は、江戸期の漢詩人の作品と経歴を収録する「近世漢詩人事典」を刊行するというものでした。その後、当時斯界若手研究者として活躍されていた日野龍夫先生(当時、国文学研究資料館教授のち京都大学教授)他二名の先生に編者に加わっていただき、芝の郵便貯金会館や湯島の会議室を借りて何度か編集会議を開き、企画を練り上げました。そしてこの企画は当時斯界研究者の大御所的存在であられた中村幸彦先生(当時、京都大学教授)に監修になっていただかなければ成功しないという結論に至りました。同年8月の夏休み、前田先生ご夫妻と日野先生と同行して京都大学の中村先生の研究室を訪ねました。
中村先生は快諾されました。これがゆまに書房の初めての「企画」です。まだ、社名も電話番号もなかったころのことです。そして創業三年後、彼はゆまに書房の初代編集部長になりました。

それから一年後の1975(昭和50)年5月1日、神田・山京ビル別館四階に事務所を開設しました。今からもう四十年も前のことです。

マキノと忠臣蔵(編集部H) 投稿日:2014/12/12

 師走を迎え、何かとせわしない日々が続いています。編集部Hです。
 なんだか街の空気も変わり、今年もあともう少しと実感するようになってきました。
 さて、年末といえば・・・とその前に先日バスに乗っていた時のことです。聞こえてきた会話に「もうすぐ年の瀬だけどさ、今年は忠臣蔵あるのかな」というものがありました。話の続きが気になったものの、わたしはバスを降りるところだったので、その後どんな話が展開されたのかは想像するしかありませんが、そういえば一昔前は年末になるとなぜかテレビで忠臣蔵をやっていたなと思い出しました。「なぜ忠臣蔵」「忠臣蔵とは何か」という問題はさておき、今回は日本映画の黎明期に活躍し、忠臣蔵をテーマにした映画を何本も製作した牧野省三とマキノ映画について少しだけ書き連ねたいと思います。

 「日本映画の父」と呼ばれた牧野省三はその名のとおり、日本映画の基礎を築いた人物です。そしてマキノ映画とはこの牧野省三が京都に興した独立プロダクションとその映画作品を示す総称です。
 ここで忠臣蔵と牧野省三の関係を見てみましょう。1910年の尾上松之助主演『忠臣蔵』(横田商会)にはじまり、1928年の『忠魂義烈 実録忠臣蔵』(マキノ御室)まで少なくとも10本以上の作品を牧野は製作しています。どれだけ忠臣蔵が好きなんですか、省三御大と言いたくなりますが、牧野自身が「忠臣蔵」を好きな理由を次のように書いています。


・・・死ぬまでにはもう二三度「忠臣蔵」を撮つてみる考へでゐます。・・・「忠臣蔵」という材料は永久に劇的要素をもつた面白いものだと思ひます。「忠臣蔵」なんかもう古いといふ人もありますが、時代々々の思想を透して見つめる時、その見方種々の異つた「忠臣蔵」を見る事が出来、これ程興味あるストリーはないと思ひます。
(牧野省三「近時随筆『実録忠臣蔵雑談』」『マキノ』第27号、1928年4月、〔『マキノ』復刻版第6巻163頁〕)


 『忠魂義烈 実録忠臣蔵』は牧野省三生誕50周年記念作品として製作されました。数十年のあいだに何度も「忠臣蔵」を製作した牧野省三がマキノ映画の総力を結集して一世一代の超大作を撮ることになったのです。この作品が出来上がるまでには多くの災難が重なりました。そのひとつは火災によるフィルム焼失です。撮影が終わり編集段階でフィルムが火災で焼失したものの、なんとか残存していたものを編集し、『忠魂義烈 実録忠臣蔵』は予定していた公開日に封切られたそうです。事の顛末は『マキノ臨時増刊 実録忠臣蔵号』(『マキノ』第28号、1928年5月、〔『マキノ』復刻版第6巻収録〕)に詳しいので是非ご覧いただければと思います。

 1920年代から30年代にかけて、映画はサイレント期の黄金時代を迎えました。そのなかにあってマキノ映画は多くの革新的な試みと実績を残してきました。しかし残念ながら、900本以上にのぼる作品のうち、現存するフィルムはその3%にも満たないというのが現状です。
 そのようななかで、昨年より立命館大学の冨田美香先生監修のもと、現存するマキノ映画ファン雑誌をほぼ網羅した『戦前期映画ファン雑誌集成 マキノ』の復刻をスタートいたしました。20種類にもおよぶファン雑誌には失われたフィルムのスチル写真やスナップ、スタッフの製作談やマキノ映画を支えたファンたちの声が溢れるばかりに掲載されています。今では観ることのできない映画の数々がここには多く残っており、マキノ映画の全貌を知る大きなきっかけとなることを願っています。
 これほど多くのファン雑誌が発行されたのには驚きますが、それだけ観客が映画を支え、映画が観客を支えていた時代だったのかもしれません。1920年代から30年代の熱気を感じる映画ファン雑誌。ここから当時の映画だけでなく、世相や風俗、大衆文化を覗いてみませんか。

デザインと明かり(編集部K・Y) 投稿日:2014/11/10

編集部のK・Yです。ハロウィーンの翌日から、街はもうクリスマス仕様へと様変わりし始め、拙宅にも早々に“自分へのご褒美”路線のクリスマス・ギフトのカタログが届いています。ここ数週間にわたって編集作業が山場を迎えていたので世間に疎くなっていましたが、今年も残すところあと2ヶ月を切ったのですね。
同時に欲しいものがあったことも思い出しました。テーブル・ランプです。ル・コルビュジェ好みだったことで知られるベルナール=アルバン・グラスのデザインか、バウハウスの金属工房主任だったクリスチャン・デルのデザインか……色はブラックとだけ決めて、あと数年は悩むことにしています。このランプに限らずプロダクトデザインやインテリアのショップでは、継続して商品化され続けているものと、最近になって復刻されたものと、その両方が主力商品になっているようです。

さて、〈叢書・近代日本のデザイン〉昭和篇の配本も残すところあと数回となりました。今回は舞台美術関係の文献が3タイトルあります。当然ながら、それぞれが演劇史の研究文献資料として重要なことは言うまでもありませんが、たとえば『舞台照明五十年』の著者遠山静雄は、4名の建築家、久米権九郎、蔵田周忠、土浦亀城、山脇巌が中心となった1935年の「等々力住宅区計画」(本シリーズ第54巻所収『等々力住宅区の一部』)に照明の技術顧問として参加しています。ただ、モノクロームの写真図版から、照明技術の革新性や効果を十分に読み取ることは素人には難しいのですが、デザインにおける光の存在に、まったく思いが及ばなかったことに気づきました。

デザインは、「デザインとはなにか?」という問いそのものがとても魅力的です。広範なジャンルにわたることによる危険性と常に紙一重ですが、人間がつくりだす以上、当然といえば当然かもしれません。

神様に出会うチャンス(営業部T) 投稿日:2014/10/08

 小学生の頃、アレルギー性鼻炎だった私は、学校が終わると、毎日のように耳鼻科に通っていた。そこで初めて、手塚治虫の「ブラックジャック」に出会うことになる。
週刊少年誌の連載だったが、小学生ながらに衝撃を受け、ほぼ毎日の通院が楽しくて仕方がなかったのをよく覚えている。
決してハッピーエンドで終わらないそれらの作品たちは、今思えば、手塚治虫の苦悩そのものがよく描かれていたんだと思う。

 さて、今回、10月24日に『手塚治虫の芸術』を刊行することになった。
一言で言えば、手塚治虫の人生と業績を一冊にまとめあげた本である。手塚治虫が手がけた作品の中から代表的な200タイトル超の作品が取り上げられ、手塚プロダクションの協力を得て、なかなか見ることのできない豊富な図版を中心に紹介している。

 なぜ、今、手塚治虫なのか?
今の若い世代の人たちは、手塚治虫の作品に興味などあるのだろうか?
最初は、そんな思いが頭をよぎったのだが、幸いにも、その答えをこの本の中に見つけることができた。

 序文で、漫画家でもあり映画監督でもある大友克洋氏がこんなことを書いている。
「今、日本の漫画は手塚治虫の始めた場所から遠くへと来てしまっている。・・・その極北の地にも細くはあるが手塚治虫の水脈はまだ流れていると、僕は思っている。」…と。

 手塚治虫は、1コママンガから長編マンガまで、生涯で700タイトルもの作品を手がけている。原稿枚数にすると実に15万枚という量である。これを単純計算で手塚の人生60年で割ってみると、生まれてから死ぬまで1日7ページずつひたすら書き続けてきた計算になり、その神様ぶりが窺える。

 今の日本のマンガを好む人たちにも、水脈を辿った先の水源にある手塚治虫のマンガを知ってもらうチャンスなのではないかと思う。そして、必ずや興味を持ってもらえるのではないか。だって、手塚治虫が亡くなってもう25年が経つというのに、今もなお、その作品たちは光り輝いているのだから…。

 この本の企画の話を聞いた時、冒頭の小学生時代の記憶がよみがえったのである。
この本は、懐かしい頃の記憶を思い起こしてくれながらも、まだ知らない手塚治虫の世界を知るキッカケをも与えてくれる本に違いない。
 マンガなんて、ちょっとしたキッカケで出会うこともあれば、通り過ぎてしまうこともあるように思う。この本が出ることによって、手塚治虫の作品たちに触れるキッカケになってもらえたらと思わずにはいられない…。

パラオ行(編集部K) 投稿日:2014/09/10

 「さて、どこにいこうか」と夏に入る頃から家人と相談していたのですが、なかなか決りませんでした。7月も末になって、「パラオ」というアイデアを私が出し、ようやく、方針が定まり、飛行機を押さえ、安くて良さそうな宿に予約を入れ、パラオ行が実現することとなりました。
 パラオと言えば、珊瑚礁の海、宝石のような島々、多様な生物で知られ、ダイビングやシュノーケリングを楽しむ人たちを惹きつけてやみません。
他方、日本が1922年から1945年まで統治した「南洋群島」の統治機関である南洋庁が置かれたところです。南洋庁による民政以前、1914年に日本海軍が占領してから軍政が敷かれていたので、日本の統治は31年とも数えられます。日本からの移住者も多く、一時期はパラオで4人に3人は日本人という状況でした。(南洋庁の施政の内容を知るには、小社刊行『南洋庁公報』があります。)
 実は、パラオに行こうと思ったのは、南洋神社の跡を歩いてみたかったからです。小社刊行『海外の神社』や『海外神社史』を見ると、1945年以前、日本人は出て行ったところに多くの神社を建てています。そして日本敗戦とともに日本人は去り、神社はなくなりました。多くは破壊されました。『外務省茗荷谷研修所旧蔵記録 戦中期植民地行政史料』の中に、敗戦後の神社の廃止についての史料が入っています。日本敗戦が決まって、すぐに現地の人々が壊しに来たようなところもあったようです。パラオの南洋神社は、米軍によって壊されたのでしょうか。
 到着した翌日、私たちはさっそく南洋神社の跡に出かけました。結局、木々が繁る山中の道の端に、橋と壊れかかった石の燈籠を確認したのみで、その先にあるという個人宅の庭に再建された祠までは確認しませんでした。ただ、そこに神社があったという雰囲気は充分に感じとることはできたと思います。
 コロールの町へ戻って、パラオ最高裁判所を見ました。この建物は、南洋庁パラオ支庁の建物です。2階建てですが、左右に翼を広げた鋭角の姿は迫力があります。ただ正面玄関の庇の下まで車の駐車場所になっているのが、ちょっと興ざめでした。最近、車が急増していて駐車スペースも不足気味とのこと。コロール市街の目抜き通りは夕方は渋滞します。なお、私が見た限りパラオには交通信号はありませんでした。
 翌日、地元観光会社のツアーに予約していたバベルダオブ島一周に出かけました。密林の中を車で走っていくつかの史跡を見るだけのツアーを希望する人は少ないようで、最低催行人数すなわち貸切でしたが、パラオ最大のバベルダオブ島は、面白いものがいろいろありました。西欧や日本統治以前の本来のパラオ人の文化の片鱗のようなものが見えます。村の集会所である「バイ」の最古のものや北端にある謎の石柱群など、じっくり見れば時間を忘れるぐらいです。それと、密林を貫くハイウェイを抜けて突然現れる新首都は美しい建物群でした。国会議事堂、最高裁判所、大統領府が広い敷地にそびえたっています。感心している私たちにガイドの青年が「この柱を叩いてみて下さい」と言います。その通りにしてみると、ポコポコと音がして少しへこみます。エンタシス風の柱の表面は合成樹脂か何かのようです。予算が少し足りなかったのか。
 ちなみに、いろいろな公共施設、橋、道路、博物館、水族館には、その建設に協力した国の国旗とパラオの国旗が並ぶ銘版が目立つところに貼られています。日の丸も多く、星条旗もありますが、一番多いのが青天白日満地紅旗です。パラオ共和国は、中華民国と正式に国交のある数少ない国のひとつです。街なかのショッピングセンターの3階にその旗がはためいているのを見ましたが、そこが大使館でした。
 なお、このバベルダオブ島では、1944年の米軍の空襲で町を焼かれたコロールの人々がジャングルに逃げ込んで自活生活をしたといいます。通信基地の廃墟や山中に置かれた高射砲が朽ちかけて南国の陽ざしのもとにありました。ただ、そこには、案内板や説明板がありません。枠だけが残っているところもありました。実は今まで述べた史跡や遺跡も同様です。
 ガイドの青年によれば、あるがままに余計な手を加えないというのが、パラオ流だそうです。土地は国のもので、土を掘り返すことが禁じられているのも、国土をそのまま子孫に伝えてゆきたいからでしょう。実は珊瑚礁の海や島についても、進入してはいけない区域など細かい規定が多くあるとのことです。
 旅の後半、その海を船で巡るツアーに参加しました。幸い晴れたこともあり気持ちのよい一日でした。帰国後、撮りためた写真を整理していて、さまざまな色や表情を見せるパラオの海や空や島をあらためて美しいと思いました。外国の不動産業者や観光資本がうごいているとも聞きましたが、この国の海や島々が今のままありつづけて欲しいと思います。

〝ソウタイ〟(営業推進部A) 投稿日:2014/08/05

 先日、個人のお客様からある書籍についてのお問い合わせのお電話を承りました。

お客様:かなり前に刊行された書籍なのですが、〝ソウタイ〟という本はまだ在庫ありますか?
営業推進部A:〝ソウタイ?〟ですか・・・?
お客様:掃除の〝ソウ〟に〝タイ〟は苔(こけ)という字の。
営業推進部A:〝掃苔!〟(あ、確かこの文字は在庫表にあったような?)
・・・在庫表を確認・・・ございます・・・。
恥ずかしながら、この時点で私は〝掃苔〟の読み方も意味も知らず、1984年刊行(30年前!)で、いつからか目録からは外れており、ゆまにHPにも登録されていなかったので、すぐにはお答えできませんでした。

 皆さんは〝掃苔〟という言葉をご存知ですか?
―(墓石の苔を掃く意)墓参り。特に、盂蘭盆(うらぼん)の墓参。(広辞苑第四版より)
補足―著名人や自身の尊敬する人の墓を参るのも「掃苔」と呼び、それを趣味とする人のことを「掃苔家」と呼ぶ。(はてなキーワードより)

 弊社刊行の『掃苔 全12巻』は名墓の保存を目的として会を重ねていた〝東京名墓顕彰会〟が、昭和7年11月一歩進めて後進に闡明するを目的として創刊した月刊雑誌を復刻したものです。昭和18年11月廃刊までの12年間分を各巻に収録しています。
 著名人の単なる墳墓に関する記事ではなく、数々の知識人が〝掃苔〟によって、(墓石の刻文を読み解くことなどによって)その名家の歴史を深く掘り下げ研究する学術雑誌です。それだけではなく、様々な面から墳墓についてを論じています。
 〝掃苔会〟も行われていました。例えば、

 【第三十二回掃苔会通知】 昭和十三年四月八日

一 日時 四月二十四日(日曜日)多磨霊園掃苔
一 集合地 多磨霊園事務所前に午前十時までに御参集ありたし・・・
一 講演 多磨霊園に就いて 東京市公園課長 井下 淸 君
一 会費 金五拾錢(供花料 寺院謝礼)
一 中食必ず御用意下さい(事務所にて突如御請求あっても応ぜられず)・・・
一 講演会場中食所は同所普賢寺の予定・・・
  (第7巻より)

 だいたい50人くらいのメンバーだったようです。各墓地を訪れ、静かに掃苔し、昼食の時などに熱く語り合う姿が目に浮かびます。

 この機会に皆さんも、興味のある人物の〝掃苔〟をしてみてはいかがですか?もしかしたら、何か新たな発見があるかもしれません。その前に御先祖さまの〝掃苔〟もお忘れなく!

 まだ多少在庫がございますので、ご注文も是非お待ちしております。

【ヒーロー】“アラーの使者”世代 著 投稿日:2014/07/08

 高校時代の日本史の先生が、「江戸時代後期、文化・文政のころの江戸に暮らした町人は世界史上でもまれにみる幸せな人たちだったのではないだろうか」という趣旨の話をしてくれた。
 豊かな食生活や衣生活、そして精神生活はなんとなく文学などから窺える。また、文化や学問教養についても、意欲とお金があれば相当なところまで行けたのではないかと思う。
 『膝栗毛文芸集成』に収録された作品には高尚な人物はあまり出てこないが、古典文学のパロディが出てきたり、各地の名物をはじめ豊かな食べ物が出てきて、時代を様子を垣間見せてくれる。とにかく庶民が旅を楽しむことができる時代というのは、平和でいろいろな意味で豊かなのだと思う。
 だが、日本全体が豊かだったのだろうか。冒頭の歴史の先生は「江戸に暮らした町人」という限定をつけている。領主の圧政や気候変動に見舞われる地方の農民、漁民、山の民(つまり私の祖先たち)などは、やはり厳しい生活を強いられていたと思われる。

 話はとぶようだが、同じ19世紀の日本で、近代国家をめざす明治日本の周縁を歩き、決して豊かとは言えない、あえて言えば悲惨な人々の暮らしを見つめ、そこからあるべき日本を考え、行動した男がいた。笹森儀助である。
 『我、遠遊の志ありー笹森儀助 風霜録』は、儀助の地元、青森県のジャーナリストが、史料を読み込み、儀助の足跡を追って実地踏査を試み、また各地の人に会って話を聴くことで、その生涯と思想に迫った一書である。著者は儀助の気持により近づこうと、儀助にならって西表島横断まで敢行し、山中をさまよってヒルやダニの歓迎も受けている。
 著者をそれだけひきつける儀助とはどんな人物だったのか。
儀助の思想については……、河西英通、小林和幸両教授が語る第九章「対談―笹森儀助の思想」の読めばよいことになっている。
 私個人としては、笹森儀助は明治のヒーローだったと思っている。かっこいいのである。維新前後、儀助は弘前藩士として活躍もし、また、藩内闘争などもあって数年間蟄居になっている。時代小説の主役のようだ。その後、県の役人として、たとえば任地下北で斗南藩士の生活救済のために行動している。正義のために働く青年官僚といったところである。しかし、三十代の中盤には、洋式牧場の開設に奔走する。岩木山麓に農牧社を開業したのは、儀助37歳、明治15年のことであった。4年後には東京芝に出張店を開設する。洋式牧場での牛乳や牛肉の生産、そして大都市での販売展開など、現代のベンチャービジネス経営者顔負けの才気と行動力ではないか。このまま大実業家になる可能性もあったと思われるが、年表の明治23年の項には「第一回帝国議会を連日傍聴」とある。ビジネスマンにはなりきれなかった。事業はまわりの人々にまかせ、明治24年には「貧旅行」と称して関西から九州を歩き、翌25年には千島探検に出かける。この探検の期間中に農牧社の10周年記念式典があり、社長の儀助は欠席。のち辞任が認められる。この任期途中でさっさとやめるというのは、儀助の癖といったもよいだろう。若い頃の県の官職も、のちの奄美島司も、また晩年(といっても57歳)就任した青森市長の職も同様に任期途中でやめている。ヒーローは安定を好まない。
 
 明治26年2月、千島探検の経験を著した『千島探検』を自費出版する。そして4月には面談した井上馨内相から南島探検の依頼を受け、5月に出発。儀助48歳のことである。その年に探検を終え、翌年5月、名著『南島探検』を出版する。この行動力は優れた諜報員のようでもある。その後の活躍は本書に譲ろう。

蛇足ながら、はじめ、笹森儀助が井上馨、品川弥二郎といった政府高官とつながりがあったことがちょっと意外な感じがした。しかし、在野で活躍するヒーローが実は政府の上層部と何らかの意思疎通があり、それが光と陰を生むというのは、ヒーローものの常道である。儀助と井上馨がお互いに腹に何か持ちながらにこやかに会談する場面を想像するのも楽しい。
なお、口絵に入っている写真は人物写真の傑作だと思う。着物の裾を端折って草鞋を履き、団扇をぶら下げ、右手に手ぬぐい、左手は拡げた蝙蝠傘の柄を握る。その姿は、明治を代表するヒーローだ。涼やかな眼差しがよい。

編集部だより(編集部T) 投稿日:2014/06/06

 6月に、プルスアルハさんの絵本『ボクのことわすれちゃったの? ─お父さんはアルコール依存症─』が刊行になります。
 絵本+活用のための解説、というスタイルの心理教育ツールである本書も、うつ病、統合失調症(前・後編)と来て、早くも4冊目となります。既刊分は好評にて再版となりました。

 今回は、「アルコール依存症」です。みなさんは「アルコール依存」と聞いてどのような印象を持たれますか? その多くは「意志が弱い」などの感想ではないでしょうか? 私も若干そういう印象を持ちながらも、仕事が進み解説などの打ち合わせを経ていくことで、「依存症」というのが実にやっかいな「病気」であることがわかってきました。「アルコール使用障害」という名称も使われており、実は最も罹患率が高い精神疾患なのです。
 飲酒を重ねることで、そのうちに自分の意志では飲酒をコントロールできなくなり、離脱症状が現れると苦しいので飲酒を繰り返す──という実に抜け出しにくい悪循環に陥ってしまいます。アルコール依存症の疑いのある人は440万、治療の必要なアルコール依存症の患者さんは80万人いると推計される、とのことです。ところが実際はその1/20の4万人しか治療を受けていません。

 依存者自身の体験などは多く語られますが、そのような親を持つ子どもはどうすればいいのでしょう。お母さんやお父さんがアルコール依存症になったら…、この絵本が正しい状況と病気の知識を、そして何より、子どもたち自身は何も悪くないと伝えることができるよう願っています。

国立競技場スタジアムツアー(編集部S) 投稿日:2014/05/08

 長らく東京に住んでいながら、これまで国立競技場に行ったのはたったの一度きり。サッカー、ラグビー、コンサートツアー、これらに縁がない私にとっては、行く機会がほとんどなかったのは、当たり前といえば当たり前かもしれません。
 しかし、取り壊されてもう二度と見ることができなくなる……となると、何やら落ち着かなくなり……「国立競技場スタジアムツアー」に参加してきました。
コースは、「東京オリンピック優勝者銘板~91年世界陸上優勝者銘板~更衣室~VIP席~貴賓室~聖火台 」で、所要時間1時間30分、料金1000円。普段は一般客が絶対に立ち入れない場所が目玉であるわけですが、私は競技場のトラックに下りられ、そこから客席全体を見渡せたことだけでも充分満足しました。テレビ中継ではフィールドを見下ろすことしかできませんが、選手からは客席、競技場がこんな風にみえていたのか、と。しかしこの光景も、数か月後には二度と見られなくなってしまう……。

 5月下旬に『スポーツ大図鑑』が刊行されます。本書にはオリンピック競技をはじめとする、一般の人が思い浮かぶスポーツは、ほぼすべて網羅されています。巻頭にはこれまで開催された夏・冬のオリンピックが個々に紹介されています。間もなく消滅してしまう国立競技場がメインスタジアムとなった1964年東京オリンピックについては、どんな事柄がピックアップされているでしょうか? ぜひ実物を手に取って、ご確認ください。