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ゆまにだより

初めての社員公募 ―創業四十周年を迎えて思い出す人々(4)(H・A) 投稿日:2015/10/09

 先月遂に可決してしまった安保関連法や原発再稼働問題、さらには沖縄の辺野古基地移転問題等々、安倍政権の強引な政権運営は国民の多くが疑問を持っている。安保関連法に至っては世論調査によれば国民の8割以上が反対意見である。安倍総理は国会答弁の中でしばしば国民の付託を受けた国会議員の大多数が責任を持って決めることは決めなければならないと強調するが、我々はいずれの法案についても現国会議員に全面的に付託した覚えはない。現在の与党議員は国民の付託を受けて国会議員になったのであれば、権力者の顔色ばかりうかがって、主権者である国民にしっかりと対峙していない。恥ずかしくないのであろうか。これらの法案や法律は、もし仮に国民投票を行えばいずれも確実にNOの判断が下されるであろう。何故現政権は国民の多数が反対する方向へ進もうとするのか。民主主義とは、立憲主義とは何であろうか。丸山眞男は先の戦争を振り返って「戦争は静かにゆっくりとやってきた」と語っている。きっと近い将来、「我が国はあの時からゆっくりと戦争への道を歩んでしまった」と歴史学者は証言するのだろう。
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 昭和天皇が亡くなられて、年号が昭和から平成に変わった時もなんとなく嫌なムードが世間に漂っていました。社会全体が自粛ムードに溢れ、多くの大学の授業は休講になり、中・高の修学旅行も中止、お祭りや町内会のお祝い事も全て行われませんでした。

 ゆまに書房はそんな中で、平成元年1月、朝日新聞と読売新聞に社員募集広告を掲載し創業以来初の社員公募を行いました。当初果たして何名の応募者があるのだろうか不安でしたが、驚いたことに約1,000名弱の方から応募の履歴書が送られてきました。会社は書類選考の結果50名を選出し、急遽大手町にある農林中金の会議室を借りて筆記試験を行いました。もう27年も前のことですので、どのような試験問題であったかは忘れてしまいましたが、採用の要件として一番重点を置いた点は、試験点数よりも受験態度でした。試験中の必死な態度や休憩時間中の過ごし方に注意を払いました。そして、その中から20名に絞って面接を行いました。その結果、編集部員3名、営業部員2名を新規採用しました。しかし、営業部員として採用を決定した2名の内の1名が、他社の募集にも応募していてそちらも採用が決まったので弊社は辞退したい旨の返事がありました。そのため翌々月の3月再度営業部員のみ募集して2名さらに追加採用しました。

 この時新しく採用した編集部員はいずれもが優秀で、現在の編集部の基礎を築いてくれました。ゆまに書房のニュー編集部は従来の近世文学や近代文学、歴史、地誌等のジャンルに加え、新ジャンルの企画を次々と立案してくれました。現在もゆまに書房の主要ジャンルの一つである美術や映画関係の企画や言語学や絵本関係の企画は平成になって生まれた新しい企画でした。代表的な企画は『近代美術雑誌叢書』(第Ⅰ期 全23巻・別冊6、平成2年刊)、『近代美術関係新聞記事資料集成』(マイクロフィルム全71リール+別冊1、平成3年刊)、『戦前映像理論雑誌集成』(全21巻、平成元年刊)、『今村太平映像評論』(全10巻、平成4年刊)、『新興芸術・新興芸術研究』(全6巻、平成2年刊)、『日本列島方言叢書』(全34巻、平成2年刊)、『近世蘭語学資料』等々です。「ゆまに/のん/ふぃくしょん」を創刊したのもこの時期です。『白洲次郎の日本国憲法』(鶴見紘著)、『新・パパ、スカートはいてよ』(竹中美弘著)、『白い犬とワルツを』(三木卓翻訳)等々、今までにない一般書を次々と刊行しました。さらにビデオ商品も開発しました。『21世紀の仕事』に続いて『名作ってこんなに面白い』は人気ドラマ「時間ですよ」や「寺内貫太郎一家」などを演出、作家でもあった久世光彦氏が経営していたカノックスと提携して製作した日本文学のストーリーを紹介した短編ドラマです。本商品はその後DVD化し現在でも多くの読者に要望されおり、我社の最大のロングセラーになりました。
 この第1回社員公募で入社してきた編集者の一人に奥寺純子氏がおりました。彼女は青森高校、ICUを卒業し24歳で入社した才媛でした。彼女はとても仕事が早く、仕事に情熱を持っていました。大学で言語学を専攻していた関係もあって、ゆまに書房では国語学や方言、英学の他、文学関係の企画に力を発揮しましたが、絵本も担当したいと常々嘆願していました。ある日「ぜひ読んでいただきたいのですが」と渡された文庫本が『白い犬とワルツを』でした。これを絵本にして刊行したいと訴えてきました。これまで絵本は一度も出版したことがありませんでしたので大変迷ったのですが、「絶対に出したいのです。必ず売れます」と引き下がりません。結局彼女の情熱に負け、絵本に挑戦してみようということになり、芥川賞作家・三木卓氏に翻訳を依頼して刊行しました。本作品は同時期偶然にも映画にもなり我社にとっては単行本としてこれまで最大のヒット作になりました。
 しかし、2002(平成14)年、彼女は3歳の子供を残して胆管癌で夭折してしまいました。前年の9月ごろ帰宅途中急に異常を訴えて中央線のある病院に駆け込み入院したのですが、大病院の方が良いと判断して、知り合いの先生がいたお茶の水駅に近い東京医科歯科大学付属病院にすぐ転院させました。その年の暮れ、会社の忘年会が始まる前に病室をのぞいた時にはちょうど洗濯をしていて、思ったより元気な姿で動き回っていて安心していたのですが、翌年3月30日あっという間に亡くなってしまいました。癌を宣告されてわずか半年後のことでした。39歳の若さでした。現役の社員を失うことはこんなにも寂しく無念なことなのだろうか。初めての体験でした。家族の方と社員たちで葬儀を行い、1周忌には眠っている青森の墓前に社員全員でお参りに行きました。
 彼女が残した多くの作品は今でも稼働しています。
奥寺純子という一編集者がこの世に確かに存在した証しでもあります。

「承業」の重み(編集部K・Y) 投稿日:2015/09/08

 出版部のK・Yです。今回は8月に刊行した『竹中工務店建築写真集』について、タイトルに掲げた「承業」(しょうぎょう)という耳慣れない言葉をキーワードに、編集しながら感じたことなどをお話ししようと思います。
 株式会社竹中工務店の創業は、誤解を恐れずに言うならば、慶長15年(1610)と明治32年(1899)の二度です。それにはごく簡単に書くと次のような背景がありました。まず前者は、尾張織田家に仕える普請奉行であった竹中藤兵衛正高が、天正10年本能寺の変の後、織田家再興の道が断たれると刀を置いて市井の人となって工匠の道に活路を求め、慶長15年から始まる名古屋城築城に大工棟梁として携わるほどの地位を築いたことに由来します。つぎに後者は、明治政府の殖産興業政策によって重要な貿易拠点として発展しつつあった神戸に、14代竹中藤右衛門が「竹中藤五郎神戸支店」の看板を掲げ、欧米の建築技術を習得し近代建築業者としてスタートを切った年に当たります。それぞれの細かい経緯については所収の解説をご覧頂きたいのですが、いずれも激変する時代の変わり目に、決して平たんではない道のりを、新たに挑戦することで切り抜けてきた一民間企業の足跡が浮かび上がります。
関東大震災から戦時下の建築統制までに設計施工した代表的な建物を収める5冊の写真集。その最初となる大正13年刊行『承業弐拾五年記念帖』は、関東大震災からの復興を受けて編纂された社史ともいえるものです。本書の序文で竹中藤右衛門氏は次のように語ります。「回顧スレバ承業二十五年ノ担当ノ工事大小幾千ト云フヲ知ラズ、今茲ニ其一部ヲ収録シテ過渡期ニ於ケル建築変遷ノ後ヲ窺ヒ一ハ半生ノ苦労ヲ記念シ一ハ将来ノ修省ニ資セントス」。ここには、それまでの事業を受け継ぐと同時に、次へ向かうために必要なものは自らの経験・蓄積のなかに見出せるものだというメッセージが込められているように思われました。
弊社の近くにも、写真集に掲載される建物が現存しています。そのなかの一つ、昭和初期のオフィスビルの最高峰で初めて国の重要文化財に指定された明治生命保険株式会社を、編集作業も終盤にさしかかった8月最初の週末に見学しました(無料一般公開)。この建物は今でも明治安田生命保険相互会社の「丸の内お客様ご相談センター」として現役なのですが、ちょうど70年前、第二次世界大戦の後にはGHQによって接収されアメリカ極東空軍司令部(FEAF)として使用されていたという過去があります。米・英・中・ソの4ヵ国代表による対日理事会(ACJ)の第1回会議(昭和21年4月5日)でD.マッカーサーが演説を行った会議室も観ることが出来ます。壮麗な建物とそこで繰り広げられる日常、刻まれた歴史―「歴史認識」とは何かを厳しく突きつけられ、日に日に強まる閉塞感のさなかにあってもなお、歴史をないがしろにせず、それを継承することの重さを個人のレベルでしっかりと受け止めなければならない最後の時代に私たちは生きているのではないか―監修者・石田潤一郎先生の「一企業の活動記録をはるかに超えて、建築とその時代の変貌を伝える物語」との言葉を思い出して、素人なりにこの国の行く末を案じつつの建築探訪となりました。
ちょうどこのメールマガジンの原稿を書き始める前の日、『スサノヲの到来―いのち、いかり、いのり』展を観に渋谷区松濤美術館へ出かけました(9月21日まで)。建築に関心ある方にとっては、この美術館そのものが白井晟一の作品で、大変見応えに富む内部空間をもつ建物ということは周知のことと思います。その瀟洒な気配に満ちたひとつの空間に、荒ぶる自然神であり和歌の始祖としての繊細な美意識を兼ね備える「スサノヲ」の、縄文土器にはじまる造形の歴史と、近代の田中正造・南方熊楠・折口信夫らの活動が「スサノヲを生きた人々―公憤としての清らかな〈いかり〉」としてくくられて、地続きのものとしておかれています。建築が人間の憤りを未来へのエネルギーに変換して抱え込んでいる、とでも言いたくなるような展覧会ですので、こちらも実際に足を踏み入れていただきたいと思います。

編集室だより(編集室T) 投稿日:2015/08/10

 今年は戦後70年である。6月に10年越し(諸事情により…)の企画であった『戦争の記憶と女たちの反戦表現』刊行した。女性作家が「戦争」という事実に、戦後どのように表現で向き合ったかを検証する論文集である。<「核」の時代と向き合う>という章があって、4本程、大田洋子などについての論文が収められている。

 10年ほど前に、『こころとからだの処方箋』という心理学のシリーズで、当時広島国際大の学長であられた上里一郎先生に監修をお願いした。先生は月に1度ほど上京されるのだが、その毎にお会いしてお話しする機会を得ていた。仕事の話は最初の10分程度、あとはほぼ雑談である。臨床心理学の権威で、一流のカウンセラーでもあるので、お話していると実に穏やかな気分になる──とにかく魅力的な方だった。
 1度だけ、広島を訪ねたおり、食事の際に「原爆資料館には行かれましたか?1度だけでいいですので行ってみてください。非常にヘヴィですからね、私たちだって何度もよう行きませんから」と言っていただいたのだが、その時は
寄らずに過ごしてしまった。
 2011年に先生は亡くなられて、その年末12月25日に広島でお別れ会があり、その言葉を思い出して資料館に寄ってみた。展示のなかに爆心地を中心に据えたジオラマがあって、破壊の規模が分かるようになっている。それから外に出て、ぐるりと四方を見廻すと、さらに本当によく分かってゾッとするのである。
 
 話は変わるが、その心理学のシリーズを担当していたのが遠因で、心理教育ツールの企画制作と普及活動をしている、プルスアルハさんの絵本を出すことになった。親がこころの病気であることを子どもにどう伝えるか、というテーマで、①うつ病/②③統合失調症/④アルコール依存症と、順調に刊行を続け、版を重ねている。
 子どもの側からとなるシリーズ「子どもの気持ちを知る絵本」も刊行を始め、9月には第3巻となる『発達凸凹(でこぼこ)なボクの世界―感覚過敏を探検する―』を刊行予定である。①では不登校、②では家庭不和を扱った。「子どもの気持ちを体感し、かかわりのヒントにしていただく」というのがコンセプトである。この絵本が少しでも多くの子どもと親御さんに届くことを願ってやまない。

“ゆまに”について(営業部A) 投稿日:2015/07/17

 6月の終わりに、紫陽花でも見に行こうとふと思い立ち、府中市郷土の森博物館を十年ぶりに訪れてみた。
入場料200円を納め、30℃超えの真夏日の中を“あじさいマップ”片手に園内をひと回り・・・日陰に咲く花はまだ綺麗なものもあったが、日向に咲いているものは、もう見ごろを過ぎていて、紫陽花は6月半ばくらいまでの梅雨らしいジメッとした雰囲気の中で一番映えるな・・・と残念に思いながら観賞を終えた。

 せっかくなので、博物館の常設展示室や、園内に立ち並ぶ復元建築物も見学していたら、“ゆまに”に通じる発見があった。

 旧府中尋常高等小学校の中に、府中出身の現代詩人、村野四郎記念館がある。ここでは、村野四郎の生い立ちや、彼の作品が生まれた精神的背景が展示されている。
 「実存主義」「ヒューマニズム」・・・どこかで聞いたような・・・。

 村野四郎の詩には、『巣立ちの歌』や『ぶんぶんぶん はちはとぶ』など、子ども向けに親しみやすい作品もあるが、新即物主義(1920年代後半にドイツに興った文学・芸術運動。新現実主義・新客観主義ともいう。・・・簡潔に事物に即して描こうとする新しい現実主義。広辞苑第4版より)の客観性に惹かれ、「実存」「人間存在の本質」を追求した、暗い翳をおびながらも行動的な勇気に満ちたものが多い。代表的詩集は『亡羊記』。
 弊社刊『コレクション・都市モダニズム詩誌 第6巻 新即物主義』にも、村野四郎が創刊した詩誌『旗魚』などが収録されている。

 さて、ゆまに書房の“ゆまに”の由来であるが、簡単に説明すれば、弊社HPにもあるように、「HUMANISME ユマニスム」(フランス語で人文主義)の意味である。
少し前に社内の会合があり、創業者に“ゆまに”の由来を改めて直接尋ねてみたところ、「実存主義からきてるんだよ。」あれ~人文主義じゃないのかな・・・「サルトルのことばだよ」〈実存主義はヒューマニズムである〉。
 そう、“ゆまに”・・・ひらがなのやわらかい感じで音も可愛く気に入っている社名であるが、哲学的要素を含んだとても奥深~い社名なのである。
 
 今回の紫陽花見学が社名をまた深く考えることになるきっかけとなった。

 “ゆまに”社名の由来の詳細は、不定期連載中の『創業四十周年を迎えて思い出す人々』のどこかで、“H・A”がきっと説明してくれるだろう。

書道と私(編集室K) 投稿日:2015/06/15

 小学生のとき、書道塾に通ったことがあった。悪筆で、落ち着きのない子には一石二鳥の習い事と親は考えたのかもしれない。両親はそれぞれちょっと字には自信があり、その親のもとに生まれた子がこんな字を書いていると失望していたようだ。
 大きな体育館のようなところで行われた大会に出たことがあった。前日の夜に、試しに書いてみたらあまりにひどい出来だったので、目を釣り上げた母に夜遅くまで特訓された。翌日、何とか務めは果たしたが、それ以降の習字に関する記憶がないので、嫌気がさしてやめてしまったのだろう。
 大正生まれの父は、今は施設に入っている。顔を出すたびに廊下の壁に貼り出された毛筆の半紙の中に父のものを見つける。「なかなかいいじゃない」などと一応褒めるのだが、決まって「あれはちょっと気に食わない」とか「あの字は書きにくい」などと答える。「本当はもっとうまい」と言いたいらしい。しかし、もし、父が一世一代の自信作を書いたとしても、申し訳ないが、私にはその良し悪しはわからないだろう。

 斯様に書道に縁のない私が、『王羲之王獻之書法全集』の日本版にちょっと関わることとなった。「王羲之」の名は、塚本邦雄が熱烈に語っている文章で初めて目にしたと思うが、二十代の私は興味がわかなかった。しかし、今、どう見たらよいかはわからないものの、写真版、それも原寸大のカラーの作品を見ていると何だか圧倒され、また楽しく感じられてくる。
 5月の末、監訳をお願いしている河内利治先生の御作品を拝見する機会を得た。「書索展」というグループ展が有楽町マリオンで開かれていて、参上した。書の作品を、時間をかけて見るのはほとんど初めてのことだった。いろいろな先生方の作品を見ることが出来、書の世界の深さと広さを思った。
 王羲之は、その広い書の世界の北極星のようなものだろうと思う。4世紀、日本では邪馬台国と大和朝廷の間の時期、中国にはこうした人物がいたことはやはり驚きである。文化というのは、時代と才能がよい条件のもとで出会ってはじめて開花するのであろう。
香り高い文化にちょっと酔っていた矢先、以下のニュースが目に飛び込んできた。

 文部科学省は27日、全国の国立大学に対して人文社会科学や教員養成の学部・大学院の規模縮小や統廃合などを要請する通知素案を示した。(産経、2015.05.28)

 調べてみると、以前からの動きらしいが、本当にそれでよいのだろうか。科学や技術ももちろん大切だが、古今東西の文化、文学、歴史、思想、社会を研究する人々が、大学には居て欲しいと思う。文科省は「社会の要請」と言うが、本当なのか。世界の富の半分近くを持つ1%の人々の利殖の対象にならないものは不要ということではないか。何だか寂しい社会がやって来そうである。
 仕事の場から身を退く日が来たら、残る時間を王羲之の書を一つ一つ眺めながら、文化の薫りにひたって暮らしたいと思う。

腐れ縁 ―創業四十周年を迎えて思い出す人々(3)(H・A) 投稿日:2015/05/12

 去る5月2日、現役の社員とOBの有志が集って創業40周年を祝う会が和やかに開かれました。久しぶりに懐かしい顔も見ることができ、その年齢を重ねた姿を見ると40年という歳月の長さを改めて感じられました。

 出版社の仕事は多くの企業や人の助けを借りなければ成り立ちません。出版社の設備は本当に些細なもので、最大の設備投資は「人材」です。特に、著者や取次・書店との付き合いは創業年数を重ねるほどに深くなり、出版社を含めてしばしば三位一体と称されます。

 しかし、忘れてならないのはそれを裏で支えている業者の人たちです。印刷所や製本所を中心に、紙屋、折屋、丁合屋、組版屋、製版屋、箔押屋、凸版屋、製函屋、クロス屋等々、様々な数多くの仕事に分業されており、出版業はその人たちの助けがなければ成り立ちません。ゆまに書房も例外なく多くの業者の人たちに支えられて40年を大過なく送ることが出来ました。

 その人たちの中でも特に忘れることのできない人物の一人に、古賀洋二氏がおります。

 1980(昭和55)年の正月、約半年の休業を終えて再スタートしたゆまに書房は、出版を続ける傍ら自社の出版物のみでは会社の運営がかなわなかったため、他社の出版物の編集業務等を引き受けることにしました。「落語雑誌の編集」や、1日4時間作業を行って四百字詰め原稿用紙が1枚ぐらいしか出来上がらなかった「老人の寝床における口述筆記」(あれは果たして完成したのだろうか?)。さらには「少年野球誌の創刊」等あらゆるサイドビジネスを請け負いました。それらの中でも最も大きな仕事であり、とても印象に残っているのは、あの飛脚のマークで有名な「佐川急便の会社案内用パンフレットの製作」でした。A4横判・32ページ・総カラー/100万部発行、デザインから印刷・製本までの失敗の許されない大仕事である。この時タッグを組んだのが古賀洋二氏です。また、会社にタイプレス(タイプと電算写植の中間的組版機で一時期版下作成の主流的存在であった)を設置するとともに、数人の内職の人たちを使って組版の仕事も副業で行いました。今想えば、この仕事が一番つらく、大変だったような気がします。とにかく雑誌の締切が厳しく、朝まで仕事をして、朝一番電車のホームでお客さんに版下を渡したことも1度や2度ではありませんでした。その割には薄利で、この労働を本業に注ぐことが出来ればと何度も社内で語り合ったことは今でも忘れられません。その後、この仕事も全面的に古賀洋二氏に引き渡しました。

 古賀氏との再会は突然やってきました。会社を4年前に倒産して行方をくらませていた古賀氏から突然電話があったのは、1980(昭和55)年3月か4月の頃だったと思います。「20万円の小切手を貸して欲しい」とのことである。「何に使うのか」と問い質すと、「再び会社を立ち上げたいのだが、敷金がない。用立てて欲しい」という。「なぜ小切手なのか?」「お前も金がないだろうから、街の金融に行って現金化する」のだそうだ。1か月後には必ず現金をつくってその小切手を返却する」。私は彼を信用して20万円の小切手を渡しました。だが、期日がきても一向に現金を持ってこない。決済期日の2日後、スキンヘッドのお兄さんが二人会社に押しかけてきました。仕方がないので現金20万円を渡してその小切手を取り戻しました。その後まもなく彼はバツが悪そうに借金を返しにやってきましたが。それが古賀氏との腐れ縁の始まりでした。

 古賀氏は、会社が倒産する以前は自社工場を持つ印刷会社の社長でした。5年ぶりに社会の表に顔を出したのだが、できることはやはり印刷関係の仕事しかありません。再出発後も印刷会社のブローカーを始めました。以来、妙に古賀氏とは気が合い、ゆまに書房も彼に多くの仕事を回すようになりました。彼は感心するほど良く働きました。朝6時に家を出て、先ほど述べた多くの下請け業者を回りながら8時には出社し、忙しく会社を切り盛りしていました。飲酒は大好きなのだが少々酒癖の悪いところがあり、外での飲酒は控えていました。だが私には気が許せるのかしばしば二人で飲み歩きました。そして経営の話や家庭問題の話などいろいろ語り合いました。そして、長い付き合いのあいだには兄弟以上の付き合いになっていました。印象深いのは、ゆまに書房が労働組合争議で大変な時は弊社の顧問弁護士とともに自分から志願して弊社の組合担当部長を引受けたり、彼が病で長期入院せざるをえなかった時は、弊社の社員を彼の会社に出向させて助けたりと、互いに急場を凌ぎあう程の仲になっていました。

 ところがある日、点滴の袋をぶら下げた器具を引きずりながら青焼きを届けに会社にやってきました。「どうしたのだ。そんなことしていたら本当に死ぬぞ」と諭したのだが、「なーに、大丈夫さ」と何事もないようにガラガラと点滴用の器具引きずって帰っていきました。しかし、それから1週間後の早朝、彼の奥さんから訃報の電話が鳴りました。49歳の若さで胃がんのため突然この世を去ってしまいました。この時ほど人生の不条理を感じさせられたことはありませんでした。彼の死後、せめてもの彼の無念の気持ち察して残された家族を債権者から守ろうと決意し、私は共通の友人と共同で債権者会議の委員長を務めました。


 ゆまに書房はその間、1982(昭和57)年5月、山京ビル取り壊しのため退去をし、山京ビルに程近い千代田区内神田2丁目に新築されたセントラル大手町ビルに引っ越しをしました。本業である出版業も徐々に軌道に乗りはじめ、『内田魯庵全集』(野村喬編・解説、全16巻・別巻1)や『未刊史料による日本出版文化』(彌吉光長著、全8巻)、『対訳中国歴史小説選集』(徳田武編集、全19巻)、『青木鷺水集』(小川武彦編集、全5巻・別巻1)等々を順調に刊行しました。

 当時の刊行物では『蜀山人未刊資料集』(朝倉治彦編、全3巻)が特に印象深く思い出されます。本書は当時近世文学研究界の大御所的存在だった浜田義一郎先生(大妻女子大学教授)に監修をお願いして企画を進めていたのですが、高齢もあって寝床にふさぎがちでした。先生との打ち合わせはいつも飯田橋にあったご自宅の先生の寝床でした。枕元でこれまでの進行状況を説明し、先生のご指示をうかがって資料を収集しておりました。そしてそれらの各資料について先生が詳細な解説を執筆することになっていました。企画を立ち上げて約3年位経過し、刊行を目前にしていた時でした。ある日いつものように先生にお会いに行くといつもと様子が違うのです。何か失敗をしたのでしょうか。突然「この企画は中止にしたい」と告げられました。突然のことで大変戸惑いました。「3年も時間を費やしてきたのに、何故でしょうか?」と尋ねると、ある人の紹介で「某大手の出版社から出版することにした」と話されました。愕然としました。先生の意志は固く、浜田先生の解説はあきらめざるを得ませんでした。そしてこれまで創立以来懇意にさせていただいていた朝倉治彦氏にピンチヒッター的に解説を依頼して6か月後に本企画を刊行しました。この時ほど小出版社の悲哀を感じたことはありませんでした。

 しかし良いことも沢山ありました。書誌書目シリーズも№10『江戸本屋出版記録』の刊行を機にセット化して、紀伊國屋書店営業総本部の重点販売商品に取り上げていただき大きく部数を伸ばすことになったのも昭和57年のことでした。そして翌年の1983(昭和58)年、本社から1時間ほどの距離にある茨城県守谷市に倉庫を建てることになりました。初の自社所有不動産であり、現在では第3倉庫まで大きくなったロジスティックセンターの始まりでした。創業から8年の月日が経っていました。

新年度に寄せて(営業部H・K) 投稿日:2015/04/10

 春爛漫のみぎり、時節柄社会人1年生と思しき若者を目にします。
 思い起こせば29年前、私も学生生活を終え、京都のある出版社でその第1歩を歩み始めました。
 研修の後、書籍営業部に配属されたのは、もう5月に入っていたでしょうか?
 最初の営業促進の仕事は前年に初めて刊行された児童書セット(全10巻)の販売促進で、ちょうどこの時期が、小・中学校の図書選定が本格化する頃でした。当時は学校
に出入りされている書店さんが、児童書の出版社が集まって作る巡回グループの担当出版社と小・中学校を巡回販売するのが普通でした。しかし、私が入社した社は児童書に初参入だったので、どのグループにも加盟しておらず、単独で公共図書館等へ巡回販売をすることになります。
 単独での販売促進は苦労でしたが、業界に入ってすぐに直接読者の反応を感じる機会を得たこと、またこの児童書セットが好評で、数年で実売が1万セットを超えたこともあって、その後出版営業という仕事に携わる私に自信めいたものを与えてくれました。

 さて、少子化が叫ばれて久しい昨今、廃校となる公立学校(小・中・高・特別支援学校)は平成24年度が598校、25年度が482校に及んでいます。平成14年度から25年度に廃校した数は5801校になります。
 廃校の数は学校・図書館向けに作った児童書が売れたかもしれない冊数の減少分でもあります。
 あるフリーランスの編集者にお聞きした話ですが、今まで児童書を刊行していなかった出版社から「児童書に進出したいので」と相談されることが立て続けにあったそうです。
 少子化の影響と出版社間の競争で、益々児童書は売りづらくなって来ているにもかかわらず、何故出版社が児童書の世界に進出しようとするのか?
 それは大人世代が次世代に託したい強い思いがあるからではないでしょうか。その思いを本として伝えることに、出版の意義を見出しているからではないでしょうか。
 
 5月、ゆまに書房は『知っておきたい障がいのある人のSOS』全5巻+別巻1巻を刊行します。
 現在、日本人の約17人に1人が何らかの障がいを持っていると言われています。さらに、この数字に発見されにくいうつ病やストレス障がい、そして発達障がいまで含めますと、それ以上の障がいのある人がいると予測できます。
 一方では、障がいのある方々が危害を加えられるという心無い事件も発生しています。
 本書では、障がいを持った人が困った時にどのようなSOSを送っているかを分かりやすく解説し、また、まわりの人がどのような手助けができるかを、さまざまな障害を持つ人別に巻ごとに分けて紹介しています。
 また、別巻では「東日本大震災」で被災された障がいのある方々の暮らしや、抱えているさまざまな問題点とその解決方法を考えます。

 世の中が便利になったとはいえ、福祉機器は万能ではないので、まわりの人たちの理解や思いやり、ちょっとした配慮が大切であることを、多くの子どもたちにこの本で知っていただきいと思います。

社史の復刻に携わって(編集部E・Y) 投稿日:2015/03/13

 社史は経済史、経営史の重要な資料であるが、それだけにとどまらない。復刻を始めたきっかけは、「会社史の「古典」を読む」(『経営と歴史』第5号、1982年)という特集記事である。気鋭の経営史研究者による鼎談を、わくわくしながら読んだのを思い出す。その中で特に社史古典中の古典『花王石鹸五十年史』(小林良正・服部之総著、『社史で見る日本経済史 第3巻』に収録)に出会ったときは、映画スターに出待ちで逢えたような気分だった。服部之総といえば、戦前の日本資本主義論争で超有名な歴史学者。その人が情熱を傾けて書いたものであることを知ったのだ。
 
 『経営と歴史』上掲同号には「日本の会社史100選」というシリーズの1回目も掲載されていた。まだ高度成長のただ中にあった1980年代は、多くの会社が社史を刊行し、自社のアイデンティティーを確立しようとした時代である。社史の研究が飛躍的に進み、経営史研究者たちも、沢山の社史から良書を紹介しようとしたのであろう。

 社史にかかわっていく中で、社史の魅力のもう一つに出会う。社史の「トリビア」ともいうべき楽しみである。文具・オフィス家具のトップメーカーの「コクヨ」という社名が、大正期に「国誉」という商標を用いたことから来ることを知る人は少ないであろう。「ニッカウヰスキー」が「大日本果汁株式会社」の略称「日果」であったことは、朝のテレビで広く知られるようになったが、「エーザイ」が「日本衛材(衛生材料の略)株式会社」であったことはやはりあまり知られていない。社史はまた社会史に通じる面白みもある。「イムラ封筒80年史」を読むと、最近まで郵便小包で使われていた針金と紙の荷札は、洋紙の国産化が始まった明治期にさかのぼるが、それ以前は木札に紐を通して縛っていたのだそうである。

 仕事を通じて親しくさせていただくようになった社史研究の第一人者、村橋勝子さんはしかし、社史の「トリビア」を単なる「トリビア」に終わらせない。彼女は「社史は“経営の生きた教科書”である」(『「カイシャ」意外史 社史が語る仰天創業記』(日本経済新聞社刊、2008年)と言う。社史は単なる過去の歴史ではなく、今を生きる会社の指針となるものなのだ。

 私の社史復刻も、重厚長大の基幹産業から始まり、最近では百貨店やメディア産業の社史の復刻が多くなった。産業構造の変化とともに歩んだ企画であったとの感懐を深くするとともに、この春、このシリーズがわが社の若い編集者にバトンタッチされ、第Ⅵ期として装いも新たに、映画・演劇の分野の社史の復刻が始まる。乞うご期待のほどお願いする次第である。

突然の訪問者―創業四十周年を迎えて思い出す人々(2)(H・A) 投稿日:2015/02/10

 人は誰でも齢を重ねると今までとは異なった景色が見えてくるようになります。かつては
さり気なく通り過ぎて行ったものが大変興味深く思えてきます。それは一つの芸術なのかもしれません。
 ゆまに書房も四十年の間に大きく出版物が変化を遂げ、多くの人との出会いがありました。

 1975(昭和50)年5月に創業したゆまに書房は、当初の十年間は近世文学を中心に出版活動を続けました。処女出版は同年10月に刊行した『五世市川団十郎集』(日野龍夫編・解説)です。『近世漢詩人大系』の刊行は中村幸彦先生のご都合で長引きそうだということで日野先生が書き留めていた原稿を提供しても良いということで実現しました。
 『五世市川団十郎集』の発行作業は緊張の連続でした。すべての業務が初めてのことです。底本所蔵機関との出版許可交渉や撮影のためのマイクロ業者の派遣は『編集の手引き』にも載っておらず、さらに印刷会社や製本会社との取引開始業務は若輩者にとって想像以上に大変でした。特に紙の購入は困難を極めました。紙は薄利多売なので、それ相応の信頼がなければ買うことができません。今では日常茶飯事のように電話一本でやり取りしている全ての仕事の基礎はこの時築かれたのかもしれません。

 翌1976(昭和51)年3月、二冊目の『せわ焼草』(米谷巌解説)を刊行。本書は貞門俳諧の俳言を分類収録したものですが、近世初期の俗語が多く収められており、俳文学研究ばかりではなく国語学研究にとっても貴重な資料です。
 我々は米谷先生にお願いして本書の巻末に類書との同一語・同義語・類義語の有無をも記した語彙索引を附しました。この作業等の丁寧な編集作業・本づくりが認められて、書誌学者・谷沢永一氏に『完本紙つぶて』(文芸春秋社、1978年8月)のなかでゆまに書房の創業を絶賛していただきました。
 これまで貫いてきた姿勢が認められたことは我々にとって大変栄誉であり、私たちの勲章でした。

 同年5月『戯作者考補遺』、7月『小説三言』(尾形仂監修・解説)を刊行後、現在シリーズ№107まで続いている「書誌書目シリーズ」がスタートしました。
 第1弾は№1『高潮』と№2『あふひ』を同時に二冊刊行しました。両書は、明治後期、大槻如電や朝倉無声等当時書誌研究者らが執筆する書誌学雑誌です。特に、「蔦屋重三郎伝記と出版書目」や「旧幕府の出版条例」等々は貴重史料であり、高度な江戸軟文学研究雑誌です。

 そしてその年の10月のことでした。ある紳士が突然狭い事務所に訪ねてこられました。差し出された名刺には「中央公論社専務取締役 高梨 茂」と書かれてありました。
 氏は江戸モノが好きで、「江戸関係の本を立て続けに出版するゆまに書房とはどのような会社なのだろう?」と、興味を持たれて突然訪ねてこられたとのことでした。あまりにも狭い事務所とあまりにも若い編集者に驚かれた様子でしたが、大変丁寧に、そして優しく私たちに接してくださいました。出版に関する経験談や江戸文学の面白さなどを一時間ほど話されたと思います。
 その会話の中で、氏が「本当に好きな本だけを出版していたいのであれば、人数は増やさない方が良いですよ。まあ、三人ぐらいが理想かもしれません。」とおっしゃったことが今でも強烈に覚えています。そして帰り際に、「今度我社に遊びにいらっしゃい」と告げられて席を立たれました。

 初めての刊行以来企画は順調に進みましたが、営業面がまったくの素人で芳しくありませんでした。取次に口座を持つことができなかったので全て直販でした。当時faxはまだ普及していないので、主な注文はハガキと電話、そして学会会場で受け付けました。
 『せわ焼草』刊行前、俳文学会会場へ唯一冊の既刊書『五世市川団十郎集』を展示して注文を取ると同時に、『せわ焼草』の予約注文を受付ました。持参した大学ノートが予約申込で数頁になったのがとても印象に残っています。
 これは余談ですが、郵便受けに最初に入っていた『五世市川団十郎集』の注文ハガキは近世文学研究者・神保五弥先生(当時、早稲田大学助教授)からのご注文だったことは昨日のことのように新鮮に思い出されます。
 それでもやはり多くのお客さんは書店を通して注文を下さるので、書店からの電話注文や問い合わせが来るたびにお断りせざるを得ませんでした。熱心なお客様は書店より不扱いの報告を受けた後、直接電話かハガキでご注文をいただけたのですが、半数位はそのままになってしまったようです。
 これらの問題を打開しようと取次の仕入窓口には毎週のように口座開設の申し込みに通いました。一応会議にかけてみましょうとはおっしゃって下さるのですが、結果、小部数発行のため取次経由より「直販」の方が利益が上がるのではと却下の連続でした。

 高梨氏の来訪はそんな悩みを抱えているときでした。翌週、氏のお言葉に甘えて中央公論社を訪ねました。氏は私たちを快く歓迎し、専務室で悩み聞いてくださいました。そしてその場でトーハン(当時は「東販」)の隅田社長に直接電話をかけてくださいました。
「隅田社長が『今からお会いするから尋ねていらっしゃい』と言っているので、これから尋ねられたら如何ですか?」と氏はおっしゃいました。私たちは大急ぎでトーハンに行くと、隅田社長は社長室で担当部長を紹介してくださいました。そしてそれまで交渉していた窓口の担当者と引き合わせ、取引口座はその日のうちにトントン拍子に開設されました。
 これを機にほかの取次会社はトーハンで取引しているのであれば結構ですよと、取引を開始することが出来ました。
 何のコネもなく、唯若さのみで出航したゆまに書房は初めて「世間」というものを知らされました。高梨専務にはその後お会いする機会に恵まれませんでしたが、出版界の様々な会合に出席して中央公論社の方とお会いするたびに当時の思い出を語りました。きっと氏はそんなことは忘れてしまっていたかもしれませんが、ゆまに書房にとって今でも忘れることのできない大切な恩人の一人です。それは創業二年目の秋のことでした。

 僅かな資本金でスタートしたゆまに書房は資金面で徐々に厳しさを増していきました。取次に口座を開設したとはいえまだまだ直販も多かったため、代金回収も思うようにいかず売掛金も増えるばかりでした。そして何より営業の世界に無知でした。
 1978(昭和53)年、創業から四年目になってくると次第に経営が厳しくなってきていました。今後について何度か話し合いの場が持たれるようになっていました。
 これまで、ゆまに書房を一緒に立ち上げたKの父は、若い者の素人商売を見るに見かねて何かと助けの手を差し伸べてくれました。暑い夏裸で仕事をしていた姿を見ては秋葉原からクーラーを買って担いできて自ら事務所に設置したり、家で使用していたライトバンを提供したりと、物心両面で援助して頂いておりました。そしてこの年Kの父は、所有していた千葉の土地を売却して数百万の大金をつくり、「これでこのピンチを乗り切りなさい」と無担保で提供してくれました。「これでもうまくいかなかったら潔く諦めなさい。」と最後のチャンスを与えてくれました。しかし、業績を回復することができませんでした。

 1980(昭和55)年の春、一旦リセットすることになりました。故郷に居住地を移して単身東京に住んだ私は月曜日から金曜日まで東京で過ごし、週末になると約五時間の道のりを車で帰郷しました。その往復の車中で当時大ヒットしていた五輪真弓の「恋人よ」がラジオから盛んに流れていたことが何故か鮮明に思い出されます。

 振り返ってみると、ゆまに書房の創業は高校三年生の夏「御堂」に籠った時と同じだったような気がします。下調べもせず綿密な計画書も作成せず、思いだけで行動に移してしまう性格は、生来のもので今でも治りません。しかし、Мをはじめ城田氏、高梨氏、そしてKの父にように無償で私たちを応援してくれる人々に出会うことが出来ました。これは幸運でした。私の宝物と言えるこの人たちとの出会いがなかったならば、現在のゆまに書房が存立していないことは確かです。
 そしてその後も多くの忘れることのできない人々に出会うことになります。

Mと城田氏のこと―創業四十周年を迎えて思い出す人々(1)(H・A) 投稿日:2015/01/13

人は人生を重ねると誰でも二,三人は生涯忘れられない人ができるものです。今年創業四十周年を迎え、ゆまに書房にとってもなつかしく思い出される人たちがいます。

約四十五年前の1970(昭和45)年8月、大学三年の二十一歳になったばかりの私は盲腸の手術を受けて池袋の病院のベッドでウトウトしていました。一週間前の日曜日、腹痛がひどくあまりの痛さに耐えられず、這うようにしてこの病院に入院して緊急手術を受けました。その為普通なら一週間で退院なのですが、一か月余り入院するはめになりました。この年は十年毎に改定されていた日米安全保障条約の改定の年でもあり、街は学生たちの反対運動で騒然としていました。ほとんどの大学は学生がピケを張って封鎖され、日本のカルチェラタンと呼ばれていた神田古本街の石畳みは学生の投石で全て剥がされていた頃です。またこの年は三島由紀夫が割腹自殺を図った年でもあります。その日はとても暑い日でした。昼ごろ、突然病室の入口近くから聞き覚えのある声がしました。「おい!Мが死んだぞ」。高校で同級だった友人である。昨日、Мが睡眠薬自殺を図って亡くなったという。

Мは高校時代からの親友でした。高校三年生の夏休み、もう一人の友人と三人で人里離れた福島県の山奥の「御堂」に一ヶ月山籠もりをした仲でありました。当時高校生に人気のあった『蛍雪時代』の巻頭に「夏休みの山寺受験勉強」の経験談と写真を見つけた私たちは、興味本位でそのような計画を話し合っていました。夏休みも近くなったある日、朝の通学列車の中でそんな私たちの会話を聞いていた見知らぬ人が、福島県川内村長福寺の住職・矢内俊晃氏を紹介するという。そして翌週の日曜日、同寺まで同行してくれました。矢内俊晃氏は文学や哲学にも造詣が深く、テレビ等にも度々出演していた有名人でした。蛙の詩で有名な草野心平とも親交があり、その関係で草野心平は同村の平伏沼のモリアオガエルを愛し、同村に「天山文庫」を建立しています。私たちは矢内住職から、さらに数キロほど山奥に入った長福寺の末寺である「御堂」が良いだろうと、勧められました。そこは、一時放射能にすっかり汚染され、全住民が避難していた地域です。

7月の下旬、6畳余りの「御堂」のある山の麓までコメや野菜の食糧、炊事道具、少々の寝具をトラックで運んでもらい、数百メートルある麓と御堂を何度か往復してそれらの宿泊道具を運び上げました。当然電気も瓦斯も通っていません。昼はそれぞれが気に入った場所に散り、夕刻にまた集合して夕食の支度をしました。夜はランプの灯で過ごし、夜中は食べ残した食糧を漁りにやってくる狸が立てる物音を聞きながら睡眠をとりました。ただ、幸いにして宿所の隣に大きな滝があったので飲み水と入浴には困りませんでした。一番困ったことは、三台しかなかったランプが一夜ごとに煤がこびり付き、それを何度か洗うたびに一台ずつ壊してしまったことです。さらに、食糧が2週間位で残り少なくなってしまったことも計算違いでした。食糧は麓の農家まで下りてなんとか調達したのですが、肝心の勉強がはかどらず、誰とはなく次第に中止の話が出るようになりました。そんな諸々の条件が重なって、内心はホッとした気持ちをもちながら、一ヶ月の予定を一週間ほど早く切り上げて下山しました。今考えてみれば、下見もせず直ちに決行した蛮行は、やはり若さがなせる青春であったような気がします。

その間もМは受験勉強の合間に太宰治を熱く語りました。太宰治の心酔者でした。中学まで野球ばかりやっていて、理数系であった私にとって、彼の語りがとても新鮮でした。高校入学後すぐ友人になったМは私に本の魅力を教えてくれました。私の文学の師匠でもあったような気がします。Мの熱弁を何度も聞かされた私は次第に文学に興味をもつようになり、Мとは対照的に漱石と、演劇をやっていた関係もあってサルトルを好んで読むようになりました。Мとは何時頃からか、「文学ノート」らしきものも交わすようになっていました。学校にいるときは授業中に回覧し、帰宅すると前日の続きが記された手紙が届くようになっていました。上京する時にはその手紙は数十通になっていたことを覚えています。       
翌年3月、私はМと二人で大学受験のため東京に来ました。受験校は異なったが、試験が行われた会場が偶然にも二人とも早稲田大学工学部でした。Мの父親が試験会場に近い新大久保に宿を予約してくれました。どうにかして新大久保にたどり着いたが、修学旅行以来の東京はそれこそ外国のようで、控えてきた親戚の電話番号も「03」の市街局番からかける始末で連絡が取れず、どうにかたどり着いた宿は異様な雰囲気のホテル(どうやら連れ込みホテルであったようだが)で、二人は怪訝な気持ちで早々に床に就きました。試験が終わった翌日は、新宿を見学して帰ろうと相談し、予約を取っていた急行指定券を解約し、午後10時上野発の夜行列車で帰郷しました。翌日は卒業式の日でしたが、二人で示し合せて卒業式より睡魔の解消を選択したのもМとの懐かしい思い出の一つです。
彼はその後早稲田大学の文学部へ進み、私とМとの関係もより深く続いていました。彼の死は本当に突然でした。何故彼は死を選択してしまったのか。私なりには感じるものはあったのですが、未だに本当の動機は分かりません。ゆまに書房を立ち上げる五年前のことです。

出版社をやりたいとかねがね考えていた私にとって、Мの死は決定打となりました。夏休みが終わると密かに準備を始め、出版社でアルバイトとして働き始めました。「編集の真似事」をして編集業務を覚え、会社を通して出版社や印刷所、製本所の人たちとも知り合いになることが出来ました。この時知り合いになった人たちが創業時応援をしてくれました。なかでも、某出版社編集部長・城田昭三氏に出会えたことは大きく、出版社立ち上げの話は一気にスピードを増し、現実味を帯びていきました。氏は樋口一葉の研究者でもあり近代文学全般に造詣の深かった人物です。八十二歳で亡くなるまで本を愛し、本に埋もれた生活を通し、生涯「文学青年」を貫いた人でした。煙草とコーヒーが大好きで、食事はいつも冷奴ばかり食べていたような気がします。給料はほとんどが本に化け、部屋の中は蔵書で埋め尽くされていました。蔵書の真ん中にテーブルを置いて読書や食事をし、夜はそのまま横になって寝ていました。ある日、ゆまに書房を始めて二年目の頃だったかと思います。彼は千葉のアパートを退去しなければならなくなって、蔵書の置き場に困っていました。見るに見かねてそれらの蔵書を会社の倉庫に運んだことも忘れられない一コマです。城田氏には出版に関するあらゆることを教えていただきました。割付の仕方や紙の取り方、企画のコツ等々、営業業務を除く編集業務全般をさりげなく教授していただきました。原稿を級数やポイント指定する際、一般的には「Q」を使用しますが、私が「♯」を使用するのも氏の名残の一つです。
1974(昭和49)年、同氏は近世文学研究者・前田愛先生(立教大学教授)を紹介してくれました。前田先生の案で『近世漢詩人大系』の出版計画を立ち上げました。本企画は、江戸期の漢詩人の作品と経歴を収録する「近世漢詩人事典」を刊行するというものでした。その後、当時斯界若手研究者として活躍されていた日野龍夫先生(当時、国文学研究資料館教授のち京都大学教授)他二名の先生に編者に加わっていただき、芝の郵便貯金会館や湯島の会議室を借りて何度か編集会議を開き、企画を練り上げました。そしてこの企画は当時斯界研究者の大御所的存在であられた中村幸彦先生(当時、京都大学教授)に監修になっていただかなければ成功しないという結論に至りました。同年8月の夏休み、前田先生ご夫妻と日野先生と同行して京都大学の中村先生の研究室を訪ねました。
中村先生は快諾されました。これがゆまに書房の初めての「企画」です。まだ、社名も電話番号もなかったころのことです。そして創業三年後、彼はゆまに書房の初代編集部長になりました。

それから一年後の1975(昭和50)年5月1日、神田・山京ビル別館四階に事務所を開設しました。今からもう四十年も前のことです。