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ゆまにだより

デザインと明かり(編集部K・Y) 投稿日:2014/11/10

編集部のK・Yです。ハロウィーンの翌日から、街はもうクリスマス仕様へと様変わりし始め、拙宅にも早々に“自分へのご褒美”路線のクリスマス・ギフトのカタログが届いています。ここ数週間にわたって編集作業が山場を迎えていたので世間に疎くなっていましたが、今年も残すところあと2ヶ月を切ったのですね。
同時に欲しいものがあったことも思い出しました。テーブル・ランプです。ル・コルビュジェ好みだったことで知られるベルナール=アルバン・グラスのデザインか、バウハウスの金属工房主任だったクリスチャン・デルのデザインか……色はブラックとだけ決めて、あと数年は悩むことにしています。このランプに限らずプロダクトデザインやインテリアのショップでは、継続して商品化され続けているものと、最近になって復刻されたものと、その両方が主力商品になっているようです。

さて、〈叢書・近代日本のデザイン〉昭和篇の配本も残すところあと数回となりました。今回は舞台美術関係の文献が3タイトルあります。当然ながら、それぞれが演劇史の研究文献資料として重要なことは言うまでもありませんが、たとえば『舞台照明五十年』の著者遠山静雄は、4名の建築家、久米権九郎、蔵田周忠、土浦亀城、山脇巌が中心となった1935年の「等々力住宅区計画」(本シリーズ第54巻所収『等々力住宅区の一部』)に照明の技術顧問として参加しています。ただ、モノクロームの写真図版から、照明技術の革新性や効果を十分に読み取ることは素人には難しいのですが、デザインにおける光の存在に、まったく思いが及ばなかったことに気づきました。

デザインは、「デザインとはなにか?」という問いそのものがとても魅力的です。広範なジャンルにわたることによる危険性と常に紙一重ですが、人間がつくりだす以上、当然といえば当然かもしれません。

神様に出会うチャンス(営業部T) 投稿日:2014/10/08

 小学生の頃、アレルギー性鼻炎だった私は、学校が終わると、毎日のように耳鼻科に通っていた。そこで初めて、手塚治虫の「ブラックジャック」に出会うことになる。
週刊少年誌の連載だったが、小学生ながらに衝撃を受け、ほぼ毎日の通院が楽しくて仕方がなかったのをよく覚えている。
決してハッピーエンドで終わらないそれらの作品たちは、今思えば、手塚治虫の苦悩そのものがよく描かれていたんだと思う。

 さて、今回、10月24日に『手塚治虫の芸術』を刊行することになった。
一言で言えば、手塚治虫の人生と業績を一冊にまとめあげた本である。手塚治虫が手がけた作品の中から代表的な200タイトル超の作品が取り上げられ、手塚プロダクションの協力を得て、なかなか見ることのできない豊富な図版を中心に紹介している。

 なぜ、今、手塚治虫なのか?
今の若い世代の人たちは、手塚治虫の作品に興味などあるのだろうか?
最初は、そんな思いが頭をよぎったのだが、幸いにも、その答えをこの本の中に見つけることができた。

 序文で、漫画家でもあり映画監督でもある大友克洋氏がこんなことを書いている。
「今、日本の漫画は手塚治虫の始めた場所から遠くへと来てしまっている。・・・その極北の地にも細くはあるが手塚治虫の水脈はまだ流れていると、僕は思っている。」…と。

 手塚治虫は、1コママンガから長編マンガまで、生涯で700タイトルもの作品を手がけている。原稿枚数にすると実に15万枚という量である。これを単純計算で手塚の人生60年で割ってみると、生まれてから死ぬまで1日7ページずつひたすら書き続けてきた計算になり、その神様ぶりが窺える。

 今の日本のマンガを好む人たちにも、水脈を辿った先の水源にある手塚治虫のマンガを知ってもらうチャンスなのではないかと思う。そして、必ずや興味を持ってもらえるのではないか。だって、手塚治虫が亡くなってもう25年が経つというのに、今もなお、その作品たちは光り輝いているのだから…。

 この本の企画の話を聞いた時、冒頭の小学生時代の記憶がよみがえったのである。
この本は、懐かしい頃の記憶を思い起こしてくれながらも、まだ知らない手塚治虫の世界を知るキッカケをも与えてくれる本に違いない。
 マンガなんて、ちょっとしたキッカケで出会うこともあれば、通り過ぎてしまうこともあるように思う。この本が出ることによって、手塚治虫の作品たちに触れるキッカケになってもらえたらと思わずにはいられない…。

パラオ行(編集部K) 投稿日:2014/09/10

 「さて、どこにいこうか」と夏に入る頃から家人と相談していたのですが、なかなか決りませんでした。7月も末になって、「パラオ」というアイデアを私が出し、ようやく、方針が定まり、飛行機を押さえ、安くて良さそうな宿に予約を入れ、パラオ行が実現することとなりました。
 パラオと言えば、珊瑚礁の海、宝石のような島々、多様な生物で知られ、ダイビングやシュノーケリングを楽しむ人たちを惹きつけてやみません。
他方、日本が1922年から1945年まで統治した「南洋群島」の統治機関である南洋庁が置かれたところです。南洋庁による民政以前、1914年に日本海軍が占領してから軍政が敷かれていたので、日本の統治は31年とも数えられます。日本からの移住者も多く、一時期はパラオで4人に3人は日本人という状況でした。(南洋庁の施政の内容を知るには、小社刊行『南洋庁公報』があります。)
 実は、パラオに行こうと思ったのは、南洋神社の跡を歩いてみたかったからです。小社刊行『海外の神社』や『海外神社史』を見ると、1945年以前、日本人は出て行ったところに多くの神社を建てています。そして日本敗戦とともに日本人は去り、神社はなくなりました。多くは破壊されました。『外務省茗荷谷研修所旧蔵記録 戦中期植民地行政史料』の中に、敗戦後の神社の廃止についての史料が入っています。日本敗戦が決まって、すぐに現地の人々が壊しに来たようなところもあったようです。パラオの南洋神社は、米軍によって壊されたのでしょうか。
 到着した翌日、私たちはさっそく南洋神社の跡に出かけました。結局、木々が繁る山中の道の端に、橋と壊れかかった石の燈籠を確認したのみで、その先にあるという個人宅の庭に再建された祠までは確認しませんでした。ただ、そこに神社があったという雰囲気は充分に感じとることはできたと思います。
 コロールの町へ戻って、パラオ最高裁判所を見ました。この建物は、南洋庁パラオ支庁の建物です。2階建てですが、左右に翼を広げた鋭角の姿は迫力があります。ただ正面玄関の庇の下まで車の駐車場所になっているのが、ちょっと興ざめでした。最近、車が急増していて駐車スペースも不足気味とのこと。コロール市街の目抜き通りは夕方は渋滞します。なお、私が見た限りパラオには交通信号はありませんでした。
 翌日、地元観光会社のツアーに予約していたバベルダオブ島一周に出かけました。密林の中を車で走っていくつかの史跡を見るだけのツアーを希望する人は少ないようで、最低催行人数すなわち貸切でしたが、パラオ最大のバベルダオブ島は、面白いものがいろいろありました。西欧や日本統治以前の本来のパラオ人の文化の片鱗のようなものが見えます。村の集会所である「バイ」の最古のものや北端にある謎の石柱群など、じっくり見れば時間を忘れるぐらいです。それと、密林を貫くハイウェイを抜けて突然現れる新首都は美しい建物群でした。国会議事堂、最高裁判所、大統領府が広い敷地にそびえたっています。感心している私たちにガイドの青年が「この柱を叩いてみて下さい」と言います。その通りにしてみると、ポコポコと音がして少しへこみます。エンタシス風の柱の表面は合成樹脂か何かのようです。予算が少し足りなかったのか。
 ちなみに、いろいろな公共施設、橋、道路、博物館、水族館には、その建設に協力した国の国旗とパラオの国旗が並ぶ銘版が目立つところに貼られています。日の丸も多く、星条旗もありますが、一番多いのが青天白日満地紅旗です。パラオ共和国は、中華民国と正式に国交のある数少ない国のひとつです。街なかのショッピングセンターの3階にその旗がはためいているのを見ましたが、そこが大使館でした。
 なお、このバベルダオブ島では、1944年の米軍の空襲で町を焼かれたコロールの人々がジャングルに逃げ込んで自活生活をしたといいます。通信基地の廃墟や山中に置かれた高射砲が朽ちかけて南国の陽ざしのもとにありました。ただ、そこには、案内板や説明板がありません。枠だけが残っているところもありました。実は今まで述べた史跡や遺跡も同様です。
 ガイドの青年によれば、あるがままに余計な手を加えないというのが、パラオ流だそうです。土地は国のもので、土を掘り返すことが禁じられているのも、国土をそのまま子孫に伝えてゆきたいからでしょう。実は珊瑚礁の海や島についても、進入してはいけない区域など細かい規定が多くあるとのことです。
 旅の後半、その海を船で巡るツアーに参加しました。幸い晴れたこともあり気持ちのよい一日でした。帰国後、撮りためた写真を整理していて、さまざまな色や表情を見せるパラオの海や空や島をあらためて美しいと思いました。外国の不動産業者や観光資本がうごいているとも聞きましたが、この国の海や島々が今のままありつづけて欲しいと思います。

〝ソウタイ〟(営業推進部A) 投稿日:2014/08/05

 先日、個人のお客様からある書籍についてのお問い合わせのお電話を承りました。

お客様:かなり前に刊行された書籍なのですが、〝ソウタイ〟という本はまだ在庫ありますか?
営業推進部A:〝ソウタイ?〟ですか・・・?
お客様:掃除の〝ソウ〟に〝タイ〟は苔(こけ)という字の。
営業推進部A:〝掃苔!〟(あ、確かこの文字は在庫表にあったような?)
・・・在庫表を確認・・・ございます・・・。
恥ずかしながら、この時点で私は〝掃苔〟の読み方も意味も知らず、1984年刊行(30年前!)で、いつからか目録からは外れており、ゆまにHPにも登録されていなかったので、すぐにはお答えできませんでした。

 皆さんは〝掃苔〟という言葉をご存知ですか?
―(墓石の苔を掃く意)墓参り。特に、盂蘭盆(うらぼん)の墓参。(広辞苑第四版より)
補足―著名人や自身の尊敬する人の墓を参るのも「掃苔」と呼び、それを趣味とする人のことを「掃苔家」と呼ぶ。(はてなキーワードより)

 弊社刊行の『掃苔 全12巻』は名墓の保存を目的として会を重ねていた〝東京名墓顕彰会〟が、昭和7年11月一歩進めて後進に闡明するを目的として創刊した月刊雑誌を復刻したものです。昭和18年11月廃刊までの12年間分を各巻に収録しています。
 著名人の単なる墳墓に関する記事ではなく、数々の知識人が〝掃苔〟によって、(墓石の刻文を読み解くことなどによって)その名家の歴史を深く掘り下げ研究する学術雑誌です。それだけではなく、様々な面から墳墓についてを論じています。
 〝掃苔会〟も行われていました。例えば、

 【第三十二回掃苔会通知】 昭和十三年四月八日

一 日時 四月二十四日(日曜日)多磨霊園掃苔
一 集合地 多磨霊園事務所前に午前十時までに御参集ありたし・・・
一 講演 多磨霊園に就いて 東京市公園課長 井下 淸 君
一 会費 金五拾錢(供花料 寺院謝礼)
一 中食必ず御用意下さい(事務所にて突如御請求あっても応ぜられず)・・・
一 講演会場中食所は同所普賢寺の予定・・・
  (第7巻より)

 だいたい50人くらいのメンバーだったようです。各墓地を訪れ、静かに掃苔し、昼食の時などに熱く語り合う姿が目に浮かびます。

 この機会に皆さんも、興味のある人物の〝掃苔〟をしてみてはいかがですか?もしかしたら、何か新たな発見があるかもしれません。その前に御先祖さまの〝掃苔〟もお忘れなく!

 まだ多少在庫がございますので、ご注文も是非お待ちしております。

【ヒーロー】“アラーの使者”世代 著 投稿日:2014/07/08

 高校時代の日本史の先生が、「江戸時代後期、文化・文政のころの江戸に暮らした町人は世界史上でもまれにみる幸せな人たちだったのではないだろうか」という趣旨の話をしてくれた。
 豊かな食生活や衣生活、そして精神生活はなんとなく文学などから窺える。また、文化や学問教養についても、意欲とお金があれば相当なところまで行けたのではないかと思う。
 『膝栗毛文芸集成』に収録された作品には高尚な人物はあまり出てこないが、古典文学のパロディが出てきたり、各地の名物をはじめ豊かな食べ物が出てきて、時代を様子を垣間見せてくれる。とにかく庶民が旅を楽しむことができる時代というのは、平和でいろいろな意味で豊かなのだと思う。
 だが、日本全体が豊かだったのだろうか。冒頭の歴史の先生は「江戸に暮らした町人」という限定をつけている。領主の圧政や気候変動に見舞われる地方の農民、漁民、山の民(つまり私の祖先たち)などは、やはり厳しい生活を強いられていたと思われる。

 話はとぶようだが、同じ19世紀の日本で、近代国家をめざす明治日本の周縁を歩き、決して豊かとは言えない、あえて言えば悲惨な人々の暮らしを見つめ、そこからあるべき日本を考え、行動した男がいた。笹森儀助である。
 『我、遠遊の志ありー笹森儀助 風霜録』は、儀助の地元、青森県のジャーナリストが、史料を読み込み、儀助の足跡を追って実地踏査を試み、また各地の人に会って話を聴くことで、その生涯と思想に迫った一書である。著者は儀助の気持により近づこうと、儀助にならって西表島横断まで敢行し、山中をさまよってヒルやダニの歓迎も受けている。
 著者をそれだけひきつける儀助とはどんな人物だったのか。
儀助の思想については……、河西英通、小林和幸両教授が語る第九章「対談―笹森儀助の思想」の読めばよいことになっている。
 私個人としては、笹森儀助は明治のヒーローだったと思っている。かっこいいのである。維新前後、儀助は弘前藩士として活躍もし、また、藩内闘争などもあって数年間蟄居になっている。時代小説の主役のようだ。その後、県の役人として、たとえば任地下北で斗南藩士の生活救済のために行動している。正義のために働く青年官僚といったところである。しかし、三十代の中盤には、洋式牧場の開設に奔走する。岩木山麓に農牧社を開業したのは、儀助37歳、明治15年のことであった。4年後には東京芝に出張店を開設する。洋式牧場での牛乳や牛肉の生産、そして大都市での販売展開など、現代のベンチャービジネス経営者顔負けの才気と行動力ではないか。このまま大実業家になる可能性もあったと思われるが、年表の明治23年の項には「第一回帝国議会を連日傍聴」とある。ビジネスマンにはなりきれなかった。事業はまわりの人々にまかせ、明治24年には「貧旅行」と称して関西から九州を歩き、翌25年には千島探検に出かける。この探検の期間中に農牧社の10周年記念式典があり、社長の儀助は欠席。のち辞任が認められる。この任期途中でさっさとやめるというのは、儀助の癖といったもよいだろう。若い頃の県の官職も、のちの奄美島司も、また晩年(といっても57歳)就任した青森市長の職も同様に任期途中でやめている。ヒーローは安定を好まない。
 
 明治26年2月、千島探検の経験を著した『千島探検』を自費出版する。そして4月には面談した井上馨内相から南島探検の依頼を受け、5月に出発。儀助48歳のことである。その年に探検を終え、翌年5月、名著『南島探検』を出版する。この行動力は優れた諜報員のようでもある。その後の活躍は本書に譲ろう。

蛇足ながら、はじめ、笹森儀助が井上馨、品川弥二郎といった政府高官とつながりがあったことがちょっと意外な感じがした。しかし、在野で活躍するヒーローが実は政府の上層部と何らかの意思疎通があり、それが光と陰を生むというのは、ヒーローものの常道である。儀助と井上馨がお互いに腹に何か持ちながらにこやかに会談する場面を想像するのも楽しい。
なお、口絵に入っている写真は人物写真の傑作だと思う。着物の裾を端折って草鞋を履き、団扇をぶら下げ、右手に手ぬぐい、左手は拡げた蝙蝠傘の柄を握る。その姿は、明治を代表するヒーローだ。涼やかな眼差しがよい。

編集部だより(編集部T) 投稿日:2014/06/06

 6月に、プルスアルハさんの絵本『ボクのことわすれちゃったの? ─お父さんはアルコール依存症─』が刊行になります。
 絵本+活用のための解説、というスタイルの心理教育ツールである本書も、うつ病、統合失調症(前・後編)と来て、早くも4冊目となります。既刊分は好評にて再版となりました。

 今回は、「アルコール依存症」です。みなさんは「アルコール依存」と聞いてどのような印象を持たれますか? その多くは「意志が弱い」などの感想ではないでしょうか? 私も若干そういう印象を持ちながらも、仕事が進み解説などの打ち合わせを経ていくことで、「依存症」というのが実にやっかいな「病気」であることがわかってきました。「アルコール使用障害」という名称も使われており、実は最も罹患率が高い精神疾患なのです。
 飲酒を重ねることで、そのうちに自分の意志では飲酒をコントロールできなくなり、離脱症状が現れると苦しいので飲酒を繰り返す──という実に抜け出しにくい悪循環に陥ってしまいます。アルコール依存症の疑いのある人は440万、治療の必要なアルコール依存症の患者さんは80万人いると推計される、とのことです。ところが実際はその1/20の4万人しか治療を受けていません。

 依存者自身の体験などは多く語られますが、そのような親を持つ子どもはどうすればいいのでしょう。お母さんやお父さんがアルコール依存症になったら…、この絵本が正しい状況と病気の知識を、そして何より、子どもたち自身は何も悪くないと伝えることができるよう願っています。

国立競技場スタジアムツアー(編集部S) 投稿日:2014/05/08

 長らく東京に住んでいながら、これまで国立競技場に行ったのはたったの一度きり。サッカー、ラグビー、コンサートツアー、これらに縁がない私にとっては、行く機会がほとんどなかったのは、当たり前といえば当たり前かもしれません。
 しかし、取り壊されてもう二度と見ることができなくなる……となると、何やら落ち着かなくなり……「国立競技場スタジアムツアー」に参加してきました。
コースは、「東京オリンピック優勝者銘板~91年世界陸上優勝者銘板~更衣室~VIP席~貴賓室~聖火台 」で、所要時間1時間30分、料金1000円。普段は一般客が絶対に立ち入れない場所が目玉であるわけですが、私は競技場のトラックに下りられ、そこから客席全体を見渡せたことだけでも充分満足しました。テレビ中継ではフィールドを見下ろすことしかできませんが、選手からは客席、競技場がこんな風にみえていたのか、と。しかしこの光景も、数か月後には二度と見られなくなってしまう……。

 5月下旬に『スポーツ大図鑑』が刊行されます。本書にはオリンピック競技をはじめとする、一般の人が思い浮かぶスポーツは、ほぼすべて網羅されています。巻頭にはこれまで開催された夏・冬のオリンピックが個々に紹介されています。間もなく消滅してしまう国立競技場がメインスタジアムとなった1964年東京オリンピックについては、どんな事柄がピックアップされているでしょうか? ぜひ実物を手に取って、ご確認ください。

編集部だより(編集部H) 投稿日:2014/04/16

テレビ・ドラマ『刑事コロンボ』で知られる俳優ピーター・フォークはユダヤ人である。おや、と思う方もいるかもしれない。「うちのかみさんがね」の台詞でお馴染みのコロンボ警部はイタリア系だからだ。ここには当時、アメリカのドラマにユダヤ性を出せない事情があった。このような事情を持つユダヤ人の歴史的・文化的背景とはいかなるものなのだろうか。

ユダヤ人に関する本を探すと、その切り口が様々であることに気付く。それはユダヤ人にまつわる歴史や文化、思想が複雑に絡み合っていることを示していると言えるだろう。

今月刊行の『ユダヤ人と大衆文化』はこうしたユダヤ人について、「大衆」と「非大衆」という視点から論じたものである。アメリカのあらゆる大衆文化において、多くのユダヤ人が関わっていることが分かる内容となっている。その一方で、大衆文化を否定的に捉えるユダヤ人の姿も描かれる。ユダヤ人を形成してきた歴史や思想とはどのようなものであったのか、また、ユダヤ系知識人たちのまなざしとはいかなるものだったのか、その一端を知ることができるだろう。

ユダヤ人という個人、文化、民族、国家、どれをとっても一言では説明しにくいものである。ましてや日本人にとってユダヤ人は遠く理解しにくい存在かもしれない。本書がそうしたユダヤ人の姿を少しでも理解できるようなきっかけとなることを願う。
最後にコロンボ警部の名台詞を。

「あたしはどこへ行っても秀才にばかり出会ってねぇ。ああいうのが大勢いちゃ、刑事になるのも容易じゃないと思ったもんです。だからあたし考えました。連中よりもせっせと働いて、もっと時間をかけて本を読んで、注意深くやりゃあ、ものになるんじゃないかってね。・・・なりましたよ。・・・あたしは、この仕事が心底好きなんです」
(第40話「殺しの序曲」より)

旧摂津の国より(関西オフィスH・K) 投稿日:2014/03/17

 ゆまに書房の関西オフィスは近畿・中国・四国地区の営業拠点として設置されたオフィスです。京都の地で3年半、そして去年の秋口に大阪府茨木市に引っ越し、間もなく丸4年を迎えます。
 関西で暮らしていると過去に大河ドラマの舞台となった地がそこここにあり、ドラマがより身近に感じることが出来ます。今、放映中の「軍師 黒田官兵衛」もしかり。私は今、高槻市から茨木市の事務所に通っているのですが、この時代の高槻城主といえばキリシタン大名で有名な高山右近、そして茨木は中川清秀。そしてこの2人を従えていた荒木村重。村重は1578年、秀吉の副将格の武将だったにもかかわらず、突然戦線を離脱し、有岡城(伊丹城)に帰城してしまいます。その結果、黒田官兵衛にとって人生最大の危機といわれる有岡城での幽閉に至らしめることになります。(小説・ドラマで有名なこの場面が今回の大河ドラマでどのように演じられるのか大変楽しみです)いずれにせよ、歴史を動かした戦国時代の猛者たちがまさしくこの摂津の地で勇猛割拠していました。
 閑話休題。
 時は移り、官兵衛が戦に勝つために学問した孫子の教えはビジネスマンに欠かせない経営指南書に変化しました。また、官兵衛の時代には生存のために消費した貴重なカロリーを現代人は必要以上に摂取するようになり、スポーツで消費するようになっています。今の時代に生まれて良かったとつくづく思う次第です。
 スポーツといえば、オリンピックが感動のうちに無事終了し、この便りが掲載される頃にはパラリンピックが開催されているはずですが、ゆまに書房では今年5月「スポーツ大図鑑」という1冊ものの図鑑を刊行します。ゆまに書房の刊行物というと影印・復刻資料というイメージが強いのですが、一般書もコツコツと刊行し続けており、もう1本の柱に育とうとしています。
 「スポーツ大図鑑」はその1冊の中にオリンピック全競技を含む世界中のスポーツ200以上を紹介しています。「私はスポーツをしないので・・」という方もいらっしゃるかと思いますが、200以上も紹介されているのですから、自分に合ったスポーツを見つけられるかもしれません。また、スポーツ観戦を何倍にも楽しめる情報が満載です。刊行時には書店の店頭に並ぶはずですので是非ご覧ください。書店で見つからなければ、お近くの図書館へどうぞ。もし所蔵されていなくてもすぐに取り寄せていただけると思います。

賭 け(「よじれ窓」派) 投稿日:2014/02/07

 昼休み、職場から少し遠い郵便局へ行ったついでに、その近所の中華料理店に久しぶりに入った。料理店というよりラーメン屋さんという感じの庶民的な店で、わりと高齢のおじさんとおばさん5、6人がカウンターの内外で忙しく動いている。ただ、やや広いことと、昭和後期から変わってないであろう店内の造りのゆえか、意外に落ち着くことができる。そしてここのラーメンは、濃厚な味が流行っている昨今には珍しくさっぱりした味を守っている。変わらないことはいいことだ。
 半チャンラーメン(ラーメン+半人前のチャーハン)を待っている間、店内のテレビを見上げていた。国会の予算委員会の様子が映っている。答弁を終えた蔵相―いや、今は財務相というのか―が、いかにもちょっと気取った様子で席に戻るのを見た時、ふと、思った。ここは変わらないのだなと…。何百人かの人間がそこに集まり、立ったり座ったり、話したり聞いたり、時にどなったり揉みあったりしている。国会草創期の政治家たちもこうして立ったり座ったりしていたのだろうか。
 それは見つけられなかったが、『伊藤博文文書』第55巻「国会会議規則両院通用」という史料があった。「会議ハ政府ノ休日ヲ除キ毎日午前九時ニ始リ午後四時ニ終ル…」といった具体的な規則の検討資料で、西欧諸国の事例が多く併記されている。制度取調局の罫紙に書かれていて明治の国造りの熱気が窺われるが、「演舌」のやり方について細かく書かれていて、今の姿に近いことが書かれている。とにかく、国会は明治以来、「集まる」「会う」「話す」という伝統的なコミュニケーションで成り立っている。形式化、儀礼化した側面はあるかもしれないが、一国の方針を決めるにはこれが必要なのだろう。ただ、もっとIT技術なり何なりを導入する余地はあるかもしれない。何かがかわるかもしれないと思う。21世紀に入ってからも牛歩戦術といったばかばかしいショーを国民は見せられて
きた。

 『毎日新聞外地版』の第2回第9巻の中に、「関釜間の海底電話線」という記事(昭和5年5月11日)がある。釜山と福岡の電話線がこの年度内に完成するが、それでは足りないので、下関と釜山を結ぶ線の敷設を計画しているという内容である。こうやって科学技術が社会を変えてきたのかと思った。正確に言えば、人間が科学技術を使って社会あるいは世界を変えてきたわけで、それは企てであり賭けであったと思う。技術の導入は危険が伴う場合もあり、思わぬ副作用をもたらすこともある。私達も良いものは良い、悪いものは悪いと判断し、危険な賭けに対しては声を挙げねばなるまい。

 某社の古いOSのサポート終了が迫っている。ウィルスを作ってばらまいている人間やハッカーがいなければ、こんなことにならない、と、ちょっと腹立たしくなったが、これもコンピュータという技術のコストか。
 自宅にあるパソコンはもう7年は使っていて動きが鈍くなっている。この際だからと、某社最新OS「8.1」の入った最新型コンピュータを買ってしまった。今、それで本稿を書いている。あまりにも変わってしまい、電源を切るのにも一苦労するこの最新型の購入は正解だったのだろうかと自問自答しながら…。私の賭けはやや分が悪そうである。