HOME > 編集部便り一覧
編集部便り
『マッカーサーと戦った日本軍―ニューギニア戦の記録―』刊行に寄せて (編集部K) 投稿日:2009/08/11
ある国文学者の講演に、つぎのようなお話がありました。
平家物語や太平記は、半世紀から一世紀を経て成立している。大きな戦争で
亡くなった多くの人々を鎮魂する文学作品が出来上がるには、それだけの
時間を必要なのであろう。そして私たちはあの戦争で亡くなった人々の魂を
鎮める文学作品を持っているだろうか。
1945年8月15日から64年、さまざまな小説、記録文学、詩歌や戯曲、映像作品が作られて来ました。体験者による回想記も多く書かれ出版されています。ひとつひとつは大切な作品であることは間違いありません。ただ、この国文学者のお話は、国民の経験の全体を代表し、記憶させ続けるような作品がまだ出てきていないということだと思います。
それとともに、まだ、掘り起こされていないこと、忘れられかけていること、あるいは整理されていないこと、歴史の中で正当な位置付けがなされていないことが、たくさん あることも考えねばなりません。
このたび小社で刊行した『マッカーサーと戦った日本軍―ニューギニア戦の記録―』は、ニューギニア戦の全容を語り、また、その太平洋戦史の中に正当に位置づけたいという著者の意志により成ったものです。
本書は、そうした大きな構想を掲げ、ニューギニア戦を中心とする南方での戦いを俯瞰しているわけですが、個々の戦闘のありさまや、何度も行われた山越え、川越えを含む行軍の様子などに、戦争の悲惨さをあらためて感じさせる記述も処々にあります。
読んでいただく方々には、著者と意見を異にする方も多くいらっしゃるかもしれません。しかし、少なくとも、ニューギニアの地で昭和17年から20年の敗戦に至るまで、長く苦しく、そして、約18万人の犠牲を出した戦いがあったことを再認識していただけると思います。 もちろん、オーストラリア軍に約8千人、アメリカ軍に約4千人の犠牲者があり、また、現地人犠牲者が4万人から5万人と推定される犠牲者があったことも忘れてはいけない でしょう。現地の人々にとっては、農地を荒らされたり、備蓄の食糧を奪われたり、どちらかの軍に利用されたりしたわけで、その影響は戦後にも及んでいたと考えられます。さらには、フィンシュハーヘンやホーランディアという地名からわかるように、ドイツ人やオランダ人の入植地があった地ですから、入植者にも犠牲者があったのではないかと想像されます。 なお、日本軍の犠牲者18万人の中には台湾、朝鮮、インド、ネパールなどの兵も含まれていると言われています。さらに、漁船とともに徴用されて来た日本の漁民も含まれていたことには、驚ろかされました。
敗戦後、現地の戦犯裁判で終身刑となり、1947年に部下の釈放を確認した後、自決した安達二十三第十八軍司令官の最期に思いなしとは言いません。しかし、山越えの途中に絶壁から転落死した兵、泥濘で足をとられそのまま絶命した兵、飢餓や病気、負傷で行軍について行けず手榴弾を渡された兵、悪臭に満ちた洞窟で死を迎えた兵、そのひとりひとりの人生について、思いみることの方に心がゆきます。70年足らず前の事実です。私が生れる10年あまり前のことです。そして、なぜこんな戦争を始めてしまったのかという疑問があらためて浮かんできました。「戦争で逝った人たちのお蔭で今の繁栄がある」というのも、「1945年8月までの日本は間違っていた」というのも、何か単純すぎる片付け方のような気がします。
言い古されていることですが、何があったのか事実を掘り起こし、考え、そしてそれを忘れないということが大事ではないでしょうか。戦争のことばかりではなく、東アジア地域で日本が行ったことについても同様に考えます。
以上、「戦後ヒトケタ」生まれの感傷から出たとりとめのない感想になってしまいました。本書が、歴史を忘れない契機となり、現在の日本を考える資となることを願って、また、ニューギニアはじめ南方の地に短い人生を終えた人々を偲びつつ筆を置きます。
ミステリーと原作 (編集部 T.T.) 投稿日:2009/07/10
小社から復刻版が刊行開始された『ぷろふいる』は、戦前の探偵小説雑誌として『新青年』と比肩される存在であるが、後年まで「探偵小説史上の汚点」とあげつらわれる翻訳作品を連載したことでも知られる。エラリー・クイーン「飾窓の秘密」(「フランス白粉の謎」)の犯人が、原作とちがうのである。訳者はこのことを気に病んで、ついには自殺してしまったそうである。文学は命をかけるほど安っぽいものではないと、石川淳先生も言っているのに、きのどくである。『ぷろふいる』には、「いよいよ次号で完結!」という段で、続きの原本が手に入らないやら訳者の都合やらで休載し、けっきょくそのまま結末が載ることなく終わった翻訳連載が二篇あり、それに比べれば、なぜ犯人がちがってしまったのか原因はよくわからないにせよ、結末をつけた分だけ「飾窓の秘密」のほうが当時の読者に対してはよほど親切だったのではないかと思う。
まあ翻訳と称する以上、原作と大幅にかけ離れるのはたしかに問題があるわけなのだが、映像化作品の場合はそう珍しいことではない。かつて「土曜ワイド劇場」の名物企画だった天知茂主演の名探偵明智小五郎シリーズ(波越警部が荒井注!)「黒水仙の美女」は、原作の『暗黒星』とは犯人を変えている。すでに放送されていた『吸血鬼』とプロットが似ているための改変といわれているが、犯人役の俳優(名前を出せないのが残念)の、その正体を暴かれてから華麗かつ壮絶な最期を迎えるまでの鬼気迫る名演により、シリーズ中屈指の作とされている。
また、ミス・マープルシリーズの最初の映像化であるマーガレット・ラザフォード主演のMGM映画版(シリーズ全四作)は、原作のミス・マープルが老齢のため捜査を他人に任せる安楽椅子探偵的存在であるのに対し、こちらは自ら潜入捜査に乗り出す元気ハツラツなおばあちゃんで、加えてゴルフ・乗馬・射撃とスポーツ万能、犯人とフェンシングで対決したりもするのだ。論理的な謎解き的要素はあまりないものの、コミカルな人物たちが織り成すとぼけた味わいのある映画である。あまりの改変ぶりにアガサ・クリスティがついに激怒して、MGMとの契約を解消し、評判であったにもかかわらず打ち切りとなった。
原作者が激怒したといえば(これはミステリではないが)ムーミンの著者トーべ・ヤンソンも、日本版のアニメーション(ムーミンの声が岸田今日子のやつ)に対して、 「これは私のムーミンじゃない」とクレームをつけている(おかげで絵柄が原作の挿絵に近いものに変わってしまい、無表情になったムーミンたちを見て子ども心に悲しくなった記憶がある)。しかし、ある一定以上の世代にはアニメ版ムーミンの、気障で嫌味だけれどもどこか憎めないといった、原作にはない性格設定がなされたスノークが、広川太一郎の独特の口調とともに印象に残っているだろう。必ずしも原作どおりがいいわけではないのだ。これはこれ、それはそれとして楽しめるものなのである。
『大正歌壇史私稿』日本歌人クラブ評論賞受賞に寄せて (編集部 K) 投稿日:2009/06/05
来嶋靖生先生が、小社刊行の『大正歌壇史私稿』で日本歌人クラブ評論賞(第7回)を受賞されました。来嶋先生は歌人としての活動のほか、『森のふくろう-柳田国男と短歌』など斬新な視点と着実な実証による評論・研究にも力を注がれています。小社では、広汎な視野と知識をお持ちの来嶋先生に、『編年体大正文学全集』で短歌の収録作品の選定をお願いいたしました。『大正歌壇史私稿』の特長につきましては、近代文学とくに会津八一など詩歌の分野の研究者である中西亮太氏の書評がありますので引用させていただきます。
短歌史の本は、一度通読した後も、折にふれて頁を繰るものである。ここにまたそのような本の一冊増えたことが嬉しい。大正短歌史としての本書の特徴は、どの辺りにみとめられるだろうか。私の気付いたところを言えば、第一は雑誌、歌誌の重視である。…例えば、「アララギ」大正十四年六月号掲載の宿泊歌話会の案内記事の紹介などは、歌誌の隅々まで目を通す著者ならではのものである。…このような歌誌重視の一つの成果は、従来の短歌史には言及の少ない、歌人に再評価の光を当てた事だろう。
…
特徴の第二は、批評用語への注目である。…本書は、例えば、長塚節の『赤光』書入れの中に出てくる〈聞えたり〉という言葉に触れている。…明治以前に和歌の批評用語であったものが、明治に入っても用いられ、節にまで受け継がれたということである。…
ほかに、この〈聞えたり〉の問題にも関連するが、伝統和歌への目配りが感じられるところも、本書の特徴としてあげられる。… (『笛』88号、2008.11)
中西氏の文章の、ほんのアウトラインのみを引きましたが、本書の魅力の一端がお伝えできればと思います。なお、「宿泊歌話会の案内記事」には〈夜九時就寝〉〈酒類禁断〉とあるとのこと。大正末のアララギの雰囲気、歌人たちの意気込みが感じられます。また『赤光』は大正二年に出た斎藤茂吉の第一歌集です。
『明治中期分県地図』について ― 明治の新聞付録とは? 投稿日:2009/05/08
読売新聞、毎日新聞、地図中心と続けて記事に取り上げていただいた『明治中期分県地図』について、編集部に話を聞きました。
『明治中期分県地図』は、そもそも、新聞『日本』の「付録」だったとは?
営業部(以下営)
「現代の新聞の付録といえば、洗剤や映画の券が定番ですよね。明治期の新聞付録って、どんなものがあったんですか?」
編集部(以下編)
「例えば、明治20年には大阪朝日新聞が大阪事件の裁判記事の詳細記事を付録にしました。また、明治21年には、東京朝日新聞が磐梯山噴火を画家に描かせて『磐梯山噴火真図』を付録にしたそうです。これはけっこうな評判をとったようですよ」
営「なるほど。大事件が起こると、各紙が競ってその図版を新聞付録にしたんですね」
編「そうです。大日本帝国憲法発布や、濃尾地震などの際にも、各紙で付録が発行されたようですね」
営「図版付録が特に活発に利用されたのは、やはり・・・」
編「戦争報道ですね。日清戦争では、各紙とも従軍させた画家達に戦場を描かせ、図版付録にしたわけです」
営「それで、日清戦争後に、新聞各社の付録による販売拡張が激化したんですね。その頃資金力不足で経営難だった新聞『日本』も、付録に地図をつけたのは、販売拡張のためだったんですか?」
編「そうです。とはいえ、単に新聞を売るためだけなら、色刷り美人画でもつけた方が効果がありますよね。他紙ではよくやってましたし。そこをあえて、四十八府県の管内地図を付録に選んだのは、江戸時代以来の藩の意識から抜けきれない人々に府県制を浸透させたい意図もあったんでしょうね」
営「たしかにこの地図は、県の人口、産業などの統計データを載せたりして、啓蒙的要素が強いですものね。 『日本』はやはり、硬骨な新聞だったんですね」
※『明治中期分県地図』内の有山輝雄先生の文章を参考にさせていただきました。
- 「明治の分県地図 復刻刊行」(2009年3月13日 読売新聞)
- 「明治中期分県地図:新聞『日本』の付録を復刻 視覚に訴えた明治の戦争報道」(2009/4/28付 毎日新聞東京夕刊)
- 「『地図が好き』マガジン 月刊 地図中心」2009年5月号
『文芸ジャーナリズムの黄金時代』 (編集部) 投稿日:2009/04/10 NEW!
先月刊行した『文藝時評大系 昭和篇2 別巻(索引)』について、編集部に話を聞きました。
営業部(以下営)「全10回の文藝時評大系も、4年目でついに8回まできましたね。先月刊行の『昭和篇2 別巻』は、戦後期の前半にあたる昭和21年から33年までですが、このへんは、文芸ジャーナリズムの黄金時代ですよね」
編集部(以下編)「そうだね。戦中の紙不足、統制から抜け出して、ジャーナリズムが拡大した時代だったね。『週刊新潮』、『週刊文春』、『週刊現代』など主に出版社系の週刊誌が続々と創刊され、週刊誌ブームが巻き起こった」
営 「この時代に、いま都知事の石原慎太郎さんも登場していますね」
編 「石原慎太郎さんは、昭和29年に『太陽の季節』でデビューして、芥川賞をとったね。映画化もされて弟・裕次郎がスターになり、大変な社会現象だったよ。石原慎太郎、大江健三郎、開高健らは、『純粋戦後派』だね」
営 「大江健三郎は、昭和32年に『死者の奢り』で文壇デビューしたから、『文藝時評大系 昭和篇2』でいうと収録期間のほとんど最後ですね」
編 「芥川賞をとった『飼育』の発表は、『昭和篇2』収録期間の最終年、昭和33年だよ」
営 「松本清張も、この時代の登場ですね」
編 「そう、松本清張は、新たなジャンル『推理小説』の担い手として、脚光を浴びたね。井上靖も登場し、『中間小説』の全盛時代を迎えたわけ。『昭和篇2』の時代は、吉行淳之介、安岡章太郎、庄野潤三、小島信夫、遠藤周作ら『第三の新人』も台頭しているし、にぎやかな時代だったんだよ」
これらの作家たちや作品が、『文藝時評大系 昭和篇2 別巻(索引)』(昭和21年-33年)にどのくらい収録されているか、頁を繰ってみました。
『吉行淳之介』145件、『安岡章太郎』192件、『庄野潤三』110件、『小島信夫』150件、『遠藤周作』114件、『松本清張』76件、『井上靖』273件、『石原慎太郎』145件、『大江健三郎』115件、『開高健』88件。
(以上、「人名索引」)
『太陽の季節』67件、『死者の奢り』28件、『飼育』35件。
(以上、「作品索引」)
『第三の新人』93件、『中間小説』185件。
(以上、「事項索引」)
件数を眺めているだけでも興味深いですね。内容の詳細は、是非書籍にてご覧下さい。
『地図の世界』 (編集部K) 投稿日:2009/03/09
大きな書店に行くと古地図のコーナーがあります。一目、オジサンの世界です。スーツ姿の紳士や、ちょっとラフないでたちのリタイア組が背をかがめ、老眼鏡をかけたり外したりしながら、丸めた地図をひろげたり、大判の地図に見入っています。『話を聞かない男、地図の読めない女』という本がありましたが、やはり女性は地図が苦手なのでしょうか。いや、地図など無くても生きてゆけるし、関心がないということかもしれません。
それはともかく、私も昔、5万分の1の地図を持って山に登り、史跡を歩き、また、ドライブマップを頼りに無名の峠を越えるのを楽しみにしていましたので、地図に愛着がないわけではありません。今でも、私的な旅行のときはもちろん、仕事で知らない町へ出張するときも、地図を入手してこれから行く場所を確認しないと動き出せない人間です。といって、地図そのものを趣味にしたり、収集・研究するという領域に参入するつもりは今のところありません。
しかし、今回、『新聞『日本』附録 明治中期分県地図―付・中国/韓国/露西亜―』を担当させてもらい、地図に惚れ込んでしまう方々の気持ちが、ちょっとだけ、わかったような気がします。企画提案者として編集に携わり、その地図の所有者でもある髙木宏治先生からこの分県地図をはじめて見せて頂いたときには、A2判という大きさもあって、その迫力に圧倒されました。また、監修の先生方とこの地図を囲んで打合せをしたときには、清水靖夫先生の解説をいろいろうかがい、その奥深さに感じ入りました。清水先生の「この調子で話していると、何時間かかるかわからないです」の一言が印象に残っています。
東京府の地図は、比較的あっさりとしています。伊豆七島の別図が入ることもあり、迫力はもうひとつです。しかし、あっと気付くことがありました。こういう地図を見ると、どうしても、自分の知っているところに目が行きますが、多摩地区あるいは武蔵野が私のふるさとです。現在の西武新宿線、同池袋線、東武東上線などはありません。しかし、中央線(当時は「甲武鉄道」)の国分寺から武蔵野台地を北上する1本の線がヒョロッと延びて川越に届いています。今の西武国分寺線こそが、西武鉄道の発祥なのでした。調べてみると当時は「川越鉄道」といったようです。鉄道通の方から見れば常識なのでしょうが、私にとっては大発見でした。
もうひとつは、2001年1月まで保谷市であった、現在の西東京市の東部分は、埼玉県になって東京府の背中に切れ込んでいます。この分県地図ができた頃には、廃藩置県以降の動きは落ち着き、全国の道府県は現在の都道府県とほとんど同じ範囲となっていましたが、この旧保谷市の部分は明治40 (1907)年に東京府に編入されるまで、埼玉県だったのです。私が育った中央線沿線の町から、2、30分歩けば、埼玉県だったわけです。
たいへんローカルな話になってしまいましたが、地図の素人でも、この地図を眺めているといろいろな発見があります。
この東京府の地図が明治34(1901)年1月29日発行で、以下、明治36(1903)年12月27日の香川県まで、48枚が新聞『日本』の附録として発行されたわけです。20世紀初頭の、つまり百年余り前の日本の姿であり、見飽きるということはありません。
編集作業をしているとき、ふっと、古地図売り場であれこれ物色する自分の姿がよぎった次第です。
春の雪降るや独歩の渋谷村
※『武蔵野』(国木田独歩)は1901年に刊行されています。
淡路島での体験 (編集部S) 投稿日:2009/02/09
淡路島の「野島断層保存館」へ行ってきました。ここは、1995年の阪神淡路大震災の際に現れた野島断層をそのままの状態で保存・展示しているところです。大地震で大きくずれた断層が140メートルにわたり、当時の生々しい状態で見ることが出来、国指定の天然記念物にもなっています。
保存館のとなりには震災体験館があり、阪神淡路大震災の震度7の揺れをほぼ忠実に再現できる、一般住宅を模した装置が備えられています。この装置は、三菱重工の造船設計部船海システムグループが開発した本格的なものです。私はソファにしがみつき、身構えていたものの、予想以上の揺れに驚かされました。繰り返し流されたテレビ映像で、どのくらい揺れるかはわかっていたつもりでしたが……。
『自然災害の恐怖』(全4巻)が1月末で全巻完結しました。この本はアメリカの「タイム」編集部が、世界各地で起こっている自然災害の怖ろしさを豊富な写真、図解とともに解説したものです。第1巻は「地震・火山」で、阪神淡路大震災も見開き全面の大きな写真とともに、紹介されています。日本のみならず、世界中の人々の記憶に大きく残る大災害であったことを物語っています。
以下、第2巻「津波・洪水・干ばつ」、第3巻「地すべり・山火事・砂嵐」、第4巻「ハリケーン・竜巻・雷」となっています。このなかで、日本にあまり縁がなさそうなのは、砂嵐と竜巻ぐらいで、この小さな島国がいかに多くの自然災害にさらされてきたかを痛感させられます。
地球温暖化に伴い、ゲリラ豪雨など、これまでにない自然災害も増えています。ぜひ多くの方に読んで頂きたいシリーズです。
ナイストライ ―新春を迎えて― 代表取締役 荒井秀夫 投稿日:2009/01/07
今年もまた新春を迎えた。34回目の新たな気持ちだ。月並みだが短いようで長くもあり、長いようであっという間の月日であった。
この34年間の出版点数は5千点を有に数える。しかし、34年間出版に携わっていても未だに結論が出ない。毎日出版文化賞や梓賞を受賞できるような出版文化に優れた書籍を刊行すべきなのか、ベストセラーを狙ってより多くの人々に受け入れられる書籍を刊行するべきなのか。両者を兼ね備えた書籍が一番良いのだろうが、得てして両者は相反する要素を持っている。ましてや、出版精神は前者を目的としているが、営利企業という側面がどうしてもブレーキをかけてしまう。永遠の葛藤なのかもしれない。
この34年間唯一守っているものがある。「ナイストライ」の精神である。
アメリカのベースボールでは難しいヒット性のボールを捕球するため果敢に挑戦して失敗した時、「ナイストライ」と全員で褒め称え、成功したときは「グッド・ジョブ」よくやったと賞賛する。しかし、日本の野球では捕球に失敗したとき「ドンマイ・ドンマイ」気にするなと慰める。
仕事も同じである。わが社では新しいことや難しい仕事に果敢に挑戦して失敗した時、他のものはその失敗をけっして責めることはない。その姿勢は賞賛に値し、勿論成功すれば全員で喜びを分かち合う。常に新しいことに挑戦する精神を何よりも重んじている。失敗もしなければ挑戦もせず、与えられた仕事のみをする者は「ドンマイ・ドンマイ」にも値しない。
今年は、昨年のアメリカのサブプライムローンに端を発した世界的金融恐慌の津波が実体経済として日本経済に大きな影響を及ぼすであろう事は容易に推察できる。かつて出版界は比較的不況に強い業種といわれていたが、今年は十数年前より言われてきた活字離れと重なって大変厳しい年になるであろう。
こんな年こそ「ナイストライ」のわが社の伝統を大いに発揮してこの荒波を乗り切っていこうと、社員一同固い決意で新しい年2009年の新年を迎えた。
『読み方で苦労しています』 (編集部E・Y) 投稿日:2008/12/10
書名・人名・地名などの読み方で、苦労したことのない編集者はいないだろう。弊社のように戦前の出版物の復刻版を作ったり、近世史料の影印版を出版するところではなおさらである。社内では昨今、奥付の書名や人名にルビを振るよう奨励されている。図書館の司書の方々や書店・取次会社の皆様を困らせないためである。しかし実は、ちょっとやっかいな問題がある。
12月初め刊行の『学習院大学図書館所蔵丹鶴城旧蔵幕府史料』では、それぞれの巻に収録した史料の名称を副題としている。「一紙目録・当日奉書」「参勤〈御礼前・早参府〉部」「出奔・久離・追放」「雑・人別証文」「江戸御絵図新規出来御用諸達届留」「礼献式」「官省便覧」「前髪・半髪・名改・袖留・惣髪」「親類書認振」「出生・丈夫・実名所判・出家・修験」「自火在府類焼有無之部」「城詰米・国役金・圍米・高役金」。ざっとあげればこんな具合。すらすらお読みいただけただろうか。しかし、これら副題にはあえてルビを振らなかった。
そもそも史料名に振り仮名など初めから付いていたはずもなく、正しい読み方を確定できないからだ。研究者を含めてみんないわゆる「常識」で読んでいるわけだが、この「常識」がなかなかにくせものなのだ。
たとえば、戦国大名で有名な浅井氏を、私の高校の頃は「あさい」と読んでいた。現在でも多くの浅井さんは「あさいさん」と声をかけられるのではないだろうか。15年以上前になるが、日本史辞典の編集をしていた頃、浅井氏の読み方は「あさい」ではなく、中世史では「あざい」が一般的になりつつあると知った時は、驚天動地であった。
しかし、この話、これで終わらない。そんなわけで「あざい」を採用する辞典も出てきた昨今、『浅井氏三代』(2008年、吉川弘文館)の著者宮島敬一氏が、「「あさい」か「あざい」かをめぐって」(『本郷』第74号、吉川弘文館)という小論を発表された。氏はその中で、平安中期成立の『和名類聚抄』真福寺本と、室町末期成立の『節用集』の古本(慶長以前)をひもとき、何と旧来の「あさい」説を展開。浅井は「本来「あさい」であり、江戸時代に「あざい」と濁った」と結論された。振り出しに戻ってしまった。
もう一つ。
今では、静岡県の十国峠を「じっこくとうげ」、五十銭を「ごじっせん」、十把一絡げを「じっぱひとからげ」と言う人は、あまりいないのではないだろうか。「じゅっこくとうげ」、「ごじゅっせん」、「じゅっぱひとからげ」と読んでしまう。しかし、たとえば『広辞苑』など国語辞典では、今でも「じっ」表記である(『広辞苑』第五版まで確認)。「十」は日本に漢字が入ってきたころは「じふ」(歴史的仮名遣い)と振られたそうだが、「じふ」から「じう」そして「じゅう」に変化したという説明がある。本の索引を作るときなどは、このようなしゃべり言葉と乖離している言葉は要注意である。
というわけで、「十」には常々、心して向き合ってきた次第であるが、また一方、パソコンでは、「じゅっこくとうげ」でも「じっこくとうげ」でも「十国峠」と変換されてしまうし、どちらでもネット検索できてしまうという問題もある。これらが、言葉の変化をさらに速めるのではないかと心配するのも、あながち見当はずれではないだろう。
さて、今度の『丹鶴城旧蔵幕府史料』の副題の読みについては、間もなく図書館や書店の方々からお電話を頂戴することになるかもしれない。図書情報の整理上、読み方は必須だからである。アナログ時代には何の支障もなかったことが、デジタルになって、こんなところでも問題を起こしている。
本の副題に関するお問い合わせについては、複数の読みがあって本当なら確定しがたいが、やむなく便宜的にこのように読んでいます、とお伝えしよう。まあこんな背景もあるのかと知っていただければ幸いである。
『満洲グラフ』 (編集部K・T) 投稿日:2008/11/07
最近「満洲」に関わる資料を手がけた。伝説のグラフ誌『満洲グラフ』(1933-1944)だ。発行は南満洲鉄道株式会社(満鉄)。「満州国」を広く紹介することを目的とした、グラフ誌である。左から右への文字組、紙面を埋め尽くすばかりの芸術的な写真、大胆なタイポグラフィ、英語併記、華麗に展開されるフォトモンタージュなど、時代の最先端を行く斬新な編集がなされている。
雑誌の性格を決定づけた、これら編集・デザインの中枢を担ったのは、「満洲写真作家協会」(1932結成)の結成メンバーである淵上白陽(1889-1960)である。淵上は1920年代より、日本の近代写真をリードし続けた存在であった。淵上らは編集に当たってソビエト連邦の第一次五ヵ年計画を海外に発信したグラフ誌『C.C.C.P』を大いに参照したそうである。その紙面には確かにロシア・アヴァンギャルドの薫陶を感じ取ることが出来る。
「満洲国」を広くPRするための誌面は、満洲における生活・風俗・工業・農業・漁業・民族美術・各民族の特集…など極めて多岐の内容で構成されている。まさに満洲写真百科事典とでも言うべき充実した内容である。
ただ一つ、違和感を覚えることについて触れておきたい。『満洲グラフ』に謳われているのは「民族共和」「王道楽土」である。プロパガンダ誌であるのだから、当然といえば当然だ。しかし、華やかな都市景観ばかりでなく、農民や下層労働者も多く登場する。それらのポートレイトは、多くを語りかけてくるような力に満ちている。それは写真家の「まなざし」が、彼らと同じ高さにあることの表れのように感じられる。何故か?共感と照応がそこになければ、そのような作品は生まれ得ないだろうと思うからだ。その面立ちからは「楽土」ばかりではない、「何か」がにじみ出ているように思う。それら作品をつなぎ合わせ、紙面に展開される流麗なコラージュは、そのつなぎ目の間に、彼らの語りかけるその「何か」を隠してしまう。そんな気がしてならない。おそらくこの違和感は、かなり重要なものだろう。