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ゆまにだより

ダンスと武道の必修化(営業部 T) 投稿日:2013/04/04

公立中学校の保健体育の授業で、ダンスと武道が必修化になり一年が経とうとしている。
一年が経過して様々な問題点が見えてきた今、それらを踏まえて「新・苦手な運動が好きになるスポーツのコツ(全3)」(①ダンス②剣道③柔道)を刊行することになった。

その問題点とは、大きく分けて2つあり、1つはダンスを教える先生側に不安があること、もう1つは武道の安全性(特に柔道)の問題である。

ダンスは、先生がダンス教室に通ったり、プロのダンサーを招いて教えてもらったりと、現場での大変そうな様子がニュースなどでも伝わってくる。

一方、武道の方では、胴着を用意するだけでよいという理由で一番採択率の高い柔道で、
ケガや事故が多発している。授業中にケガでもされたら!と、親側としても気が気でないであろう。

さて、このシリーズでは、ダンスの巻で、人気の高い創作ダンスやヒップホップのような現代的なリズムのダンスが全体の75%を占めている点と、柔道の巻で、各ページで繰り返し「安全面で気をつける点」を強調し、同じく武道である剣道の巻との違いがハッキリ出ている点に注目してほしい。

このシリーズで、先生方にそういった問題点を少しでも解消して二年目以降を迎えていただきたいと願うと同時に、現場の子どもたちにも是非、手に取ってもらいたいシリーズになっている。

編集部だより (編集部 T) 投稿日:2013/02/14

昨年末から本年にかけて、2冊の近代文学についての単行本に関わる機会を得た。
まず、東郷克美氏の『井伏鱒二という姿勢』である。井伏の全集にも深く関わった著者が、これまで井伏について書かれた文章を編み、纏めたもので、作家晩年の謦咳にも接している著者の井伏研究の集大成ともいえる1冊である。巻末は井伏への追悼文で締められており、「文体は人の歩き癖に似てゐる」という井伏の一文に、この作家独自の「姿勢(スタイル)」を見い出している。
もう1冊は、鳥居邦朗氏の『昭和文学史試論─ありもしない臍(へそ)を探す』。太宰治研究の第一人者であるが、同時に昭和10年代文学や、第三の新人についての論考を多く為しており、本書はその主要な文業を収録している。奇しくも、作業を終えてこの一冊の出来を待つ間に、「第三の新人」を最も体現したと言える存在、安岡章太郎の訃報に接した。

どちらも、著者によって「まとめ」として位置づけられた仕事であり、それに関わることが出来たのは編集者冥利に尽きることである。収録された文章で最も古い時期のものを書かれた時は、両氏ともおそらく私よりも10歳は若かったでのはないだろうか。お二人ともに、校正ゲラを手に頭を掻かれ「どうもまいったなぁ」と、はにかまれる姿が何とも言えず印象的であった。

未来の科学者たちへ 投稿日:2013/01/11

 昨年度の様々な紙誌面の重大ニュースを見ると、必ずといってよいほど山中伸弥教授のノーベル賞受賞が上位に入っている。暗いニュースばかりが続く近年の我が国にとって久しぶりの快挙であった。受賞対象となったiPS細胞の発見は、蒸気機関車の発明に代表される産業革命や情報革命を行ったコンピューターの発明に匹敵する程の大発見である。人類史上の三大発見・発明の一つといっても過言ではない。
 iPS細肪の功績は臓器の再生や新薬の開発、難病・不妊治療のスピード化等々数え切れない。それらの中でも特筆すべきことは、人間は有史以来肉体が過去に遡ることを考えたことは無い。肉体は誕生以降老化の途を辿るのみで、そのスピードを緩めることのみに全身全霊を注いできた。かの秦の始皇帝でさえその願いをかなえることが出来なかった不可逆の過程であった。人の身体は様々な機能をもつ六十兆個の分裂を重ねてあらゆる細胞になる機能を持っている。大げさにいえば、iPS細胞を作るための四つの遺伝子、いわゆる山中ファクターによってどんどん身体が若返り、ついには赤子になり、単細胞になることも不可能とは言えない。また、一人の人間の皮膚から取り出した二つの細胞を初期化し、それぞれを精子と卵子に再生すれば、生殖活動なしに一人の人間から新たな一人の人間が生まれることも理論上は成り立つ。iPS細胞はこれまでの人間の誕生をも完全に覆してしまい、想像さえもしなかった新しい人類の世界を形成する可能性をもつ途轍もない発見なのである。ただし、iPS細胞をあらゆる科学者に容易に手渡してしまったことは、人間と動物のキメラをも創りだす可能性も併せ持つ、いわゆるパンドラの箱を開けてしまったことも科学者たちは決して忘れてはならない。
 山中教授たちがiPS細胞を発見する過程には気の遠くなるような失敗の連続があった。二十四個の遺伝子の中に初期化する遺伝子が何個あって、それらをどう組み合わせればよいのか果てしない時間が続いた。科学者たちはそこに宝があるのかないのか、それさえも知らされていない目的に向かって失敗を繰り返し、そして先人たちの失敗の上に挑戦を繰り返し、科学の進歩を積み重ねてきた。
 弊社が三月に刊行を予定している『科学者たちの挑戦』(全一巻、三月刊行予定)は、上記のように科学者たちが大昔から挑戦してきた、滑稽で、奇抜で、奇妙で、暴力的とも思える、「ウソのようなホントの科学のはなし」です。科学者を目指す少年少女たちが、かつて科学者たちはこのように失敗を恐れず果敢に挑戦してきたことを是非知っていただきたい。
 弊社はそのほか
・『新・苦手な運動が好きになるスポーツのコツ』
(全三巻:第1巻・ダンス、第2巻・柔道、第3巻・剣道、三月刊行予定)
・『一度は読んでみたい名詩』(仮称、谷川俊太郎監修、全三巻、九月刊行予定)
・『人類の歴史を動かした日1001』(全一巻、九月刊行予定)
・『スポーツ大図鑑』(全一巻、十一月刊行予定)
等々前年度に優る興味ある書籍を多数刊行する予定です。
今年も御支援賜りますようお願い申し上げます。
                            平成二十五年正月
                            株式会社ゆまに書房

「朝鮮通信使」雑感(編集部E・Y) 投稿日:2012/12/11

竹島領有権をめぐる日韓両国の緊張が続く昨今、弊社で刊行している『マイクロフィルム版 朝鮮通信使記録』同『倭館館守日記・裁判記録』に「竹島」の記録が出ているか聞かれたことがある。
 直接的ではないが、今年の11月1日付け朝日新聞朝刊の「竹島」特集で江戸後期の朝鮮通信使研究でも知られる、名古屋大学の池内敏氏の論説に「結局、現段階の史料研究の到達点では、日本編入時(1905年、明治38年)に竹島がいずれの国に属していたという決定的論証はない」という文章に出会った。これは一つの回答であろう。
 
 江戸時代、朝鮮国王から12回にわたって友好のあかしとして、信義を通じるための使節が日本に派遣された。それが、「朝鮮通信使」である。
 しかし、善隣友好の内実は両国のプライドのせめぎ合いだったといわれる。
 朝鮮国にとって、世界は中国を中心とする華夷秩序で成り立ち、自国は中華にもっとも近い国という自負のもと、日本はその序列の周辺に属する国とみなされ、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)後の日本への警戒心もぬぐえなかった。
 一方、日本、特に朝鮮外交と通商を専管した対馬藩にとっては、日本の銀と交換される上質な生糸と朝鮮人参の輸入から得る莫大な利益は藩の存立基盤であった。
 従って、朝鮮との外交貿易では、一字一句まで気を抜くことの出来ない外交文書の作成が重要とされ、「故事先例が重んじられ」、「先例はやがて慣習となり、そのまま法という形で定着」し、「情報量の多寡」は「外交を円滑に、かつ有利にすすめるための重要な指標となった」とされる(引用はすべて田代和生著「『対馬宗家文書について』」『マイクロフィルム版対馬宗家文書別冊』)。これにより一藩政文書としては別格の総数を誇る12万点といわれる「対馬宗家文書」が生まれた。この藩政文書の量は、備前・備中31万5千石を領有した外様の大藩、岡山藩の藩政文書総数8万点と比べてもいかに破格であり、朝鮮外交が宗家にとって重要事項であったかが伺えるであろう。
 
 では、この「朝鮮通信使」どのくらいの規模だったのだろうか。 
 国書を携えて江戸の将軍に謁見するという盛大な儀式を執り行うために派遣された一団は、300人から500人。正使・副使・従事官以下の官僚、楽隊、武人、医者、通訳、絵師、小童などが朝鮮の正装で美しく着飾って、瀬戸内海を船で進み、淀川を遡り、京都から陸路江戸へ向かうという。
 淀川を遡行する際、吃水の長い外洋船では川をのぼれないため、幕府が用意した御楼船や諸大名用意の川御座船に乗り移るが、それらの総数十数艘に供船100艘の水上パレードの豪華絢爛な様相は「朝鮮通信使国書先導船図屏風」(青丘文化ホール蔵)に残されている。きっと離岸の際には、勇壮な鼓が打たれ喇叭が吹き鳴らされたことであろう。
 
 さて、この江戸時代の一大スペクタクルに彩られた絢爛たる世界にもみえる「朝鮮通信使」、田代和生氏によると、日本での研究は意外にも、描かれた数々の絵巻物や、通信使に随行した朝鮮の知識人たちの書いた紀行文などから始まり、今やっと対馬藩宗家の遺した一次史料「朝鮮通信使記録」を使っての本格的実証研究が始まったという。
 
 この企画を担当した者としては、今後『朝鮮通信使記録』を縦横に使っての研究が盛んになることを願ってやまない。

ふたりは奇想天外。(編集部KY) 投稿日:2012/11/09

編集部のKYです。今月の担当は2点、建築家(史家)・伊東忠太の『阿修羅帖』全5巻(写真集成近代日本の建築第2期第1回配本)と、津川安男先生の御著書『江戸のヒットメーカー ―歌舞伎作者・鶴屋南北の足跡』です。
11月といえば歌舞伎界は「顔見世」の季節。調べてみると南北原作の演目がありますね。明治座で市川猿之助丈が『天竺徳兵衛新噺(てんじくとくべえいまようばなし)』で三役(天竺徳兵衛、小平次、女房おとわ)を、来年は2月に博多座でも市川亀治郎丈がおなじく三役をつとめられます。本書『江戸のヒットメーカー』は、舞台中継をはじめ長年にわたり映像制作の現場にたずさわられた著者が、レンズ越しに見続けた“鶴屋のじいさん”こと鶴屋南北とあらためて向き合い、これまでにない南北像を描く試みです。四世鶴屋南北が75歳で亡くなったのは文政12年11月27日とされ、旧暦とのズレはさておき、ちょうど良いタイミングでの刊行と相成りました。
さて、もう一方の伊東忠太『阿修羅帖』。最新号で伊東忠太の特集を組まれた雑誌『東京人』HPを拝見しますと、本年9月に築地本願寺内陣の修復工事が完成し11月には落成法要が執り行われるそうです。同誌でも紹介されている伊東忠太の3,500枚超におよぶ風刺絵葉書ですが、その中から楚人冠杉村広太郎に乞われて選ばれた500枚が、大正9年と10年に『阿修羅帖』全5巻として国粋出版社より刊行されました。同社の雑誌『国粋』には『阿修羅帖』広告記事がたびたび掲載され、「当代必然の産物たる戦争の一大画巻」とあるように伊東忠太の眼を通して第一次世界大戦の開戦(大正3年・1914年)からの5年間(大正8年・1919年まで)の世相を知ることが出来る史料です。今回の復刻では、ご自身「伊東忠太に惚れこんだ者」とおっしゃる倉方俊輔先生へ監修をお願いし、解説文を500本ご執筆いただくことが出来ました。
南北と忠太。時を経てもなお何かをうったえる力を秘めている仕事を残したふたりの想像力と創造力に、澄んだ秋空の下、凡人はただ思いをはせるのみです。                        
                                                  

隣国とつきあうということ (編集部K) 投稿日:2012/10/11

 留学を終えて帰国した元アルバイトの大学院生が、2年ぶりに顔を見せてくれた。留学先は、中国の武漢にある大学である。7月に帰国していたので、反日デモなど、怖いことは体験していないとのことであった。
 せっかく、来てくれたのだし、中国の話も聞きたくて、彼を囲んで同僚数名と粗餐を献じた。いろいろ、大変な2年間だったようだ。辛い料理、事務上のミスのためか事前の話と違っていた待遇、狭い道をぶっとばす車やバイク、学生寮で夜遅くまで騒ぐアフリカからの留学生(留学生の半数はアフリカから来ているとの由)、本来の研究分野である中国近現代史の史料調査でなかなか史料を閲覧できなかったことなど苦労話を聞いた。日本では考えられないことも多くあるようだ。
 しかし、何といっても、言葉が通じなかったはじめの3ヶ月が大変だったとのこと。彼は日本人との付き合いはほとんどせずがんばった。語学留学では、当地にいる日本人との付き合いは必要最小限にするのが、成功の秘訣だと聞いている。それを彼は実践した。
 当夜の小宴の場は、中華料理店だった。お店の若い中国人の女性に、彼は中国語で話しかけた。はじめは、日本人の客からいきなり中国語が飛び出したので彼女は聞き取れなかったのか、怪訝な顔をして「わからない」と答えた。ちょっとショックを受けた彼だったが、慣れるとスムーズに意思疎通ができるようになった。彼女は、福建から来ているのだが、中国の言葉は地方によって違い、福建の中でも会話が成り立たないほど違っていると話していた。しかし「日本語が世界で一番むずかしい」と、堪能な日本語で言った。ふと、小社の日本語学習テキスト『英語圏版 マンガ『坊っちゃん』』を思い出した。「世界で一番むずかしい日本語」や日本文化を学びたい外国の方々の役に立てばよいなあと思う。
                   *              *
 今朝のニュースで、千葉県の地名14件が中国で商標登録されていることがわかり、県が今後監視することが伝えられていた。地名ばかりでなく、日本企業が中国に輸出しようとしたら、その商標が中国で先に登録されていて困ったという話はすでに何件もある。もし、その商標を中国で使うなら、先に登録した人から権利を買わねばならないわけである。ちょっと、ひどい話だと思う。訴訟なども起きているようだ。しかし、冷静に考えると、非合法な行為ではないならば、むしろ、法律のしくみを理解し、これから、日本企業がいろいろな形で中国でのビジネスを展開することを予測して、そういうことをした人は頭のいい人とも言える。日本の常識は、世界の常識ではない。
 小社刊行の『東亜時論』は、明治31年末から明治32年に発行された東亜同文協会の機関誌『東亜時論』を復刻したものだが、その「解題」(加藤祐三)に、明治22年の博多での荒尾精(あらお・せい)の講演が紹介されている。(荒尾は、のちに東亜同文書院の初代院長となる根津一(ねづ・はじめ)の盟友であり、中国の調査活動を積極的に行なった人物だが、東亜同文会創立の前年、37歳で没している。)この荒尾の言によれば、日本の商人が中国との貿易や中国での商売で失敗しているが、その原因の中に、中国の貨幣制度をよく理解していないこと、商人としての技倆が中国の商人に劣ることを挙げている。これから、中国と商売で関わる人間は、中国の制度や商売のやり方を学ばねばならないし、さらに地域毎に大きく違う風土文化も知らねばならないとしている。
 こういう、体験に基づいた先人の考察を、今、あらためて、掘り起こすことが必要なのかもしれない。『東亜時論』に続く『東亜同文会報告』は、今月、完結の予定である。

懐かしいアニメ (営業部 N) 投稿日:2012/09/13

 今月末に『世界アニメーション歴史事典』を刊行します。
 アニメを見なくなってどのくらいの年月が過ぎたでしょう。勿論、ディズニーの「101匹わんちゃん」や「わんわん物語り」、「鉄腕アトム」に夢中になっていた少年時代がありました。多分アニメを見ていたのは中学生位までだったような気がします。
 でも、本書を手にとってペラペラと頁をめくっていると、そのアニメを見ることも無くなっていた長い期間の間に創られた、数多くの作品を知っているのです。多くの、多分見たことの無いアニメにも懐かしさを感じてしまいます。
 高校、大学と文学に親しみ、思想や政治に熱くなっていた時代、アニメやディズニーを馬鹿にしたように生きていた時代があり、その後もアニメを見ることも無かったのに、なぜこんなに懐かしいのかよく解りません。
 レンタルビデオ店に行けば、もしかするとこれらの作品が並んでいるのかもしれません。いもしない孫の為、のような顔をして、一寸借りてみようかと思っています。何しろシルバー割引が使えるのですから。
 ところで日本で最初期のアニメのタイトルをご存知ですか。
下川凹天 「芋川椋三玄関番之巻」1917年
北山清太郎「猿蟹合戦」1917年
寺内純一 「塙凹内名刀之巻」1917年
一寸見てみたいと思いませんか。

「田村俊子全集」について (編集部 T) 投稿日:2012/08/08

現在、夏に初回配本分が刊行となる『田村俊子全集』の編集に埋没している。初出資料を集め、それらを復刻(リプリント)の形で纏める形態の「全集」である。普通全集といえば、新たな活字で組まれているものなので、多少の違和感を覚えられるかもしれない。だがこの方式だと初出の状態をそのまま確認できることになるので、原資料にあたる、という点では最もスマートな方式といえる。苦労としては、バラバラの形態のものを一つのサイズに納まるよう纏めていくことになるので細かな調整が必要となる。

田村俊子(一八八四~一九四五)はいわずと知れた、大正期を代表する女性作家である。大正期の一流行作家という認識は今や完全に覆り、いまや近代女性作家研究のスタンダードといえる存在である。露伴に入門し作家を志しながら、女優となり、その後、華々しく流行作家となったのもつかの間、朝日新聞記者鈴木悦の後を追い、夫と別れバンクーバーへ移住、彼の地ではジャーナリストとしても活躍、悦が死去した後、帰国、作家活動に戻るも、年少の窪川鶴次郎との不倫があり(19歳下!)、上海に渡り、そこでの啓蒙活動があり、終戦を迎え、引き上げることなく客死する──た。まさに波乱万丈の生涯である。全集の作業をしていると年表を見ながら、著作を追うことになるので、この頃の作品はこういう世情であり、彼女にはこういうことがあり…、という感慨を持ちながらの作業とな
る。このところ、いやぁ俊子サン、そりゃ大変だねぇ、というのが口癖になりつつある。だが作品を読んでいると、まるで「大丈夫、大丈夫」と言っているようで、このあたり実に凛とした「ブレ」のない作家であり、時にすがすがしいほどだ。こんなところにも彼女の魅力の一端を感じてやまないのである。

作家としての全盛期である大正前期に発表したいくつかの長編をはじめ、多くの短編が刊本に未収録のままであり、加えて、露伴門下の佐藤露英時代の初期作品や、カナダ時代および帰国した後の昭和期の作品は、ごくわずかの例外を除き、いまだまとまった形で刊行されたことがなかった。3巻本のオリジン出版センターの『田村俊子作品集』や、生前に刊行された単行本を集めても、彼女が発表した作品の三割弱にしか過ぎない。全貌が現れた時、この作家が何を語りかけてくるのかが楽しみである。


車中読書 (編集部 K) 投稿日:2012/07/10

 ある日、遅い電車で帰宅するとき、ふと、すいた車内を見回してみた。少し空席があるほどなので、乗客は少しくつろいだ感じで、思い思いの坐り方ですわっている。そして、その日に限ったことなのかも知れないが、本を読んでいる人が多かった。いつもは、スマートフォンや携帯電話、そして、まだ多くはないが、タブレット端末とにらめっこをしている人が目立つのだが、その日に限っては、文庫本、新書、そして単行本など形はいろいろだが本をひろげている人が多かったのである。なぜか、雑誌を読む人はいなかったが…。ほっとして、自分も鞄の中から読みかけの一冊を取り出して開いた。
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 数十年後と言わず数年後には、タブレット端末で読書をする人数は増えているであろう。私は車中読書派であるから、そう遠くない日に、タブレット端末を手にしているのではないかと思う。ただ、形がかわっても、読書の楽しみは変らないのではないか。職場を出て、駅まで歩き、プラットホームに立つ頃には、仕事のことを忘れる。そして、電車に乗り込むや、何か読み始める。その瞬間が好きである。そういう時、特に仕事が厳しい時期は、時代小説や歴史小説がよい。本を開けば、江戸の町並みを粋な年増が下駄をならして小走りに駆けていったり、旗指物をなびかせて武者たちが馬を走らせていたりして、一気に別世界に入ってゆける。
 今度、小社で刊行される田中剛著『菊と葵―後水尾天皇と徳川三代の相克』(ULULA叢書6)(8月刊行予定)は、近世初期の天皇家と徳川将軍家の確執を描いたものだが、文献・史料に基づきながら、読みやすい文体で書かれている。剣戟の響きや痛快なヒーローが出てくるわけではないが、女帝明正(めいしょう)天皇の誕生の秘密や、徳川が京の都で繰り広げた行列のありさま、また、二代将軍秀忠の人物像など、今まであまり知られていないことが語られていて、歴史に興味のある方々には、喜んでいただけると思っている。
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 ところで、冒頭に述べたように、私は夜の電車で1冊の本をひろげたのだが、ひらいた瞬間、「しまった」と心の中でさけんだ。昨年から続いている「一部車内照明を止めております」という場所に座っていたのだ。読めないことはないが、仕事で疲れた目を休めることにした。そして、次の瞬間、電車は降りる駅にさしかかっていた。

寄り道 (編集部 K) 投稿日:2012/06/04

 何かの集まりごとからの帰る途中、乗換駅の池袋で降りて、少し街を歩き風に当たることがある。下戸の私は喫茶店で一杯の珈琲を飲むぐらいだが、西口を出て、西口公園へも行く。ビルの上に月がかかり、夜風が吹いているときなどは気持いい。
 週末はにぎやかだ。若者が大声を上げて騒いでいたり、何か楽しそうに話しながら二人連れが歩いてゆく。ひとりスマートフォンと睨めっこをしている人も多い。近くのホテルに投宿している中国人の家族連れが、何か言い合いながらそぞろ歩きしているのも、たびたび見る光景である。
 この平和で自由で、ちょっと猥雑な匂いも含む夜の都市の風景を、ある日見ていて、ふと70年前は、どんな風だったのか考えてみた。日中戦争を続けながら、太平洋戦争に乗り出してしまった日本。現在とはまったく違う街の光景であったろう。
 そんなことに思い至ったのは、今、『東京満蒙開拓団』(ULULA叢書5)という本に関わっているからだろう。(8月刊行予定)
 その企画内容を、著者の「東京の満蒙開拓団を知る会」の方々から伺うまでは、東京からの開拓団の存在は、ほとんど知らなかった。長野県の開拓団の話や、農山村から過剰人口を分村移民として送り出したといったことは、何となくどこかで読んではいたが、東京と開拓団は結びつかなかった。しかし、日本全体で、満蒙開拓団と満蒙開拓青少年義勇軍とであわせて約32万人が移民として満洲へ渡ったとされており、その内の1万1千人余りが東京から行ったと言われる。決して小さい数字ではない。
 本書は、「東京の満蒙開拓団を知る会」のメンバーが、2007年から5年のあいだ調査研究を重ねた成果である。書籍、雑誌、新聞の調査、体験者や関係者へのインタビュー、そして、多くの公文書の調査により、東京から多くの人々がなぜ満蒙開拓団として大陸へ渡ったのかという謎の解明を試みている。詳細は、本書を開いていただければわかることであるが、ルンペン移民、中小商工業者移民、大陸の花嫁、疎開移民など、時代の動きや政府の施策と密接につながっていることが興味深い。
 開拓団の結末は、苦難の逃避行、残留孤児や残留婦人ということになる。日本近代史にちょっと関わっている者としては、日本の「近代」の結末が、満洲における「棄民」がであったのかと、残念に思えてくる。実は、田中宏巳著『マッカーサーと戦った日本軍―ニューギニア戦の記録』に関わった折にも、ニューギニアにおける「棄兵」について、同様の感想を持った。なお、小社では、残留婦人を取り上げた班忠義著『近くて遠い祖国』(在庫僅少)という本もある。
 1936年、広田内閣でその計画が決議され、満洲移民は国策となった。しかし1945年8月9日ソ連が参戦したとき、満洲の広野に人々は残され、それを決め、進めた人達はそこにはいなかった。そして、2011年3月に破綻した戦後の大きな国策についても、思わざるを得ない。
 池袋西口公園にさざめく人々を見ていて、ここから250キロほどのところにある壊れた原子炉のことが、気になってきた。