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ゆまにだより

ふたりは奇想天外。(編集部KY) 投稿日:2012/11/09

編集部のKYです。今月の担当は2点、建築家(史家)・伊東忠太の『阿修羅帖』全5巻(写真集成近代日本の建築第2期第1回配本)と、津川安男先生の御著書『江戸のヒットメーカー ―歌舞伎作者・鶴屋南北の足跡』です。
11月といえば歌舞伎界は「顔見世」の季節。調べてみると南北原作の演目がありますね。明治座で市川猿之助丈が『天竺徳兵衛新噺(てんじくとくべえいまようばなし)』で三役(天竺徳兵衛、小平次、女房おとわ)を、来年は2月に博多座でも市川亀治郎丈がおなじく三役をつとめられます。本書『江戸のヒットメーカー』は、舞台中継をはじめ長年にわたり映像制作の現場にたずさわられた著者が、レンズ越しに見続けた“鶴屋のじいさん”こと鶴屋南北とあらためて向き合い、これまでにない南北像を描く試みです。四世鶴屋南北が75歳で亡くなったのは文政12年11月27日とされ、旧暦とのズレはさておき、ちょうど良いタイミングでの刊行と相成りました。
さて、もう一方の伊東忠太『阿修羅帖』。最新号で伊東忠太の特集を組まれた雑誌『東京人』HPを拝見しますと、本年9月に築地本願寺内陣の修復工事が完成し11月には落成法要が執り行われるそうです。同誌でも紹介されている伊東忠太の3,500枚超におよぶ風刺絵葉書ですが、その中から楚人冠杉村広太郎に乞われて選ばれた500枚が、大正9年と10年に『阿修羅帖』全5巻として国粋出版社より刊行されました。同社の雑誌『国粋』には『阿修羅帖』広告記事がたびたび掲載され、「当代必然の産物たる戦争の一大画巻」とあるように伊東忠太の眼を通して第一次世界大戦の開戦(大正3年・1914年)からの5年間(大正8年・1919年まで)の世相を知ることが出来る史料です。今回の復刻では、ご自身「伊東忠太に惚れこんだ者」とおっしゃる倉方俊輔先生へ監修をお願いし、解説文を500本ご執筆いただくことが出来ました。
南北と忠太。時を経てもなお何かをうったえる力を秘めている仕事を残したふたりの想像力と創造力に、澄んだ秋空の下、凡人はただ思いをはせるのみです。                        
                                                  

隣国とつきあうということ (編集部K) 投稿日:2012/10/11

 留学を終えて帰国した元アルバイトの大学院生が、2年ぶりに顔を見せてくれた。留学先は、中国の武漢にある大学である。7月に帰国していたので、反日デモなど、怖いことは体験していないとのことであった。
 せっかく、来てくれたのだし、中国の話も聞きたくて、彼を囲んで同僚数名と粗餐を献じた。いろいろ、大変な2年間だったようだ。辛い料理、事務上のミスのためか事前の話と違っていた待遇、狭い道をぶっとばす車やバイク、学生寮で夜遅くまで騒ぐアフリカからの留学生(留学生の半数はアフリカから来ているとの由)、本来の研究分野である中国近現代史の史料調査でなかなか史料を閲覧できなかったことなど苦労話を聞いた。日本では考えられないことも多くあるようだ。
 しかし、何といっても、言葉が通じなかったはじめの3ヶ月が大変だったとのこと。彼は日本人との付き合いはほとんどせずがんばった。語学留学では、当地にいる日本人との付き合いは必要最小限にするのが、成功の秘訣だと聞いている。それを彼は実践した。
 当夜の小宴の場は、中華料理店だった。お店の若い中国人の女性に、彼は中国語で話しかけた。はじめは、日本人の客からいきなり中国語が飛び出したので彼女は聞き取れなかったのか、怪訝な顔をして「わからない」と答えた。ちょっとショックを受けた彼だったが、慣れるとスムーズに意思疎通ができるようになった。彼女は、福建から来ているのだが、中国の言葉は地方によって違い、福建の中でも会話が成り立たないほど違っていると話していた。しかし「日本語が世界で一番むずかしい」と、堪能な日本語で言った。ふと、小社の日本語学習テキスト『英語圏版 マンガ『坊っちゃん』』を思い出した。「世界で一番むずかしい日本語」や日本文化を学びたい外国の方々の役に立てばよいなあと思う。
                   *              *
 今朝のニュースで、千葉県の地名14件が中国で商標登録されていることがわかり、県が今後監視することが伝えられていた。地名ばかりでなく、日本企業が中国に輸出しようとしたら、その商標が中国で先に登録されていて困ったという話はすでに何件もある。もし、その商標を中国で使うなら、先に登録した人から権利を買わねばならないわけである。ちょっと、ひどい話だと思う。訴訟なども起きているようだ。しかし、冷静に考えると、非合法な行為ではないならば、むしろ、法律のしくみを理解し、これから、日本企業がいろいろな形で中国でのビジネスを展開することを予測して、そういうことをした人は頭のいい人とも言える。日本の常識は、世界の常識ではない。
 小社刊行の『東亜時論』は、明治31年末から明治32年に発行された東亜同文協会の機関誌『東亜時論』を復刻したものだが、その「解題」(加藤祐三)に、明治22年の博多での荒尾精(あらお・せい)の講演が紹介されている。(荒尾は、のちに東亜同文書院の初代院長となる根津一(ねづ・はじめ)の盟友であり、中国の調査活動を積極的に行なった人物だが、東亜同文会創立の前年、37歳で没している。)この荒尾の言によれば、日本の商人が中国との貿易や中国での商売で失敗しているが、その原因の中に、中国の貨幣制度をよく理解していないこと、商人としての技倆が中国の商人に劣ることを挙げている。これから、中国と商売で関わる人間は、中国の制度や商売のやり方を学ばねばならないし、さらに地域毎に大きく違う風土文化も知らねばならないとしている。
 こういう、体験に基づいた先人の考察を、今、あらためて、掘り起こすことが必要なのかもしれない。『東亜時論』に続く『東亜同文会報告』は、今月、完結の予定である。

懐かしいアニメ (営業部 N) 投稿日:2012/09/13

 今月末に『世界アニメーション歴史事典』を刊行します。
 アニメを見なくなってどのくらいの年月が過ぎたでしょう。勿論、ディズニーの「101匹わんちゃん」や「わんわん物語り」、「鉄腕アトム」に夢中になっていた少年時代がありました。多分アニメを見ていたのは中学生位までだったような気がします。
 でも、本書を手にとってペラペラと頁をめくっていると、そのアニメを見ることも無くなっていた長い期間の間に創られた、数多くの作品を知っているのです。多くの、多分見たことの無いアニメにも懐かしさを感じてしまいます。
 高校、大学と文学に親しみ、思想や政治に熱くなっていた時代、アニメやディズニーを馬鹿にしたように生きていた時代があり、その後もアニメを見ることも無かったのに、なぜこんなに懐かしいのかよく解りません。
 レンタルビデオ店に行けば、もしかするとこれらの作品が並んでいるのかもしれません。いもしない孫の為、のような顔をして、一寸借りてみようかと思っています。何しろシルバー割引が使えるのですから。
 ところで日本で最初期のアニメのタイトルをご存知ですか。
下川凹天 「芋川椋三玄関番之巻」1917年
北山清太郎「猿蟹合戦」1917年
寺内純一 「塙凹内名刀之巻」1917年
一寸見てみたいと思いませんか。

「田村俊子全集」について (編集部 T) 投稿日:2012/08/08

現在、夏に初回配本分が刊行となる『田村俊子全集』の編集に埋没している。初出資料を集め、それらを復刻(リプリント)の形で纏める形態の「全集」である。普通全集といえば、新たな活字で組まれているものなので、多少の違和感を覚えられるかもしれない。だがこの方式だと初出の状態をそのまま確認できることになるので、原資料にあたる、という点では最もスマートな方式といえる。苦労としては、バラバラの形態のものを一つのサイズに納まるよう纏めていくことになるので細かな調整が必要となる。

田村俊子(一八八四~一九四五)はいわずと知れた、大正期を代表する女性作家である。大正期の一流行作家という認識は今や完全に覆り、いまや近代女性作家研究のスタンダードといえる存在である。露伴に入門し作家を志しながら、女優となり、その後、華々しく流行作家となったのもつかの間、朝日新聞記者鈴木悦の後を追い、夫と別れバンクーバーへ移住、彼の地ではジャーナリストとしても活躍、悦が死去した後、帰国、作家活動に戻るも、年少の窪川鶴次郎との不倫があり(19歳下!)、上海に渡り、そこでの啓蒙活動があり、終戦を迎え、引き上げることなく客死する──た。まさに波乱万丈の生涯である。全集の作業をしていると年表を見ながら、著作を追うことになるので、この頃の作品はこういう世情であり、彼女にはこういうことがあり…、という感慨を持ちながらの作業とな
る。このところ、いやぁ俊子サン、そりゃ大変だねぇ、というのが口癖になりつつある。だが作品を読んでいると、まるで「大丈夫、大丈夫」と言っているようで、このあたり実に凛とした「ブレ」のない作家であり、時にすがすがしいほどだ。こんなところにも彼女の魅力の一端を感じてやまないのである。

作家としての全盛期である大正前期に発表したいくつかの長編をはじめ、多くの短編が刊本に未収録のままであり、加えて、露伴門下の佐藤露英時代の初期作品や、カナダ時代および帰国した後の昭和期の作品は、ごくわずかの例外を除き、いまだまとまった形で刊行されたことがなかった。3巻本のオリジン出版センターの『田村俊子作品集』や、生前に刊行された単行本を集めても、彼女が発表した作品の三割弱にしか過ぎない。全貌が現れた時、この作家が何を語りかけてくるのかが楽しみである。


車中読書 (編集部 K) 投稿日:2012/07/10

 ある日、遅い電車で帰宅するとき、ふと、すいた車内を見回してみた。少し空席があるほどなので、乗客は少しくつろいだ感じで、思い思いの坐り方ですわっている。そして、その日に限ったことなのかも知れないが、本を読んでいる人が多かった。いつもは、スマートフォンや携帯電話、そして、まだ多くはないが、タブレット端末とにらめっこをしている人が目立つのだが、その日に限っては、文庫本、新書、そして単行本など形はいろいろだが本をひろげている人が多かったのである。なぜか、雑誌を読む人はいなかったが…。ほっとして、自分も鞄の中から読みかけの一冊を取り出して開いた。
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 数十年後と言わず数年後には、タブレット端末で読書をする人数は増えているであろう。私は車中読書派であるから、そう遠くない日に、タブレット端末を手にしているのではないかと思う。ただ、形がかわっても、読書の楽しみは変らないのではないか。職場を出て、駅まで歩き、プラットホームに立つ頃には、仕事のことを忘れる。そして、電車に乗り込むや、何か読み始める。その瞬間が好きである。そういう時、特に仕事が厳しい時期は、時代小説や歴史小説がよい。本を開けば、江戸の町並みを粋な年増が下駄をならして小走りに駆けていったり、旗指物をなびかせて武者たちが馬を走らせていたりして、一気に別世界に入ってゆける。
 今度、小社で刊行される田中剛著『菊と葵―後水尾天皇と徳川三代の相克』(ULULA叢書6)(8月刊行予定)は、近世初期の天皇家と徳川将軍家の確執を描いたものだが、文献・史料に基づきながら、読みやすい文体で書かれている。剣戟の響きや痛快なヒーローが出てくるわけではないが、女帝明正(めいしょう)天皇の誕生の秘密や、徳川が京の都で繰り広げた行列のありさま、また、二代将軍秀忠の人物像など、今まであまり知られていないことが語られていて、歴史に興味のある方々には、喜んでいただけると思っている。
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 ところで、冒頭に述べたように、私は夜の電車で1冊の本をひろげたのだが、ひらいた瞬間、「しまった」と心の中でさけんだ。昨年から続いている「一部車内照明を止めております」という場所に座っていたのだ。読めないことはないが、仕事で疲れた目を休めることにした。そして、次の瞬間、電車は降りる駅にさしかかっていた。

寄り道 (編集部 K) 投稿日:2012/06/04

 何かの集まりごとからの帰る途中、乗換駅の池袋で降りて、少し街を歩き風に当たることがある。下戸の私は喫茶店で一杯の珈琲を飲むぐらいだが、西口を出て、西口公園へも行く。ビルの上に月がかかり、夜風が吹いているときなどは気持いい。
 週末はにぎやかだ。若者が大声を上げて騒いでいたり、何か楽しそうに話しながら二人連れが歩いてゆく。ひとりスマートフォンと睨めっこをしている人も多い。近くのホテルに投宿している中国人の家族連れが、何か言い合いながらそぞろ歩きしているのも、たびたび見る光景である。
 この平和で自由で、ちょっと猥雑な匂いも含む夜の都市の風景を、ある日見ていて、ふと70年前は、どんな風だったのか考えてみた。日中戦争を続けながら、太平洋戦争に乗り出してしまった日本。現在とはまったく違う街の光景であったろう。
 そんなことに思い至ったのは、今、『東京満蒙開拓団』(ULULA叢書5)という本に関わっているからだろう。(8月刊行予定)
 その企画内容を、著者の「東京の満蒙開拓団を知る会」の方々から伺うまでは、東京からの開拓団の存在は、ほとんど知らなかった。長野県の開拓団の話や、農山村から過剰人口を分村移民として送り出したといったことは、何となくどこかで読んではいたが、東京と開拓団は結びつかなかった。しかし、日本全体で、満蒙開拓団と満蒙開拓青少年義勇軍とであわせて約32万人が移民として満洲へ渡ったとされており、その内の1万1千人余りが東京から行ったと言われる。決して小さい数字ではない。
 本書は、「東京の満蒙開拓団を知る会」のメンバーが、2007年から5年のあいだ調査研究を重ねた成果である。書籍、雑誌、新聞の調査、体験者や関係者へのインタビュー、そして、多くの公文書の調査により、東京から多くの人々がなぜ満蒙開拓団として大陸へ渡ったのかという謎の解明を試みている。詳細は、本書を開いていただければわかることであるが、ルンペン移民、中小商工業者移民、大陸の花嫁、疎開移民など、時代の動きや政府の施策と密接につながっていることが興味深い。
 開拓団の結末は、苦難の逃避行、残留孤児や残留婦人ということになる。日本近代史にちょっと関わっている者としては、日本の「近代」の結末が、満洲における「棄民」がであったのかと、残念に思えてくる。実は、田中宏巳著『マッカーサーと戦った日本軍―ニューギニア戦の記録』に関わった折にも、ニューギニアにおける「棄兵」について、同様の感想を持った。なお、小社では、残留婦人を取り上げた班忠義著『近くて遠い祖国』(在庫僅少)という本もある。
 1936年、広田内閣でその計画が決議され、満洲移民は国策となった。しかし1945年8月9日ソ連が参戦したとき、満洲の広野に人々は残され、それを決め、進めた人達はそこにはいなかった。そして、2011年3月に破綻した戦後の大きな国策についても、思わざるを得ない。
 池袋西口公園にさざめく人々を見ていて、ここから250キロほどのところにある壊れた原子炉のことが、気になってきた。

不思議な自然の仕組み  (営業部 N) 投稿日:2012/03/09

『最先端ビジュアル百科 不思議な自然の仕組み』全4巻を、3月30日に刊行します。
第1巻 植物 の見本が手元にあります。このシリーズは小学校高学年~高校生を対象にしているのですが、これが実に面白いのです。読んでいて(ビジュアルな本なので、見ていてという感じなのですが)ヘー!フーン!ナルホド!ソウナンダ!の連続です。例えば「根と茎」です。茎が伸びていくのは、普段見ているのでなんとなく解るのですが、根っこがどの様にして地下を伸びていくのかなど、考えたこともなかったのですが、ここでヘー!が始まります。この後もこのヘー!の連続なのですが、私が特に面白かったのは、「寄生植物」「海藻」「こけ」等です。お子さんに買ってあげたら、まず自分が読んでしまうこと間違いなしです。第2巻動物 第3巻人体 第4巻地球の見本も間もなく手元に届く予定です。読者より先に読んでしまえる出版社の社員であることを幸せに思いながら、見本の到着を心待ちにしています。

歴史を戻そう  投稿日:2012/01/14

 今年の元旦に届いた年賀状は昨年よりだいぶ少なかった。福島第一原子力発電所二十キロ圏内に住んでいた兄弟や友人、知人、親戚からの年賀状がほとんどこなかった。いまだに会津や郡山、近くはいわき市の仮設住宅や民間借上げ住宅に、さらには東京、新潟、大阪の遠方に住居を移しているらしい。住所録を失ってしまったのか、それとも年賀状を書くような心境ではないのだろう。あれ以来連絡が途絶えている友人たちのその後の近況が知りたくて、喪中でない限り私は一方的に投函した。

 福島第一原子力発電所は、狐の巣穴の前や野兎のウサギ道に仕掛けた罠も、芝居の台詞や赤尾の豆単で暗記をしようと何時間も歩き続けた田畑の畦道や、近所の子どもたちと草野球をやった八幡様の境内も、夏休みの子ども相撲大会が行われたどこまでも続いたあの白浜も、全町民で歓声を上げた小中合同運動会の学校のグランドも、かけがえのない縁側の笑い声さえも、なにもかも放射能で覆い尽くしてしまった。愚かな歴代の首長たちが、無名な土地であるが故に誘致した原子力発電所は、彼らの目的どおり世界的に有名になって住民を追い出そうとしている。「帰還困難区域」に指定されるらしい。
50年は帰ることが出来ない。そんな状況の渦中に追いやられた故郷の人たちにかける言葉が見つからない。何人から返事が来るのか。元気に暮らしていればよいのだが。

「戦争を知らない子供たち」といわれて久しい。一昨年まではこのまま大自然災害や大きな戦争を体験しないで、平和な時代を送って人生を終えるものだろうと漠然と考えでいた。脳溢血か心臓まひか、それとも癌か、いずれにしても病で死ぬのだろうと己の死因を理由もなく考えていた。ところが昨年の東日本大震災の震災当日の悲惨な様子が次々とメディアに紹介されるようになって震災の現状を詳しく知ると、そこにはあまりにもむごく、悲しく、恐ろしい地獄絵が現実にあった。平穏時での出来事ならばどれ一つとっても大ニュースである。人間の極限状態がいたるところで発生していた。なんということか。平成24年1月1日現在、亡くなられた方1万5844人、いまだに3451人の方が行方不明である。さらに、33万4786人の方が避難生活を送られているという。「戦争を知らない子供たち」のまま死ぬわけにはいかなくなってしまった。

 弊社では今年、偶然にも『人類の歴史を変えた運命の日1001』を刊行する。人類史上、多くの人が死に、数え切れない人々が傷つき、歴史が変わってしまったであろうと思われる1001件の重大事件や大規模戦争等を年代順に取り上げ、有史以来人間は愚かなことを何度繰り返してきたかを検証する。もちろん今回の東日本大震災も取り上げる。どこまで真実を伝えられるかは疑問だが、私たちは永遠にこの悲惨な大震災を、特に人災ともいえる福島第一原子力発電所の放射能汚染を忘れてはならない。そんな一念が伝えられれば幸いである。

 あれから三度目の正月を迎えた。以来、「首都高速3号線の三軒茶屋で非常階段を下りてしまった」(『1Q84』村上春樹著、新潮社)ような、どこか今までの世界と何かが違ってしまったような複雑な気持ちが続いている。今回の大震災や福島第一原子力発電所の放射能汚染も、「人類の歴史」どころか私の人生の歴史を大きく変えてしまったことは間違いない。一刻も早く首都高速3号線の三軒茶屋まで行ってあの非常階段を上らなければ。
そして、これら一連の大災害は夢であることに気づかなければならない。
歴史を元に戻すために。

同窓会、そして妄想 (編集部 M.K) 投稿日:2011/12/13

 11月のある夕方、学校時代のゼミの同窓会に出かけた。同期の連中と一年ぶりに再会…。来ていない仲間の噂、各自の健康と病気、そして最近は近づく「定年」が話題になる。そのあとは、それぞれ属している業界のことに話は移る。金融、不動産、コンピュータ各業界についての話題を興味深く聞いていると、「デジタル本はどうなの?」という質問が飛んでくる。それぞれ本の良き読者たちだが、それよりも何かそこに新しいビジネスが生れつつあるのか、という興味をベテランビジネスマンたちはもっているようだ。いろいろな動きが折々経済の話題として報道されている。
 よく言われることだが、電話、レコード、カメラ、テレビ、そして、車も技術革新により大きく変わり、それに伴い、われわれの生活もめまぐるしく変わりつつある。本がデジタル化されることは、産業界から見れば、至極当然のことに見えるようだ。
 しかし、事はそう簡単ではない。偶然眼にした「本の長い歴史のなかで「電子本元年」を考える」 (「早稲田学報」1187号)で、津野海太郎氏は、今回の「電子本元年」といわれるブームも、以前のものと同様、尻すぼみに終るのではと危惧していた。
 私がもしデジタル本を作る立場にあったら、と妄想してみる。「紙とデジタルの共存」などという考えはいったん捨てて、「紙の本を根絶する」ぐらいの意気を持たないと事は進まないと思う。相手は、千年とか五百年とかの歴史がある。写真機やレコードとは違う。コンテンツが集まらないなどとよく言われるが、その内容に踏み込み、新しい内容を創造しようとしないからだろう。
 デジタル派がそのようになったとき、戦いが始まる。紙派のわれわれも本気になって、デジタル本によって相対化され、情報ツールのひとつとなってしまった本を、どうやって生きのびさせるか、考えねばならない。本は変わらないと言っているうちに、「戦争と平和」や「論語」をiPadで読破するような新しい世代が生れるかもしれないのだ。
 戦いの結果はどうなるかわからないが、ともかく、その先に、われわれの文化は少しは前進しているかもしれない。

 そんなことを考えながら、会場を辞すと雨が降り出していた。コンビニに駆け込み、折れ傘を買う。店を出てさそうとしたが、これが難しい。しばらくいじってみて、取っ手に埋め込まれたボタンを押すと柄が伸びて傘が開く仕掛けだった。しかし、閉じ方がわからない。店に戻って、店員さんに聞いてわかった。とかく新しいものが苦手になったのは、トシのせいか、と苦笑して、雨の街を歩き出した。

立冬を過ぎて  (編集部K・Y )  投稿日:2011/11/09

11月5日。朝日新聞に「七五三 仮設でお祝い」という囲み記事がありました。そこには、紅色の晴れ着を着付けてもらっている女の子の写真が載っていましたが、すまし顔にも嬉しさがにじみ出ているその表情に、あらためて人生の節目を祝うことの大切さを思いました。翌日、ある駅の構内で、おなじく紅色で古典柄の「宝尽し」の着物に、ふっくらと髷を結った女の子を見かけ、思わず、「かわいいね、おめでとう」と声をかけていました。3.11の震災の前後、初めて手掛けた児童書「偉人たちの少年少女時代 全3巻」の編集作業が大詰めを迎え、刻々と伝えられる被災地の状況を、目に、耳にしながら、「とにかくこの本を子どもたちに届ける」という一念で毎日を送っていました。そんなことも思い出されて、今年の七五三はこれまでとは違う特別なものに感じられます。

11月7日。今年のサントリーホールのスペシャルステージに、ピアニストの内田光子さんが登場。個人的に、いつかは聴きに行きたい!と思い続けていた音楽家のお一人です。内田さんはロンドンを活動拠点にされ、年間の演奏会を50回程度に抑えていると聞いていたので、思い立ったが吉日、つい3日前に最終日のピアノ・リサイタルのチケットを運よくおさえることが出来ました。この日はシューベルト・プログラムで、お好きな方のために曲目を書きますと、ピアノ・ソナタ ハ短調D958、 イ長調D959、変ロ長調D960の全3曲。自らの終焉(死)を自覚してこれほどまでに完成度の高い仕事をやり遂げ残したシューベルト(1828年11月19日没、享年31歳)と、内田光子という表現者。ふたりを目の当たりにして、休憩の20分間と演奏後しばらくは席を立つことが出来ませんでした。ちなみにこの日の出演料(調律師からも、スタンウェイ・ハンブルクを通じて)は、東日本大震災で被災した、おもに子どもたちへ寄附されます。

11月8日は立冬。仕事を終えてから、支援物資を送る活動を続けている知人に冬物の衣料などを届けるため銀座へ出ました。暦どおり、夜の空気には冬のにおいがしました。今年も残すところ2か月ばかりとなりました。クリスマス色に染まりはじめた東京の姿も、なんだか悪くはないな、などと思う今日この頃です。