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ゆまにだより

『大人になるまでに読みたい 15歳の短歌・俳句・川柳』(編集室T) 投稿日:2016/03/14

『大人になるまでに読みたい 15歳の短歌・俳句・川柳』全三巻の編集をようやく終えたところである。
前シリーズの『15歳の詩』が好調だったので、じゃあ短詩型をという、いささか安直な(?)スタートだったのだが、本の内容が定まるまで、色々と試行錯誤があった。

その昔々、『塚本邦雄全集』を担当したことがあって、原本が編集部には山積みになっており、歌集以外で心に残ったのは、杉浦康平(!)による造本の『百句燦々』などの俳句評釈本だった。
杉浦風とは行かないが、まず、大きく作品を組み、評釈と作家略歴を入れる。というページレイアウトを作った。
問題なのは、短歌・俳句・川柳 の違いを分かるようにしないといけない。
冗談ではなく「短歌って五・七・五ですよね」と真顔で言った人に五人は会ったことがある。
それはともかく、無季俳句だったら、川柳との区別がつかないことも考えられる。
そこで「短」「俳」「川」のロゴを作った。それぞれが、取り上げられているページには必ず刻印されている。

次に選者。
短歌は黒瀬珂瀾さん、俳句は佐藤文香さん、川柳は なかはられいこ さんに、選と評釈をお願いした。
黒瀬珂瀾さんが旧知だったので、佐藤さん、なかはらさん と紹介していただいた。
こちらは思いつきで「短歌・俳句・川柳」としたのだが、この3ジャンルが1つのアンソロジーに組まれることは珍しいことらしい。
非常に企画に興味を持っていただいた。

次に巻立てと内容。
これが一番悩んだかもしれない。『15歳の詩』①愛する ②いきる ③なやむ だったのだが、
今回は収録作品数も多いので(150編)、このお題では、選も大変かということになり、「○○と○○」というように対になるように考え、①愛と恋 ②生と夢 ③なやみと力 ということになった。それでもかなり、ざっくりなのだが、、、、
選者の方々が的確にイメージを拡げ、選をしてくれた。ありがとうございます。
配列は、ジャンル別にすることも考えたのだが、黒瀬さんと相談しているとき、せっかく3つのジャンルが揃うのは珍しいことだし、それじゃつまらないね、ということになり、歌合わせのようにバラバラに並べていく、ということになった。
これが、なかなか大変で各巻の編者にご苦労をかけた。
どこから読んでも大丈夫な本なのだが、どうしてこの順番で作品が並んでいるのか、ということも気にしてもらえたらとても嬉しい。

次に巻頭文。
『15歳の詩』では、谷川俊太郎さんにお願いをし、15歳のころと詩、という観点のエッセイを3点書いていただいた。
今回はちょっとそういうわけにもいかないな、ということで①穂村弘さん、②夏井いつき さん、③長嶋有さんにお引き受けいただいた。
短歌、俳句、小説(長嶋さんは俳句もなさる)という豪華な顔ぶれである。
収録作品に触れていただき、「15歳」と「短詩型」いうキーワードで素晴らしいお原稿をいただいた。
通して読むと、「短詩型」が、ちょっと分かった気になります。

最後にエッセイ。
それぞれ、本当に力作です。
黒瀬珂瀾さんは、愛の歌、句について「愛するとは、他者と出会うこと。」
とやさしく言ってくれました。
佐藤文香さんは、俳句と過ごした日々に触れて「本気で書こうと思ったら、同じ
くらい本気の仲間がいると、すごく面白い。」
と鼓舞してくれました。
なかはられいこさん は、なやむことを力を持つことについて
「世の中で、あたりまえと思われたり言われたりしていることは、ほんとうにあたりまえなのでしょうか。」
と考え続けることの大事さを、語ってくれています。

それぞれ、本当に感動的です。

二人の幕臣が見つめていたもの―川路聖謨と勝海舟―(編集室E・Y) 投稿日:2016/02/12

 川路聖謨(としあきら)は享和元年(1801)、日田金(ひだがね)(日田を拠点に九州の大名たちの蔵元、掛屋をつとめた有名な高利貸したちをいう)で知られる豊後国天領日田の、代官所小役人の子として生まれた。実父内藤歳由は、聖謨3歳の頃、息子を御目見(おめみえ)以上にするという、強い意志を抱いて出府。熱心な猟官運動の結果、文化9年(1812)、御家人川路光房と聖謨の養子縁組に成功する。聖謨は翌年には川路家の家督を相続、小普請組に入る。だが、小普請組は、3,000石未満で無役の旗本・御家人がいたところ。あぶれ者も多かったという。
勝海舟は文政6年(1823)生まれ、父小吉が享和2年生まれであるので、聖謨より一世代下になる。海舟も、江戸の下層御家人の世界に生まれそこから抜け出す道を模索した一人であった。無頼な父小吉の蟄居謹慎期間中に万国地図を見せてもらい、強く世界を意識し、横文字修行を志した。その後、ペリーの来航で時代が大きく変動する中、蕃書調所出役を経て、長崎海軍伝習生から咸臨丸艦長、軍艦奉行、陸軍総裁となったことはよく知られている。
 一方、若き聖謨の猛烈な就職活動と出世の様子は、『勘定奉行・川路聖謨関係史料』第1巻収録の「画入川路聖謨一代明細書」で読み取れる。幼い頃、供に徒(かち)をつれ馬を引く武士と遭遇した時、父からおまえなら絶対そういう武士になれると激励され刻苦勉励したことが解説にも触れられているが、川路は、勘定所の筆算吟味に優秀な成績で合格し、勘定所の支配勘定出役に採用される。のち勘定評定所留役に抜擢され、近江国の村境論争や仙石騒動を裁断し、能吏としての名をあげ、勘定奉行勝手方筆頭まで上り詰める。
 咸臨丸で太平洋を渡り、日米交渉で活躍した勝に対して、長崎で行われた日露交渉を任せられたのが川路である。
「川路は非常に聡明であった。彼は私たち自身を反駁する巧妙な弁論をもって知性を閃めかせたものの、なおこの人物を尊敬しないわけにはいかなかった。彼の一言一句、一瞥、それに物腰までが―すべて良識と、機知と、烱眼(けいがん)と、練達を顕わしていた」(『ゴンチャローフ日本渡航記』講談社学術文庫1867)。
 これは、遣日全権使節プチャーチンの秘書官ゴンチャローフの川路評であるが、プチャーチンは帰国後、川路のことを「いかなるヨーロッパの社交界に出ても、その俊敏で健全な知性と巧みな弁論術ゆえに傑出した人物たりうるだろう」と報告書に書いている(同上)。  
 しかし、勝海舟の川路評はすこぶる悪い。「……川路は取りたてものだから、どうも人が悪くてね。こすく(狡い)てね」(童門冬二「川路聖謨―幕府に殉じた男」『歴史読本』昭和60年10月号)と言う。
明治元年(1868)3月14日勝海舟・西郷隆盛の江戸無血開城交渉の翌日、川路聖謨はピストルで自殺する。68歳であった。後年、明治新政府にも取り立てられた勝が歩んだ道との違いである。
このように両人が交わることはなかったが、興味深いのは、両者ともに江戸幕府の一級の史料を多く残していることである。川路の『御勘定所要録』(『勘定奉行・川路聖謨関係史料』第2巻~第4巻に収録)と、勝が明治期に編纂した『吹塵録』である。いずれも今日では、幕政の実態を詳らかにする貴重な歴史史料となっている。

創業の精神と変革 ―創業四十周年を迎えて思い出す人々(5)(H・A) 投稿日:2016/01/15

 我が草屋の和室に一幅の揮毫「流水不争先」(盛永宗興書、平成三年、ながれるみずはさきをあらそわず)が掛けられている。本揮毫は紀伊國屋書店取締役副社長をされていた吉枝喜久保氏に頂いた書である。同封されていた吉枝氏の書簡によると禅林句集の一節で、「事の勝敗や成否に未練や執着を捨てることの意」。「水は方円の器に従う」というような意味であろうか。
 
 吉枝氏と初めてお会できたのは、まだ新宿の紀伊国屋書店本店6階に本社機能があったので、昭和58・9年の頃だったと思います。ある日、紀伊國屋書店の本社に表敬訪問しました。
 「御陰様で自社倉庫を持つことが出来ました」
 とご挨拶すると
 「あまり倉庫は広げない方が良いですよ。商品を置いておくスペースがあると、安心して営業に気合が入らなくなります。」
 そのような助言を頂いたことが何故か強烈に覚えている。それからはとても懇意にさせて頂きました。紀伊國屋書店の営業所が全国に次々と開設された時代で、その営業所開所式に招待され、毎年1月2日には東京都府中市のご自宅に伺い新年のご挨拶をさせて頂きました。初対面から数年後の1992(平成4)年、我社で『太宰治論集』(山内祥史編著、全19巻・別巻2)を刊行した折、吉枝氏が太宰治を愛読されていたことを度々耳にしていたので本書を謹呈しました。この揮毫はそのお礼として頂いたものです。盛永宗興氏は当時京都大徳寺の僧侶で、吉枝氏は戦後間もなくの厳しい就職難時代に盛永氏の紹介で紀伊國屋書店に縁故入社できたそうです。ちなみに、平成13年に突然くも膜下出血で倒れてしまった高井省吉氏(当時、紀伊國屋書店副社長)は吉枝氏の富山高校の後輩にあたり、吉枝氏の紹介で京都営業所に縁故入社されたそうです。

 私と吉枝氏は21歳の年の差がありました。若くして創業した私にとって吉枝さんのお話は、会社経営に大変勉強になりました。
特に、
 「如何なる企業でも、人間によってつくられた組織である以上は、創業の精神と哲学は変えてはならない。しかし同時にまた、経営環境の変化に即応して絶えざる改革を断行し、守成を果たさなければならない。」
 「そして、経営の世界もまた、創業よりも維持守成が難しい人間の営みなのである。」
 凡そそのような趣旨のお話だったような気がするが、そのお言葉は今でも強烈に残っており、常に私の経営判断の基準としてきました。

 書店の方々との思い出は枚挙にいとまがない。書店の経営者や関係者の多くの方々は、経験が浅く若年で創業した私より年長者でした。そのためか、彼らは常に優しく対応していただき、たくさんの勉強をさせてもらいました。紀伊國屋書店営業総本部の皆さんをはじめ書店の皆さんや取次の方々には親しくさせて頂き、懐かしく思い出されることが少なくありません。私の出版人生の半分は書店や取次の方々との御付き合い人生でもあったといっても過言ではありません。先輩の皆さんは私よりも年上でしたので、今では吉枝氏をはじめ多くの人たちは退職されたか鬼籍に入られてしまいました。寂しい限りです。

 振り返ってみれば四十数年間の経営は、氏の教えの通り創業精神の維持と改革のバランスを保つことの連続でした。ゆまに書房の変革は大きな流れで見ると約7年の周期でやってきました。そのたびに苦楽を共にした社員の愛社精神は、ゆまに書房の創業精神でもあり、何物にも代えがたい宝であると私は今でも自負しています。

 今年はその7年周期で計算すると第Ⅵ期の最後の年となります。出版界の世界は過去に類を見ないほど右肩下がりが続いています。そのような状況下で、創業精神を保ちながら如何に変革を遂げていくかが大きく問われる時代でもあります。特に、前回の本コーナーでKが述べているように、これから迎えるであろうミレニアル世代が読者の大半を占める時代が到来(少々異論はあるが)したとき、「たまたま座った電車の前の席で必死に我社の本を読みふけっている若者の姿を見てみたい」と創業したゆまに書房の創業精神とか、「ゆまに書房の本で私の人生は大きく変わりました」と感想の手紙を頂いた時の喜びは、はたして残っているのだろうか。うまく変革を遂げているのであろうか・・・・。心配は尽きない。唯、確かなことは変革の意識をしっかりと持ちながら1年、1年確実に歩んでいくことしか我々はできないのだと思う。

 人は誰でも「水は方円の器に従うように」自分の出所進退を間違うことなく、晩節を汚したくはないと考えている。私もいつのまにかそのようなことを考える年齢になったようだ。とはいうもののなかなかそれを実践することは容易なことではない。
 性懲りもなくまた新しい年が早足にやってきました。さあ急ごう、ミレニアル世代がやってこないうちに・・。

明るい未来(編集室K) 投稿日:2015/12/11

 「ミレニアル世代の力」という小林いずみ氏のエッセー(註1)を読んだ。「ミレニアル世代(millennial generation)」とは、1980年代~2000年代前半に生まれた世代で、「M世代」とも呼ばれている。「この世代は生まれた時からデジタル化された生活の中にあり、常時インターネットとつながり、これまでの世代とは異なる価値観を持っているといわれている」と述べている。執筆者自身「その実態を十分に理解していない」としながらも、行政も企業もこのミレニアル世代の動向について意識しなければならない、と提言する。
 そういう世代を理解できない、とか、デジタルに頼ってばかりじゃだめだ、とか言っていては、政治や経済は動いていかない。教育も同様だろう。ミレニアル世代がすでに人口の多くの割合を占めて、この国、そして世界に存在していることを前提に、今とこれからを考え、論じなければならない。

 もうひとつ“受け売り”の言葉を紹介したい。ロボット工学の石黒浩大阪大学教授がテレビで語っていた言葉である。「テクノロジーの進歩は、人間の進化である」というもので、言われてみればそうかと思う。東京からニューヨークへ13時間かそこらで移動できたり、一秒間に一京回の演算を行ったりするのは、やはり、人間の進化にほかならない。膨大な情報を、ポケットに入る小さな機械で、どこでもいつでも見られることも進化である。

 そして、ショッキングなニューズがひとつ。野村総研がオックスフォード大学の研究者と共同で研究した結果、現在日本国内で働いている人の49%が従事している業種が、近い将来、機械や人工知能に置き換えられることになるだろう、という予測が発表された。これはやむを得ないことであろう。駕籠かき、馬方、瓦版屋から両替商など、時代とともに消えていった仕事が思い浮かぶ。

 コンピュータ、そしてネットワークが社会を変えるということは言われて久しいが、だんだんその実際の姿が見えてきたということだろうと納得している。ただ、私の最大の関心事である「本の行く末」はどうなるのだろうか。

いつの日か、「電車の中で重そうな紙の束を見つめて、一枚一枚めくっている変な人がいた」などと言われる日が来るであろう。紙という素材も珍しいものになるに違いない。それと、その紙の束を見ている人は、誰ともつながっていない、かわいそうな、あるいは、反社会的な存在と見られるのかもしれない。

2045年頃に、人工知能が人間の脳を超えるという予測がある。超えるかどうかわからないが、生活の様々な分野でデジタル化が一通り揃っていると考えられる。部屋を塞ぐ本棚などという家具は消えているだろうし、本を何冊も詰め込む鞄もいらないだろう。そのことだけで、私にとっては「明るい未来」と言える。ただし、残念なことにその時代にはもう私はいない。
                                    
註1.『経済同友』2015.11。

旅行案内書の愉しみ(編集室H) 投稿日:2015/11/17

 『シリーズ 明治・大正の旅行』第Ⅰ期・旅行案内書集成は、その名の通り、近代の旅行史を《旅行案内書》からたどる資料集である。
 第1回配本では<近代の名所図会>をテーマとして、近世以来の名所図会という手法を用いた「近代の名所図会」類を復刻した。続く第2回配本では<鉄道旅行案内書の誕生>をテーマに掲げ、明治期以降に誕生した旅行スタイルである「鉄道旅行」に焦点をあて、江戸時代の道中記を引き継ぐ特徴を持つ初期の鉄道旅行案内書を中心に取り上げた。第3回配本では第2回配本の範囲を拡げ、<北海道・外地・植民地の旅行案内書>として、台湾、朝鮮、樺太、満洲における鉄道旅行案内書を収録した。さらに、第4回配本では近代の旅行を特徴づける船旅に注目し、<海上旅行の案内書>をテーマに大阪商船と日本郵船より発行された旅行案内書を収録した。

 これまで復刻刊行した旅行案内書の終着点として、第5回配本では日本初の旅行代理店ジャパン・ツーリスト・ビューローより発行された同社初の旅行案内書『旅程と費用概算』を取り上げる。大正9年に初めて刊行されてから、何度も版を重ねており、確認できるかぎり、昭和15年まで発行されている。本復刻では大正9年版、大正15年版、昭和3年版の『旅程と費用概算』のほかに、旅程案内書の原型と考えらえる類書もいくつか収録する。
 ここで『旅程と費用概算』〔大正15年版〕のなかを少しみてみよう。東京から日帰りで行ける場所の紹介にはじまり、2日間、3日間、4日間、5日以上で行ける全国各地の遊覧地や周遊のコースも提案しながら、旅程にかかる交通費や宿泊場所、宿泊費、食費もしっかりと記載している。旅行の起点は東京だけはない。京都や大阪、長崎からの旅程案内もある。そのほかに「北海道及樺太旅行日程」「台湾旅行日程」「鮮満支旅行日程」なども紹介している。当時の読者はこの小さな案内書を携行して旅行を楽しんだのかもしれないし、あるいは机上旅行を楽しんだのかもしれない。

 本書はこの時代の旅行を知る上で貴重な歴史資料でもあるが、読んでいてとても楽しい資料だ。たとえば鉄道から見える風景も観光場所として紹介しており、この時期の鉄道の車窓から見える日本の風景を思い浮かべながら地図をたどってみたり、現在の旅行ガイブックとくらべてみたりするのもおもしろいだろう。旅行ガイドブックは答え合わせをしている気分になるのであまり好きではなかったのだが、今回の旅行案内書の企画に携わることになって、旅行案内書の愉しみ方を少しだけ知れたような気がする。

 この『旅程と費用概算』の復刻版刊行をもって、本シリーズ第Ⅰ期は完結となる。近代社会の中であらたにうみだされた旅行とはどのようなものであったか、旅行が社会においていかにして浸透していったのか、明治・大正期に刊行された旅行案内書の変遷から明らかにすることが本シリーズの大きな目的である。「旅行」という視点から近代日本を捉える資料として、活用していただければ幸いである。

初めての社員公募 ―創業四十周年を迎えて思い出す人々(4)(H・A) 投稿日:2015/10/09

 先月遂に可決してしまった安保関連法や原発再稼働問題、さらには沖縄の辺野古基地移転問題等々、安倍政権の強引な政権運営は国民の多くが疑問を持っている。安保関連法に至っては世論調査によれば国民の8割以上が反対意見である。安倍総理は国会答弁の中でしばしば国民の付託を受けた国会議員の大多数が責任を持って決めることは決めなければならないと強調するが、我々はいずれの法案についても現国会議員に全面的に付託した覚えはない。現在の与党議員は国民の付託を受けて国会議員になったのであれば、権力者の顔色ばかりうかがって、主権者である国民にしっかりと対峙していない。恥ずかしくないのであろうか。これらの法案や法律は、もし仮に国民投票を行えばいずれも確実にNOの判断が下されるであろう。何故現政権は国民の多数が反対する方向へ進もうとするのか。民主主義とは、立憲主義とは何であろうか。丸山眞男は先の戦争を振り返って「戦争は静かにゆっくりとやってきた」と語っている。きっと近い将来、「我が国はあの時からゆっくりと戦争への道を歩んでしまった」と歴史学者は証言するのだろう。
                           *
 昭和天皇が亡くなられて、年号が昭和から平成に変わった時もなんとなく嫌なムードが世間に漂っていました。社会全体が自粛ムードに溢れ、多くの大学の授業は休講になり、中・高の修学旅行も中止、お祭りや町内会のお祝い事も全て行われませんでした。

 ゆまに書房はそんな中で、平成元年1月、朝日新聞と読売新聞に社員募集広告を掲載し創業以来初の社員公募を行いました。当初果たして何名の応募者があるのだろうか不安でしたが、驚いたことに約1,000名弱の方から応募の履歴書が送られてきました。会社は書類選考の結果50名を選出し、急遽大手町にある農林中金の会議室を借りて筆記試験を行いました。もう27年も前のことですので、どのような試験問題であったかは忘れてしまいましたが、採用の要件として一番重点を置いた点は、試験点数よりも受験態度でした。試験中の必死な態度や休憩時間中の過ごし方に注意を払いました。そして、その中から20名に絞って面接を行いました。その結果、編集部員3名、営業部員2名を新規採用しました。しかし、営業部員として採用を決定した2名の内の1名が、他社の募集にも応募していてそちらも採用が決まったので弊社は辞退したい旨の返事がありました。そのため翌々月の3月再度営業部員のみ募集して2名さらに追加採用しました。

 この時新しく採用した編集部員はいずれもが優秀で、現在の編集部の基礎を築いてくれました。ゆまに書房のニュー編集部は従来の近世文学や近代文学、歴史、地誌等のジャンルに加え、新ジャンルの企画を次々と立案してくれました。現在もゆまに書房の主要ジャンルの一つである美術や映画関係の企画や言語学や絵本関係の企画は平成になって生まれた新しい企画でした。代表的な企画は『近代美術雑誌叢書』(第Ⅰ期 全23巻・別冊6、平成2年刊)、『近代美術関係新聞記事資料集成』(マイクロフィルム全71リール+別冊1、平成3年刊)、『戦前映像理論雑誌集成』(全21巻、平成元年刊)、『今村太平映像評論』(全10巻、平成4年刊)、『新興芸術・新興芸術研究』(全6巻、平成2年刊)、『日本列島方言叢書』(全34巻、平成2年刊)、『近世蘭語学資料』等々です。「ゆまに/のん/ふぃくしょん」を創刊したのもこの時期です。『白洲次郎の日本国憲法』(鶴見紘著)、『新・パパ、スカートはいてよ』(竹中美弘著)、『白い犬とワルツを』(三木卓翻訳)等々、今までにない一般書を次々と刊行しました。さらにビデオ商品も開発しました。『21世紀の仕事』に続いて『名作ってこんなに面白い』は人気ドラマ「時間ですよ」や「寺内貫太郎一家」などを演出、作家でもあった久世光彦氏が経営していたカノックスと提携して製作した日本文学のストーリーを紹介した短編ドラマです。本商品はその後DVD化し現在でも多くの読者に要望されおり、我社の最大のロングセラーになりました。
 この第1回社員公募で入社してきた編集者の一人に奥寺純子氏がおりました。彼女は青森高校、ICUを卒業し24歳で入社した才媛でした。彼女はとても仕事が早く、仕事に情熱を持っていました。大学で言語学を専攻していた関係もあって、ゆまに書房では国語学や方言、英学の他、文学関係の企画に力を発揮しましたが、絵本も担当したいと常々嘆願していました。ある日「ぜひ読んでいただきたいのですが」と渡された文庫本が『白い犬とワルツを』でした。これを絵本にして刊行したいと訴えてきました。これまで絵本は一度も出版したことがありませんでしたので大変迷ったのですが、「絶対に出したいのです。必ず売れます」と引き下がりません。結局彼女の情熱に負け、絵本に挑戦してみようということになり、芥川賞作家・三木卓氏に翻訳を依頼して刊行しました。本作品は同時期偶然にも映画にもなり我社にとっては単行本としてこれまで最大のヒット作になりました。
 しかし、2002(平成14)年、彼女は3歳の子供を残して胆管癌で夭折してしまいました。前年の9月ごろ帰宅途中急に異常を訴えて中央線のある病院に駆け込み入院したのですが、大病院の方が良いと判断して、知り合いの先生がいたお茶の水駅に近い東京医科歯科大学付属病院にすぐ転院させました。その年の暮れ、会社の忘年会が始まる前に病室をのぞいた時にはちょうど洗濯をしていて、思ったより元気な姿で動き回っていて安心していたのですが、翌年3月30日あっという間に亡くなってしまいました。癌を宣告されてわずか半年後のことでした。39歳の若さでした。現役の社員を失うことはこんなにも寂しく無念なことなのだろうか。初めての体験でした。家族の方と社員たちで葬儀を行い、1周忌には眠っている青森の墓前に社員全員でお参りに行きました。
 彼女が残した多くの作品は今でも稼働しています。
奥寺純子という一編集者がこの世に確かに存在した証しでもあります。

「承業」の重み(編集部K・Y) 投稿日:2015/09/08

 出版部のK・Yです。今回は8月に刊行した『竹中工務店建築写真集』について、タイトルに掲げた「承業」(しょうぎょう)という耳慣れない言葉をキーワードに、編集しながら感じたことなどをお話ししようと思います。
 株式会社竹中工務店の創業は、誤解を恐れずに言うならば、慶長15年(1610)と明治32年(1899)の二度です。それにはごく簡単に書くと次のような背景がありました。まず前者は、尾張織田家に仕える普請奉行であった竹中藤兵衛正高が、天正10年本能寺の変の後、織田家再興の道が断たれると刀を置いて市井の人となって工匠の道に活路を求め、慶長15年から始まる名古屋城築城に大工棟梁として携わるほどの地位を築いたことに由来します。つぎに後者は、明治政府の殖産興業政策によって重要な貿易拠点として発展しつつあった神戸に、14代竹中藤右衛門が「竹中藤五郎神戸支店」の看板を掲げ、欧米の建築技術を習得し近代建築業者としてスタートを切った年に当たります。それぞれの細かい経緯については所収の解説をご覧頂きたいのですが、いずれも激変する時代の変わり目に、決して平たんではない道のりを、新たに挑戦することで切り抜けてきた一民間企業の足跡が浮かび上がります。
関東大震災から戦時下の建築統制までに設計施工した代表的な建物を収める5冊の写真集。その最初となる大正13年刊行『承業弐拾五年記念帖』は、関東大震災からの復興を受けて編纂された社史ともいえるものです。本書の序文で竹中藤右衛門氏は次のように語ります。「回顧スレバ承業二十五年ノ担当ノ工事大小幾千ト云フヲ知ラズ、今茲ニ其一部ヲ収録シテ過渡期ニ於ケル建築変遷ノ後ヲ窺ヒ一ハ半生ノ苦労ヲ記念シ一ハ将来ノ修省ニ資セントス」。ここには、それまでの事業を受け継ぐと同時に、次へ向かうために必要なものは自らの経験・蓄積のなかに見出せるものだというメッセージが込められているように思われました。
弊社の近くにも、写真集に掲載される建物が現存しています。そのなかの一つ、昭和初期のオフィスビルの最高峰で初めて国の重要文化財に指定された明治生命保険株式会社を、編集作業も終盤にさしかかった8月最初の週末に見学しました(無料一般公開)。この建物は今でも明治安田生命保険相互会社の「丸の内お客様ご相談センター」として現役なのですが、ちょうど70年前、第二次世界大戦の後にはGHQによって接収されアメリカ極東空軍司令部(FEAF)として使用されていたという過去があります。米・英・中・ソの4ヵ国代表による対日理事会(ACJ)の第1回会議(昭和21年4月5日)でD.マッカーサーが演説を行った会議室も観ることが出来ます。壮麗な建物とそこで繰り広げられる日常、刻まれた歴史―「歴史認識」とは何かを厳しく突きつけられ、日に日に強まる閉塞感のさなかにあってもなお、歴史をないがしろにせず、それを継承することの重さを個人のレベルでしっかりと受け止めなければならない最後の時代に私たちは生きているのではないか―監修者・石田潤一郎先生の「一企業の活動記録をはるかに超えて、建築とその時代の変貌を伝える物語」との言葉を思い出して、素人なりにこの国の行く末を案じつつの建築探訪となりました。
ちょうどこのメールマガジンの原稿を書き始める前の日、『スサノヲの到来―いのち、いかり、いのり』展を観に渋谷区松濤美術館へ出かけました(9月21日まで)。建築に関心ある方にとっては、この美術館そのものが白井晟一の作品で、大変見応えに富む内部空間をもつ建物ということは周知のことと思います。その瀟洒な気配に満ちたひとつの空間に、荒ぶる自然神であり和歌の始祖としての繊細な美意識を兼ね備える「スサノヲ」の、縄文土器にはじまる造形の歴史と、近代の田中正造・南方熊楠・折口信夫らの活動が「スサノヲを生きた人々―公憤としての清らかな〈いかり〉」としてくくられて、地続きのものとしておかれています。建築が人間の憤りを未来へのエネルギーに変換して抱え込んでいる、とでも言いたくなるような展覧会ですので、こちらも実際に足を踏み入れていただきたいと思います。

編集室だより(編集室T) 投稿日:2015/08/10

 今年は戦後70年である。6月に10年越し(諸事情により…)の企画であった『戦争の記憶と女たちの反戦表現』刊行した。女性作家が「戦争」という事実に、戦後どのように表現で向き合ったかを検証する論文集である。<「核」の時代と向き合う>という章があって、4本程、大田洋子などについての論文が収められている。

 10年ほど前に、『こころとからだの処方箋』という心理学のシリーズで、当時広島国際大の学長であられた上里一郎先生に監修をお願いした。先生は月に1度ほど上京されるのだが、その毎にお会いしてお話しする機会を得ていた。仕事の話は最初の10分程度、あとはほぼ雑談である。臨床心理学の権威で、一流のカウンセラーでもあるので、お話していると実に穏やかな気分になる──とにかく魅力的な方だった。
 1度だけ、広島を訪ねたおり、食事の際に「原爆資料館には行かれましたか?1度だけでいいですので行ってみてください。非常にヘヴィですからね、私たちだって何度もよう行きませんから」と言っていただいたのだが、その時は
寄らずに過ごしてしまった。
 2011年に先生は亡くなられて、その年末12月25日に広島でお別れ会があり、その言葉を思い出して資料館に寄ってみた。展示のなかに爆心地を中心に据えたジオラマがあって、破壊の規模が分かるようになっている。それから外に出て、ぐるりと四方を見廻すと、さらに本当によく分かってゾッとするのである。
 
 話は変わるが、その心理学のシリーズを担当していたのが遠因で、心理教育ツールの企画制作と普及活動をしている、プルスアルハさんの絵本を出すことになった。親がこころの病気であることを子どもにどう伝えるか、というテーマで、①うつ病/②③統合失調症/④アルコール依存症と、順調に刊行を続け、版を重ねている。
 子どもの側からとなるシリーズ「子どもの気持ちを知る絵本」も刊行を始め、9月には第3巻となる『発達凸凹(でこぼこ)なボクの世界―感覚過敏を探検する―』を刊行予定である。①では不登校、②では家庭不和を扱った。「子どもの気持ちを体感し、かかわりのヒントにしていただく」というのがコンセプトである。この絵本が少しでも多くの子どもと親御さんに届くことを願ってやまない。

“ゆまに”について(営業部A) 投稿日:2015/07/17

 6月の終わりに、紫陽花でも見に行こうとふと思い立ち、府中市郷土の森博物館を十年ぶりに訪れてみた。
入場料200円を納め、30℃超えの真夏日の中を“あじさいマップ”片手に園内をひと回り・・・日陰に咲く花はまだ綺麗なものもあったが、日向に咲いているものは、もう見ごろを過ぎていて、紫陽花は6月半ばくらいまでの梅雨らしいジメッとした雰囲気の中で一番映えるな・・・と残念に思いながら観賞を終えた。

 せっかくなので、博物館の常設展示室や、園内に立ち並ぶ復元建築物も見学していたら、“ゆまに”に通じる発見があった。

 旧府中尋常高等小学校の中に、府中出身の現代詩人、村野四郎記念館がある。ここでは、村野四郎の生い立ちや、彼の作品が生まれた精神的背景が展示されている。
 「実存主義」「ヒューマニズム」・・・どこかで聞いたような・・・。

 村野四郎の詩には、『巣立ちの歌』や『ぶんぶんぶん はちはとぶ』など、子ども向けに親しみやすい作品もあるが、新即物主義(1920年代後半にドイツに興った文学・芸術運動。新現実主義・新客観主義ともいう。・・・簡潔に事物に即して描こうとする新しい現実主義。広辞苑第4版より)の客観性に惹かれ、「実存」「人間存在の本質」を追求した、暗い翳をおびながらも行動的な勇気に満ちたものが多い。代表的詩集は『亡羊記』。
 弊社刊『コレクション・都市モダニズム詩誌 第6巻 新即物主義』にも、村野四郎が創刊した詩誌『旗魚』などが収録されている。

 さて、ゆまに書房の“ゆまに”の由来であるが、簡単に説明すれば、弊社HPにもあるように、「HUMANISME ユマニスム」(フランス語で人文主義)の意味である。
少し前に社内の会合があり、創業者に“ゆまに”の由来を改めて直接尋ねてみたところ、「実存主義からきてるんだよ。」あれ~人文主義じゃないのかな・・・「サルトルのことばだよ」〈実存主義はヒューマニズムである〉。
 そう、“ゆまに”・・・ひらがなのやわらかい感じで音も可愛く気に入っている社名であるが、哲学的要素を含んだとても奥深~い社名なのである。
 
 今回の紫陽花見学が社名をまた深く考えることになるきっかけとなった。

 “ゆまに”社名の由来の詳細は、不定期連載中の『創業四十周年を迎えて思い出す人々』のどこかで、“H・A”がきっと説明してくれるだろう。

書道と私(編集室K) 投稿日:2015/06/15

 小学生のとき、書道塾に通ったことがあった。悪筆で、落ち着きのない子には一石二鳥の習い事と親は考えたのかもしれない。両親はそれぞれちょっと字には自信があり、その親のもとに生まれた子がこんな字を書いていると失望していたようだ。
 大きな体育館のようなところで行われた大会に出たことがあった。前日の夜に、試しに書いてみたらあまりにひどい出来だったので、目を釣り上げた母に夜遅くまで特訓された。翌日、何とか務めは果たしたが、それ以降の習字に関する記憶がないので、嫌気がさしてやめてしまったのだろう。
 大正生まれの父は、今は施設に入っている。顔を出すたびに廊下の壁に貼り出された毛筆の半紙の中に父のものを見つける。「なかなかいいじゃない」などと一応褒めるのだが、決まって「あれはちょっと気に食わない」とか「あの字は書きにくい」などと答える。「本当はもっとうまい」と言いたいらしい。しかし、もし、父が一世一代の自信作を書いたとしても、申し訳ないが、私にはその良し悪しはわからないだろう。

 斯様に書道に縁のない私が、『王羲之王獻之書法全集』の日本版にちょっと関わることとなった。「王羲之」の名は、塚本邦雄が熱烈に語っている文章で初めて目にしたと思うが、二十代の私は興味がわかなかった。しかし、今、どう見たらよいかはわからないものの、写真版、それも原寸大のカラーの作品を見ていると何だか圧倒され、また楽しく感じられてくる。
 5月の末、監訳をお願いしている河内利治先生の御作品を拝見する機会を得た。「書索展」というグループ展が有楽町マリオンで開かれていて、参上した。書の作品を、時間をかけて見るのはほとんど初めてのことだった。いろいろな先生方の作品を見ることが出来、書の世界の深さと広さを思った。
 王羲之は、その広い書の世界の北極星のようなものだろうと思う。4世紀、日本では邪馬台国と大和朝廷の間の時期、中国にはこうした人物がいたことはやはり驚きである。文化というのは、時代と才能がよい条件のもとで出会ってはじめて開花するのであろう。
香り高い文化にちょっと酔っていた矢先、以下のニュースが目に飛び込んできた。

 文部科学省は27日、全国の国立大学に対して人文社会科学や教員養成の学部・大学院の規模縮小や統廃合などを要請する通知素案を示した。(産経、2015.05.28)

 調べてみると、以前からの動きらしいが、本当にそれでよいのだろうか。科学や技術ももちろん大切だが、古今東西の文化、文学、歴史、思想、社会を研究する人々が、大学には居て欲しいと思う。文科省は「社会の要請」と言うが、本当なのか。世界の富の半分近くを持つ1%の人々の利殖の対象にならないものは不要ということではないか。何だか寂しい社会がやって来そうである。
 仕事の場から身を退く日が来たら、残る時間を王羲之の書を一つ一つ眺めながら、文化の薫りにひたって暮らしたいと思う。