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ゆまにだより

『警務彙報』 監修の言葉          松田利彦 投稿日:2023/04/24 NEW!

 日本の朝鮮統治において治安維持は最重要課題だった。日本は、朝鮮人の義兵闘争を鎮圧して「韓国併合」(1910年)を果たしたものの、1919年には朝鮮全土で三・一運動が起こるなど、常に朝鮮人の独立運動に注意しつづけなければならなかったのである。それを現場で担ったのが警察である。
 朝鮮警察がどのような治安対象に関心を払い、どのような活動を展開していたのか―それを生々しく伝えてくれる資料が、朝鮮警察の機関誌だった『警務彙報』である。1908年9月に『警察月報』の名で創刊され、併合を前後して『警務月報』『警務彙報』と改称された。
 『警務彙報』は、当初、法令や例規、通牒を末端警察官に伝達する執務資料としての性格が強かった。しかし、三・一運動後、憲兵警察制度が普通警察制度に改編されると、『警務彙報』も誌面を刷新し、総督府警察官同士の交流のための親睦誌としての性格ももつようになった。同時に、誌面には、1920年代の抗日独立運動の活発化・多様化、「警察の民衆化、民衆の警察化」キャンペーンの隆盛など「文化政治」期特有の状況も反映されている。日中戦争期になると、朝鮮警察は、時局座談会の実施(1937年)、経済警察の新設(1938年)など、総力戦体制構築の一端も担うことになり、『警務彙報』はそのための知識を警察官に修得させる役割を果たした。
 植民地朝鮮において警察はさまざまな業務にたずさわった。その警察と盛衰をともにした『警務彙報』には、したがって、植民地統治政策の変遷を映しだした多くの記事が載っている。本資料集の刊行によって、この雑誌が今後の植民地期朝鮮研究にさらに活用されることを願ってやまない。
(国際日本文化研究センター教授・副所長)

『松㝢日記 -水戸藩弘道館訓導 西野宣明 書物記-』刊行にあたり 投稿日:2022/12/15

西野宣明は、水戸藩士で、江戸後期から明治にかけて弘道館訓導兼務として、国学並武家故実掛、山稜取調掛など役職を歴任し、図書の管理や考証・校正・清書などに携わった。倭学の師に小山田与清がおり、天保10年には『訂正常陸国風土記』を刊行、写本では多数の考証が確認できる。日記の内容は多岐に渡るが、なかでも書物および文藝に関する記述の多さは近世史のみならず書物学にも資するところが大きいものと思われる。数々の書名のみならず、鷹書などの諸本校合などの校正、『八洲文藻』を初めとする国史の進献に関わったほか、弘化3年に小山田与清の旧蔵書を彰考館文庫が引き受けた際、その献納処理にあたっていた。この日記を書誌書目シリーズの一隅に配するのもその理由からである。本複刻を通じて江戸時代における図書利用の一端を知らせることができれば望外の喜びである。
 

『戦前・戦中・戦後のジェンダーとセクシュアリティ』刊行にあたり     岩見照代(前・麗澤大学教授)  投稿日:2022/11/16 NEW!

 私たちは、どのようにして、自明とされてきた〈男/女〉という〈性〉の二元論を越えて、女や男のイメージを内面化し、身体化することができるのか。「LGBTQ+」といったセクシュアリティの多様性の中で、今、性自認の再構築が求められている。
 婚姻関係の男女とその子供からなる近代家族を基盤とした社会制度において、男は〈外〉・女は〈内〉という性役割を強いられてきた。人々は社会から排除されないために、結婚における誓い、処女/童貞、性行為など、社会が求める性的規範を、無意識のうちに内面化し、身体化してきたのである。
 本企画は、一九三〇年代から一九五〇年代末まで、あえて三〇年という短い時間軸を設定することで「性教育・性科学・性倫理・処女性・女らしさ・美容・ 衣服・売買春」といった、これまで〈自明〉であったさまざまな性規範が、どのように変化していったのかを見えやすくしたものである。そのために、原資料には、記録文学や人事調停といった当時者の語りや、〈声なき経験〉も収録した。
 刻々と変容を続けるセクシュアリティの様相をとらえようとする本企画は、現代の性の急激な変貌を考えていくための一助となるはずである。

『大林組 工事画報 戦前篇』刊行にあたり     橋爪紳也(建築史家・大阪公立大学特別教授)  投稿日:2022/09/29

 本企画は、大林組が編纂・発行した年鑑形式の刊行物や、竣工写真帖、記念帖、図集などを復刻し、明治・大正・昭和戦前期・戦後高度経済成長期までの同社の歩みを総覧するものである。
 明治25年(1892)1月25日、大林芳五郎は、大阪で土木建築請負業「大林店」の看板を掲げる。阿部製紙所工場を皮切りに、朝日紡績今宮工場、金巾製織四貫島工場などの建設を請け負った。今日に至る大林組の創業である。
 大阪市築港工事や第五回内国勧業博覧会などの大事業を成功させた経験を経て、明治37年(1904)に「大林組」と改称、東京にも事務所を開く。ついで社内に設計部門や製材工場を設けて、総合請負業としての業態を整える。以来、同社は、わが国の近代化の歩みと軌をひとつにして、社業を発展させてきた。
 明治44年には東京中央停車場(東京駅)の建設工事を落札、翌年には伏見桃山御陵造営の特命を受けたことで、全国にその名を広めることになる。いっぽうで創業者である芳五郎は、箕面有馬電気軌道、広島電気軌道、阪堺電気軌道、京津電気軌道、広島瓦斯など電鉄事業や瓦斯会社の設立にも深く関与、都市基盤の整備にも尽力した。
 大正7年、二代社長大林義雄のもとで株式会社大林組に改組、昭和戦前期にかけて、明治神宮外苑競技場、阪神甲子園大運動場、大阪城天守閣など、注目される建物をあいついで完成させている。また多摩御陵の造営、昭和天皇即位御大典関連の諸工事など、皇室関連の事業も継続して受注している。
 戦後において、その業務はいっそう拡大する。日本万国博覧会(1970年大阪万博)では多くのパビリオンを施工、とりわけ日本では先例のないジャッキアップ工法を導入したお祭り広場の大屋根は話題となった。また国内では初の超高層建築である横浜ドリームランドのホテルエンパイア、大阪ドーム、京都駅ビル、東京国際フォーラム、東京スカイツリーなど、都市のランドマークとなる建物を竣工させてきた。また東京湾アクアラインなど、わが国の基幹となる土木事業にも深く関わってきた。
 大林組は、工事を請け負った建物や施設を紹介するべく、昭和5年以降、戦時中の中断期間を経て平成14年まで、『工事画報』と題する冊子を刊行した。また創業50周年の節目には、創業時にまでさかのぼり、各時代の代表作を網羅して紹介する『記念帖』を発行した。
 今回はまず「戦前篇」と題して、昭和13年までの『工事画報』と『記念帖』を影印復刻版として、順に刊行するものである。将来的には「戦後篇」、さらには同社が施工した主要建物の竣工記念案内、分譲住宅の販売関連資料、家具制作に関する資料類などをもとに、アンソロジーの出版を継続する企画として準備している。
 大林組は、2021年に創業130年の節目を迎えた。同社がいかにして日本を代表する施工事業者へと成長をみたのか、また従来の土木建設業の枠を超えた新たな企業への発展を模索しているのか。その歩みを識り、将来を見据える基礎資料として、今回の復刻が、広く活用されることを願う次第である。

『語学教育(1942~1972年刊)』刊行にあたって   江利川 春雄(和歌山大学名誉教授・日本英語教育史学会名誉会長) 投稿日:2022/06/13 NEW!

 『語学教育』(1942~1972年刊)は、日本の外国語教育改革をリードしてきた
語学教育研究所(語研)の機関誌である。語研の前身は1923(大正12)年に文部
省内に設立された英語教授研究所で、ハロルド・E・パーマー所長を中心に、音
声を重視したオーラル・メソッドの普及活動、各種の調査研究、英語教科書・
教授法書の刊行、毎年の英語教授研究大会の開催などによって日本の英語教育界
に巨大な足跡を残してきた。
 研究所の機関誌 The Bulletin of the Institute for Research in English
Teaching(第179号まで名著普及会が1985年に復刻)は、戦時下の1942(昭和17)
年2月発行の第180号より『語学教育』に改題され、それまでの英文本位から邦文
本位に改められた。1944(昭和19)年11月には、出版統制により広島文理科大学
英語教育研究所発行の『英語教育』(ゆまに書房が2020?2021年に復刻)を併合
し、戦時下で唯一刊行を許された語学教育専門誌となった。
 今回の復刻版は、『語学教育』の初号である第180号(1942年)から終刊の301
号(1972年)までの30年間に刊行された、合併号を含む全122号・114冊である。
すでに復刻されているThe Bulletin と連続することで、創設から半世紀に及ぶ
研究所の活動の全容が初めて明らかになる。それは同時に、1920年代から50年間
の日本の語学教育史そのものを通観させてくれる。
 『語学教育』は、当初は英語以外にドイツ語、フランス語、中国語、タガログ
語、日本語などに関する論考も掲載され、戦後は英語教育を中心とするようにな
った。月刊誌として出発したが、敗戦前後に1年8カ月のブランクがあるなど、
平均すると年に3.8冊の刊行だった。その実体に合わせるかのように、1967(昭
和42)年11月の282号から季刊となった。
 『語学教育』は、アジア・太平洋戦争期に始まり、敗戦・占領下の学校教育
改革期を経て高度経済成長期へと続く、語学教育の激動の足跡を証言する第一級
の基本文献である。たとえば、戦時下での陸海軍の学校における外国語教育や
「大東亜共栄圏」の諸言語に関する希有な論考、戦後の新制中学・高校での外国
語教育のあり方や教材の扱い方、大衆化する大学での英文科の改革問題や教師教
育の課題など、貴重な論考の宝庫である。必修語彙の選定や英語科教育課程の検
討などの調査研究も有益である。それゆえ、川澄哲夫編『資料 日本英学史』
(大修館書店、1978?1998)に収録されている論考も少なくない。
 しかし、その学術的な価値の高さにもかかわらず、1945(昭和20)年春の大空
襲による研究所の焼失や敗戦直後の混乱もあり、『語学教育』は散逸がはなはだ
しい。同誌を全冊揃える図書館は存在せず、語研にも全冊は揃っていない。その
ため長らく復刻が待たれていた。このたび語学教育研究所理事会の了承を得て、
完全復刻にこぎ着けることができた。ついに幻の雑誌の全貌が明らかになるので
ある。
 『語学教育』の寄稿者は、市河三喜、福原麟太郎、土居光知、櫻井役、青木常
雄、山本忠雄、石橋幸太郎、星山三郎、飯野至誠、五十嵐新次郎、寺西武夫、皆
川三郎、外山滋比古など、日本の語学教育界を代表する錚々たる人々で、質の高
い論考を提供している。英語教育を中心としつつも、ドイツ語、フランス語等も
含む語学教育の目的論、教授法、教材論、教師論、人物論、調査研究、実践報告、
書評など実に包括的で、小学校の英語教育から大学の語学教育までをカバーし、
今日的な示唆に富むものが多い。毎年の語学教育研究大会の報告も、英語教育界
の歩みを知る上で欠かせない。
 2022(令和4)年はパーマー来日100周年、翌年は語学教育研究所の創設100周
年にあたる。こうした記念すべきときに『語学教育』の全冊が復刻される。語学
教育が混迷を深めるいま、未来の展望を切り拓くために、先人たちの過去の知的
営為から謙虚に学びたい。積極的な活用を願ってやまない。

『東邦協会会報』監修にあたって      有山輝雄(メディア史研究家) 投稿日:2022/05/23

 今回復刻する『東邦協会会報』は前回復刻した『東邦協会報告』に引き続き、
日清戦争中の一八九四(明治二十七)年から第一次世界大戦直前の一九一四
(大正三)年までの長期間発行された東邦協会の機関誌である。これだけ
長期間発行されたということこそ、この雑誌の最も重要な資料的価値である。
東邦協会は副島種臣を中心に一八九一(明治二十四)年に成立し、朝鮮半島
政略に積極的役割を果たしたが、そうした国権主義的団体が三国干渉、
北清事変、日英同盟、日露戦争、韓国併合、辛亥革命といった複雑な東アジア
情勢に対してどのような認識をもったのかは非常に興味深い問題である。
日清戦争前までは比較的まとまりをもっていた国権主義者達もこの時期に
なると多様化し、様々な志向をもつようになる。『東邦協会会報』には
そうした過程が直接間接に反映されているはずである。
 ただ『東邦協会会報』はその「東邦協会会報発行の理由」にうたっている
ように「現今の政事」を論ずる論説記事を避け、「専はら学術的範囲」に
属する情報や論説に限定していた。これは新聞紙法の定める保証金を避ける
ための措置であるが、それだけではなく、政事論説を掲げて会内の分化を
引き起こすよりも、東アジア状勢や国際情勢についての客観的な情報を提供
していこうとする東邦協会の基本的性格がこの時期も引き継がれていることを
示している。いわゆる国権派があやふやな認識にもとづく誇大な論議に傾き
がちであっただけに、こうした編集方針は重要である。会報各号に満載されて
いる情報はその収集に多大の労力が必要であったはずで、これを持続発行して
いた東邦協会の活動力はひとかたならぬものである。そしてその情報収集は
漫然としたものではなく、一定の方向性がうかがえることも注意しておくべき
だろう。
 東アジアにおける日本の位置、日本の対外認識が改めて問われている今日、
それを歴史的に考えなければならないが、『東邦協会会報』はきわめて重要な
資料なのである。

『第69回尾高賞』     製作部・S 投稿日:2022/04/19

「第69回尾高賞」の授賞作品が発表になった。
  
尾高賞(おたかしょう)は、日本の現代音楽の作曲家に与えられる作曲賞である。
  
 今回の授賞作は西村朗作曲「華開世界~オーケストラのための」(2020年作曲)と、岸野末利加作曲「チェロとオーケストラのための What the Thunder Said/雷神の言葉」(2021年作曲)の2作品。
第69回尾高賞は、本来なら2020年に発表されたオーケストラ曲から選ばれるはずだが、新型コロナウイルスの影響で、20年と21年の2年間に発表された曲 からの選考となった。これは70年に及ぶ尾高賞の歴史の中で初めてのこと。
 西村氏の尾高賞受賞は、2011年の「オーケストラのための『蘇莫者』」以来で、これが6回目。尾高賞を最多の6回受賞し、「受賞男」と呼ばれた三善晃氏についに並んだことになる。また、岸野氏は今回初めて尾高賞に選ばれた。
女性作曲家の受賞は2009年の原田敬子氏以来、13年ぶり4回目。
西村、岸野氏の受賞作品は、7月1日開催の「N響Music Tomorrow 2022」で再演される。

 弊社からも今秋『日本の音楽の歴史(仮)』を刊行予定。こちらも併せて注目して頂きたい。

『琉球文学大系』刊行にあたって   波照間 永吉 『琉球文学大系』編集刊行委員会委員長 投稿日:2022/03/23 NEW!

 琉球文学研究が始まって約120年が経つ。この間、伊波普猷・仲原善忠・外間守善・池宮正治など多くの研究者がこの未開の大地を耕して豊饒の沃野とし、さまざまな成果物を世に送ってきた。しかし、まだこの領域のテキストを体系的に整理し、研究者はじめ多くの人々に提供する仕事は成されていない。
 『おもろさうし』や琉球歌謡のテキストについては、評価すべき仕事はなされているが、琉歌・組踊はじめ説話、沖縄芝居、琉球和文学・琉球漢文学、そして文学を支える歴史・民俗などの基礎資料を含めた、琉球文学を一望するテキストの制作がなされなくてはならない。琉球文学研究、そして琉球・沖縄文化研究の拡大と深化のために、研究水準を保ったテキストの整備が必要である。『琉球文学大系』を構想する所以である。
 今回、名桜大学が『琉球文学大系』を構想し、その実現に向けて確たる一歩を踏み出したことは、琉球文学研究史にとどまらず、ひろく琉球・沖縄文化研究の世界で特筆されることである。文学領域を主要な部分とするが、文学と表裏をなす歴史・民俗などの領域についてもその必須文献を収録することとしている。これを整備し公刊することによって、琉球・沖縄文化研究は大きく裾野を広げることができるにちがいない。その概要は、全35巻。文学領域27巻、歴史領域4巻、民俗・地誌領域4巻である。これまでの研究の粋をあつめ、信頼される本文を構築し、細密な語注を施し、全巻に解説を付す。そして、現代語訳の必要な文献については可能な限り訳文も付けていく予定である。
 この事業の完成によって、ユネスコが「消滅の危機に瀕した言語」とした琉球語の表現の豊かさ・多様性が多くの人々に共有されることになるだろう。未来につながる琉球語へ永遠の生命を吹きこむ仕事になるにちがいない。
 1992年、関根賢司氏は「アンソロジー〈琉球弧の文学〉の構想」(『省察』第4号)の中で「琉球文学古典大系(あるいは全集、あるいは集成)、全一〇〇巻(あるいは全六〇巻、少なくとも三十六巻)という企画を構想しなければならない」と書いた。我々の構想の魁であることを記しておきたい。一方、氏はこれを「幻の〜」とし、その実現は「ほとんど絶望的だ」とも書いた。しかし、今、氏が負の要素として挙げた研究者の協力態勢は整い、そして編集・刊行の経済的問題も、山里勝己前学長の思想と沖縄への篤い思いに導かれて、名桜大学が本事業を地域文化への貢献事業と位置づけることによって、道が開けた。幻ではなくなったのである。10年〜12年という時間は『琉球文学大系』の完成のためにはむしろ短い。世紀の大事業の完成に向けて心して歩んで行きたいと思っている。

内閣調査室と思想の自由      編集部 M 投稿日:2021/12/15

 弊社では2020年11月より、『内閣調査室海外関係資料 「焦点」』という書籍を刊行している。「焦点」とは内閣調査室(以下、内調と略す)が1963年から1972年まで、主に社会主義圏の政治情勢について、ソ連・中国等の公開情報を元に作成した、週刊のレポートである。その質量の豊富さ、情報の正確さは、現在においても研究資料として十分に通用する。
 2020年9月、内閣は日本学術会議より推薦のあった会員候補105名中、6名の任命を拒否した。内閣はその理由を明らかにしていないが、学術会議会員の一部が、中国の軍事研究に参加していたのではないか、という「疑念」を理由と見る向きもあった。
 ところで、「焦点」を眺めていると、興味深い記事があった。それは、1964年9月7日発行の第76号に掲載された「北京科学シンポジウム終る」である(第5巻所収)。この記事は、中国が同年8月、北京で開催した国際的な学術会議に、日本からは東京大学などの国公立大学教員、気象庁などの政府機関職員、合計34名が参加した事実を述べ、日本からの報告には核物理学等、機微に触れる内容もあったことを問題視する、というものである。当時、日本は中国を承認していなかった上、中国が核兵器の開発を進めていたという状況では、内調が懸念を表明するのは無理からぬことであっただろう。これを読み筆者は、「参加した日本の科学者らは、その後、不利益を被らなかったのか?」という疑問を抱いた。
 学術会議問題が未解決のままとなった、翌2021年4月19日、同会議元会員で、気象庁元職員の97歳の男性が、会員候補6名の任命を求める6万名余の署名を内閣府に提出した、というニュースが報じられた。このニュースを読み、筆者は「焦点」の記事を思い出したため、読み返してみたところ、やはりこの97歳の男性は、1964年の北京科学シンポジウムに参加した一人であったことを確認した。
 学術会議問題について、ある識者は国家の「欲動」という比喩を用いた。しかし、政府が、中国での学術会議への参加を把握して男性について、学術会議会員に任命したこともまた事実であり、これは国家の「自制」と言えよう。
 冷戦期と現代とでは政治状況の違いは極めて大きい。その違いを差し引いたとしても、政府が学術会議の人事に容喙しなかったのは、思想の自由が極端に弾圧された戦時下を記憶している人が多かったからではないだろうか。
 現時点においても、政府が6名を任命する見込みは薄いが、「焦点」を読み込むことで、当時の国家の意思を知り、また先人の叡智を学ぶ糧としたい。

『近世日朝交流史料叢書 Ⅱ』刊行に際して      編集部 E.Y  投稿日:2021/11/25

 本書は『近世日朝交流史料叢書』の第Ⅱ巻として、文禄・慶長の役後の寛永6(1629)年、
初めて日本使節が、対馬と朝鮮の都城である漢城(現ソウル)を往復した時の貴重な記録で
ある。
 本書に収録するのは、日本側使節の正使である規伯玄方(方長老)の日記と、彼らを接待
した朝鮮側官人の記録であるが、さらに言えば、日本側の記録の方は、のちに編纂されたこ
の正使の記録「方長老上京日史」のみでなく、ほぼリアルタイムで綴られた、副使である杉
村采女智広の家人の日記「御上亰之時毎日記」(ごじょうけいのときまいにちき)も残存し
ており、これは本叢書 Ⅲに収録の予定である。あわせ、歴史事象を立体的・多方面的に研
究する好個の史料となる。

 近世の日朝交流と言えば、朝鮮通信使( 1607(慶長12)年の第1回から1811(文化8)年の
12回にわたる)、主として徳川将軍の襲封を祝賀する朝鮮からの使節が思い浮かぶ。そして
それは、日本と朝鮮の極めて平和な、「信(よしみ)を通わす」使節であったとされている。
しかし、実際はどうだったのだろう。
 朝鮮側の記録の書き手は、当代随一の名門氏族で中央政界の官僚である鄭弘溟である。
あえて「飲冰行記」(いんぴょうこうき)と名付けねばならなかったほど、胃のきりきり痛
む状況で役目の重さを認識して書かれたとされる。
 この「飲冰」という聞きなれない言葉は 『荘子』からの一節で、楚王の命を受けて斉に赴
く葉公子高が、朝方に命を受け夕方には氷を飲むほど熱が出て体調が悪化するなか、重大
な任務を受け、敵国に向かわざるを得ない追い詰められた苦しい状況を意味すると言われ
(本書吉田光男氏解説)、鄭弘溟の心をそのまま映したタイトルとされている。
 朝鮮側は、玄方一行が国王使を名乗りながらそれを証明する国書を見せないため、本当の
国王使がどうか、終始対応に苦慮する。
 日本側はどうであったか。日本使節は漢城への上京が許された後、輿の使用や従者数につ
いて朝鮮側との駆け引きを続けながらも、玄方は要求を次々と呑ませることに成功する。
玄方の一世一代の晴れの舞台は、朝鮮国王に拝謁し、文士たちと漢詩を唱和し、その才を称
賛される場面であった。実際はどうだったか。
 玄方の書いた「方長老上京日史」では、玄方は正殿(慶徳宮)の階段を上り殿舎に進み、
そこで朝鮮国王に対して四拝礼(粛拝のこと。大きくかがみこむように四拝する)を行っ
たとあるが、これは玄方のかくありたいという想像だったという。副使の家人の記録
「御上亰之時毎日記」では、正殿の扉は閉じられ、国王が出御していないのが明々白々の中、
玄方は野外の殿庭の土の上で拝礼させられたという。 
 この朝鮮国王に対する粛拝儀礼は、宗氏が朝鮮国を宗主国になぞらえた属国としての朝貢
儀式であり、宗氏が中世から行ってきたことであると言われるが、今回その儀礼さえ土の上
での拝礼という屈辱的な儀式となってしまった。
が、一方、対馬宗氏にとっての事情を勘案すると、宗氏にとっては、使節を朝鮮へ送ると
いう外交は欠かせない事業であった。特に「国書」を持参する「国王使」派遣に伴う朝鮮と
の貿易は、その金額が格段に良いといわれる。そうした背景を考えれば、玄方の恥辱もそれ
を単なる不名誉と考えてよいか否かは、歴史上のものの見方に関わり興味深い。
 幕藩体制下、中国の冊封体制とは距離を保つ日本と、中国の冊封体制下の朝鮮と、まった
く異なった体制の国家どうしが対面を傷つけずに、約270年間外交を続けることが出来た謎が
この史料の中に隠されているかもしれない。


※ 本史料集の米谷均氏及び吉田光男氏の解説並びに編著者の田代和生氏の「近世の日朝関係」
(『日本学士院紀要』第72巻特別号)を参考にさせて頂きました。