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ゆまにだより

『近世日朝交流史料叢書 Ⅱ』刊行に際して      編集部 E.Y  投稿日:2021/11/25 NEW!

 本書は『近世日朝交流史料叢書』の第Ⅱ巻として、文禄・慶長の役後の寛永6(1629)年、
初めて日本使節が、対馬と朝鮮の都城である漢城(現ソウル)を往復した時の貴重な記録で
ある。
 本書に収録するのは、日本側使節の正使である規伯玄方(方長老)の日記と、彼らを接待
した朝鮮側官人の記録であるが、さらに言えば、日本側の記録の方は、のちに編纂されたこ
の正使の記録「方長老上京日史」のみでなく、ほぼリアルタイムで綴られた、副使である杉
村采女智広の家人の日記「御上亰之時毎日記」(ごじょうけいのときまいにちき)も残存し
ており、これは本叢書 Ⅲに収録の予定である。あわせ、歴史事象を立体的・多方面的に研
究する好個の史料となる。

 近世の日朝交流と言えば、朝鮮通信使( 1607(慶長12)年の第1回から1811(文化8)年の
12回にわたる)、主として徳川将軍の襲封を祝賀する朝鮮からの使節が思い浮かぶ。そして
それは、日本と朝鮮の極めて平和な、「信(よしみ)を通わす」使節であったとされている。
しかし、実際はどうだったのだろう。
 朝鮮側の記録の書き手は、当代随一の名門氏族で中央政界の官僚である鄭弘溟である。
あえて「飲冰行記」(いんぴょうこうき)と名付けねばならなかったほど、胃のきりきり痛
む状況で役目の重さを認識して書かれたとされる。
 この「飲冰」という聞きなれない言葉は 『荘子』からの一節で、楚王の命を受けて斉に赴
く葉公子高が、朝方に命を受け夕方には氷を飲むほど熱が出て体調が悪化するなか、重大
な任務を受け、敵国に向かわざるを得ない追い詰められた苦しい状況を意味すると言われ
(本書吉田光男氏解説)、鄭弘溟の心をそのまま映したタイトルとされている。
 朝鮮側は、玄方一行が国王使を名乗りながらそれを証明する国書を見せないため、本当の
国王使がどうか、終始対応に苦慮する。
 日本側はどうであったか。日本使節は漢城への上京が許された後、輿の使用や従者数につ
いて朝鮮側との駆け引きを続けながらも、玄方は要求を次々と呑ませることに成功する。
玄方の一世一代の晴れの舞台は、朝鮮国王に拝謁し、文士たちと漢詩を唱和し、その才を称
賛される場面であった。実際はどうだったか。
 玄方の書いた「方長老上京日史」では、玄方は正殿(慶徳宮)の階段を上り殿舎に進み、
そこで朝鮮国王に対して四拝礼(粛拝のこと。大きくかがみこむように四拝する)を行っ
たとあるが、これは玄方のかくありたいという想像だったという。副使の家人の記録
「御上亰之時毎日記」では、正殿の扉は閉じられ、国王が出御していないのが明々白々の中、
玄方は野外の殿庭の土の上で拝礼させられたという。 
 この朝鮮国王に対する粛拝儀礼は、宗氏が朝鮮国を宗主国になぞらえた属国としての朝貢
儀式であり、宗氏が中世から行ってきたことであると言われるが、今回その儀礼さえ土の上
での拝礼という屈辱的な儀式となってしまった。
が、一方、対馬宗氏にとっての事情を勘案すると、宗氏にとっては、使節を朝鮮へ送ると
いう外交は欠かせない事業であった。特に「国書」を持参する「国王使」派遣に伴う朝鮮と
の貿易は、その金額が格段に良いといわれる。そうした背景を考えれば、玄方の恥辱もそれ
を単なる不名誉と考えてよいか否かは、歴史上のものの見方に関わり興味深い。
 幕藩体制下、中国の冊封体制とは距離を保つ日本と、中国の冊封体制下の朝鮮と、まった
く異なった体制の国家どうしが対面を傷つけずに、約270年間外交を続けることが出来た謎が
この史料の中に隠されているかもしれない。


※ 本史料集の米谷均氏及び吉田光男氏の解説並びに編著者の田代和生氏の「近世の日朝関係」
(『日本学士院紀要』第72巻特別号)を参考にさせて頂きました。

 「戦前・戦中・戦後のジェンダーとセクシュアリティ」刊行にあたって      編集部 K・T 投稿日:2021/10/26

 去年の冬、2月は某企画でほぼほぼ「カンヅメ状態」になっていた。作業の合間に
豪華客船のことをネットニュースで見ていた。3月の前半にはジュディ・ガーラン
ドの伝記映画を楽しみにしていたのだが、その頃にはコロナ禍に突入してしまっ
たので、結局映画は見ずじまいである。

この10月より、『戦前・戦中・戦後のジェンダーとセクシュアリティ』(岩見照
代・監修)が刊行される。第1回は「変容する〈性〉」で、戦前~戦後を通して
の性教育、性言説を扱った本を集成した。
このシリーズは「現代的な観点から、ジェンダーとセクシュアリティについての
戦前・戦中・戦後の著作をテーマ別に集成」し、「変容を続けるジェンダーとセ
クシュアリティの様相をとらえることを」企図している。
復刻企画ではあるけれども「「LGBTQ+」といったセクシュアリティの多様性の
中で、性自認の再構築が求められている」(監修のことば)、という現代への問
いかけなのである。

なぜ、マクラに映画の話をしたのかというと、LGBTの象徴にレインボーフラッグ
が用いられるのは、ジュディの「虹の彼方に」(” Over the Rainbow")が由来
だからだ。生前の彼女はセクシャル・マイノリティに理解を示していたので、同
性愛のコミュニティに人気があったため、だという。だがジュディ本人も、父親
は同性愛者であり、支配的な母親の元、子役の頃から人気を得るために、ショウ
ビズのダークサイドに向き合わされ続けた。娘ライザ・ミネリの「母はハリウッ
ドに殺された」の発言の通りなのだ。『ジュディ・ガーランド・ショウ』の彼女
は40代半ばのはずだが、60代半ばにしか見えないほどやつれている。

企画の制作にあたっては、まず、シリーズ『近代日本のセクシュアリティ』
(2006~2009)を見返すことから始めた。既に10年以上が経過しているので、
「一昔前」のことである。旧企画の観点がやや古くなっていることに(復刻版で
あるのに)、やや驚かされた。この10年で世界でも日本でも、LGBTを取り巻く状
況は劇的に変化したということなのだろう。確かに話題としても日々耳目を集め
ており、そういう点ではもはや「マイノリティ」とは言えないかもしれない。

新企画『戦前・戦中・戦後のジェンダーとセクシュアリティ』が、刻々と変容を
続けるセクシュアリティの様相をとらえ、現代の性の急激な変貌を考えていくた
めの一助となることを願ってやまない。

藤井厚二 旅と住まいと――藤井厚二建築著作集によせて      編集部 K・Y  投稿日:2021/08/18 NEW!

我が家の近くにあった古いアパートがこの夏、解体された。何十年か振りに更地となったその場所は、おそらくもとは畑であったのだろう、ここ数日に降りつづいた大粒の雨をたっぷりと受けて昔の記憶を取り戻したのか、あっというまにさまざまな植物が芽吹き、そのうち葉をのびのびと広げたかと思うと、今ではほっこりと掘り起こされた土も見えなくなった。一面の緑がゆらり、ゆらり、涼しげに揺れている。停滞しきっている人の世のことなんぞどこ吹く風といった風情に、静かに、圧倒される。

建築は、「作品」と言われる一方で、気づかぬうちに解体され、やがては人の記憶からも消えてなくなるものも多い。はたして人と建築は縁が濃いのか薄いのか。
そのことを思えば、「聴竹居」は幸せものである。自身の実験住宅として「聴竹居」を手がけた藤井厚二は、大正10(1921)年に最初の著作となる『住宅に就いて』を私家版として、世に送り出した。「私は永い以前から吾々の住宅をもっともっと愉快な便利な而して楽しいものにしたいと思ってをりました。」という一文ではじまるこのささやかな冊子は、その瀟洒な住まいとともに多くの共鳴者や協力者を得て、その手で守られ、今に伝えられている。

「藤井厚二建築著作集」は昨年11月に配本をスタートし、今月末にはその第2回配本の運びとなる。第1回・第2回のいずれもコロナ禍での製作進行となった。じつは先の『住宅に就いて』に先立つ大正8(1919)年11月から翌9(1920)年8月にかけて、藤井厚二はヨーロッパ・アメリカへ視察旅行に出かけているのだが、それは今からほぼ100年前のスペイン風邪流行のころに重なっている。その旅で藤井がほぼ毎日付けていた日記を、第2回配本では『藤井厚二欧米視察日記』として収録し、さらにはかの地で藤井自身が撮影した写真や、家族に宛てて書いた絵葉書などを「藤井厚二欧米視察関係資料」として刊行する(「藤井厚二建築著作集・補巻全2巻」 藤井厚二建築著作集・第3回配本として2021年10月刊行予定)。
偶然とはいえ、おそらくこの時だからこそ汲み取れるものもあるのではないだろうか。これも歴史の面白さである。

マッチ一本火事の元、マッチ一折……?      編集 T・T・M 投稿日:2021/07/16

 『近代機密費史料集成』というタイトルには、読者をして想像(あるいは妄想)を逞しくさせるものがありそうです。政界の裏面で秘密裡に動く大金、張り巡らされた策略と仕掛けられた陥穽、それらを陰から操る真の実力者……。
こうしたイメージで頭が一杯になっていると、今月刊行の『内閣機密費編』に収録された某通信社の領収証を目にして、巷間まことしやかに囁かれる「○○」陰謀論の証拠をつかんだと早合点しかねないかもしれません(?) 実際には、これは多数の通信社に毎月支払われている「通信料」の領収証のひとつに過ぎず、単なるニュース配信などの料金の支払を示すものであろう、という以上の意味は見出しがたいのですが。
 他方で、本書には新聞社や通信社の関係者への支出が内閣機密費から行われていた実態が金額と個人名付きで記録されています。これらは確かにメディア工作の一環だったのでしょう。また、衆院総選挙前に行われた原敬内相への5万円の交付(しかも、そのうち3万円は外務省機密費からの違法な流用)は選挙資金として使用されたと推測され、これも赤裸々な政治工作の痕跡といえるかもしれません。
 ――などと知った風に書いてきてしまいましたが、以上は本書の監修・編集・解説者である小山俊樹先生の解題を参照しながら自分なりにまとめてみたものに過ぎません。というのも、全くの門外漢である私(近代でなく古代、日本でなくローマ、歴史でなく文学を専門としています)には、何を隠そう、問題の原敬による領収証の崩し字も読めないのですから。
 一次史料は、それを扱う訓練を何ら受けていない私にとって、木を見て森を見ぬこと、あるいは逆に虚妄の森を幻視してしまうことへの恐れと不可分のものです。実際、明らかなプロパガンダである一次史料から歴史の「隠された真実」が発見されてしまうような現場を、インターネットは日々リアルタイムで見せつけてくれます。そこまでではなくとも、一次史料のナマの迫力には、ときに読む者の遠近感を狂わせるものがあるのではないでしょうか。
 本書の中では、首相官邸の日常経費を記録した「諸買上品仕払控簿」(第3巻収録)がまさにそのようなものだと感じます。冒頭、明治44年9月の支出の内訳からは、「マッチ一折」を3銭で購入したことや、「電話口消毒」で「東商會」に30銭を支払ったことが分かります。これらはそれ自体で確かに貴重な記録かもしれませんが、しかし前述した内相への5万円のような事実を捨て置いて、こうしたトリヴィアルな部分のみに耽溺するサブカル的?オタク的?態度は、偽史的あるいは歴史修正主義的態度と紙一重だとすら感じるのもまた事実です。
 ――などと(また)知った風なことを書いてしまいましたが、私もどちらかというと細部に拘るオタク気質の持ち主であることは否定し得ないわけで……内閣発足当初に電話口消毒を行っているのを見て、最初は「桂太郎の口をそんなにばっちいと思っていたのか?」などと考えてしまいました。しかし翌月以降をよく見てみると、電話口消毒料とは明記されていないものの、同じ「東商會」(月によっては「東商社」と書かれている)に30銭ずつが支払われ続けていることが分かります。どうやら、主の交代に際して特別に消毒が行われたわけではないようです。よかった。(なお、1929年から31年にかけての『官報』に「東商會」が「電話口消毒器及消毒薬」の広告を出していることが、国立国会図書館デジタルコレクションで確認できました。これは同一の会社なのでしょうか?)
 こうやって調べていくうちに、この電話口消毒30銭という細部から、もっと大きな問いに向かうことも可能ではないかと思えてきました。新しい機器にまつわる衛生の感覚、そしてそれに対応した産業の発達。では、マッチ一折3銭はどうでしょうか。マッチが(今日と異なり)生活必需品であったことは分かりますが、うーん、それ以上はさすがに厳しい? いずれにせよ、マッチ一本火事の元、ましてマッチ一折あれば、薄暗がりの中にある歴史の襞を丹念に照らしていくことも、偽史の炎に巻かれて火だるまになることもできそうだと感じた次第です。

『唐長安 大明宮』の校了にさいして思うこと        編集 K・Y 投稿日:2021/05/14

 本書の著者である楊鴻勛先生(1931-2016)は、世界的に著名な中国建築史・
建築考古学の大家として知られる方で、建築史学・建築理論を基礎としたその主要な成果は、
中国の造園理論を追求した中国園林史(庭園史)と、歴代王朝の宮殿建築を対象とする
建築考古学に代表されます。著者の経歴については向井佑介先生による「監訳後記」に
詳しいのでそちらをご覧いただきたいのですが、生前に出版された著作としては本書が
最後になりました。
 担当が決まった当初は400ページ近くもある中国建築考古学の本だということしか分からず、
取り付く島がない…ように思われました。ですが、時間をかけて翻訳原稿に向き合い、
今ようやく校了を迎えて思うことは、とにかく単著とは思えないスケールを持つ研究書で
あるとの一言に尽きます。

 素人ながら印象に残ったのは、裏付けとして提示される同時代の資料の豊富さです。
それには二つの意味があり、一つは歴史書(文字や画像)や碑文などに加え、
絵画や敦煌莫高窟などの石窟壁画、唐三彩馬俑を始めとするいわゆる美術品、漢詩など、
様々な分野の作品や文化財が挙げられていること。そしてもう一つは、それらは全て
その当時の人々の手で丁寧に記録され、描かれたものであり、後世の人の手で今日まで
守り伝えられてきたという歴史の厚みのようなものです。
 翻訳原稿を通して感じた限りですが、書き遺された一つひとつの資料と真摯に
向き合う著者の姿が想像されて、そのまなざしには、「科学研究は常に段階的なものである」
(上巻「序」)との言のとおり、自身も歴史的存在であるという謙虚さに溢れています。

 専門の研究者の方にはもちろんですが、精緻で堅実な歴史考証に裏付けられた美しい
建築復元図はぜひ多くの方に御覧いただきたいと思います。 
 

消えた巨人                  営業部 S 投稿日:2021/04/30

ギガントピテクスは、史上最大のヒト上科動物であり、かつ、史上最大の霊長類。。
  
私は本の目次の「消えた巨人」といタイトルに惹かれて思わずページを開いてしまいました。
『化石 古生物の世界』4月27日刊行予定
http://www.yumani.co.jp/np/isbn/9784843360125 

成人のギガントピテクスは身長約3メートル、体重300キロ。
今から約200万年前に生息していて、そして同時代に人類も生活していた。。。
  
もうそれだけで、私はあの巨人が出てくるコミックを連想してしまいました。
大きいですよね!
3メートルは公式バスケットゴールの高さと言われています。
もっと身近なもので例えると、3メールの身長の人がJRの電車の乗ったとしたら、
一般男性が屋根に座って傘を差してるくらいの高さ、という感じでしょうか。
想像してみてください。。恐ろしいですよね。
  
ですがギガントピテクスは見た目は巨人でも、草食だったといわれています。
発見されている化石は、巨大な下アゴの骨と歯だけですが、第四紀に地球全体が寒冷化して
森林が少なくなったため、食料不足におちいってしまいました。
そこで寒さに強く成長の早い笹を食べるようになったそうですが、
充分な栄養がとれずに絶滅したと考えられているそうです。
  
四足歩行(現生の大型類人猿と同様、ナックルウォーキングによる四足歩行)をし、
竹や果実などを食べる植物食動物であったと見られており、生態はオランウータンに近かったと言われています。
  
巨人=凶暴、という個人の勝手なイメージがありましたが、想像していたよりも、慎ましい暮らしをしていたようです。
消えてしまった巨人たちの生息に関しては、まだ知られていないことが多いですが、
これから研究がもっと進み、解明されていくのを楽しみです。

戦後博覧会における「平和」と「政治」             編集部 M   投稿日:2021/03/22

 この度、弊社では昨年より刊行してきた『戦後博覧会資料集成』の刊行を第3回を以て、完結する。本シリーズも監修者、原本の所蔵機関など、多方面からのご協力をいただくことで実現できた。まずは、感謝を申し上げる次第である。
本シリーズでは、昭和20~30年代前半に日本各地で開催された博覧会の資料を収録したが、 これらを通覧してみて、気づいたことがあった。

戦後間もない頃の博覧会では、軍国主義への反省に立った「平和」、そして疲弊した経済の
建て直しのために「復興」を掲げるものが多かった(例えば、昭和23年に三重県で開催された
「平和博覧会」〔第1巻所収〕)。「復興」そして「産業」は、その後も地方での博覧会に
おけるメインテーマとなり続けた一方で、「平和」は昭和25年の「宗教平和博覧会」(第3巻所収)を最後に、鳴りを潜めていった。
 代わって大きくなったのは「軍事」「政治」というテーマである。例えば、昭和33年に
門司で行われた「門司トンネル博」(第11巻所収)では自衛隊の提供した戦闘機や大砲が展示され、人目を引いたという。その展示品の一つであるレーダーは「韓国上空の飛行機までキャッチ」できるものであった。門司が地理的に朝鮮半島に近く、しかも朝鮮戦争の停戦から5年しか
経っていないという状況では、自衛隊による展示も受け容れられやすかったのであろう。
 
さらに重要なのは、アメリカの圧倒的な影響力である。多くの博覧会では「アメリカ館」「外国館」が建てられ、「自由の女神」とともにアメリカの生活様式が展示された。当時の窮乏した経済状況において、豊かな戦勝国としてアメリカを仰ぎ見たのは当然であろう。こうしたイメージを最大限に増幅したのは、朝日新聞社が昭和25年に兵庫県で開催した「アメリカ博覧会」(第15巻所収)である。この博覧会では広大な敷地に再現したアメリカ各地の名所とともに、アメリカの民主主義・経済力の優越性が誇示された。開会式には占領軍将校が出席し、また、会期中には昭和天皇の巡幸先の一つとなるなど、まさに勝者と敗者が截然と区分された政治的な博覧会であった。
 
戦後博覧会とアメリカとの関係の中で現在にもつながる問題は、原子力の扱いである。当時、アメリカは自由主義諸国に原子力産業を輸出することを国策としており、博覧会は恰好の宣伝の場であった。とはいえ、二度の原爆被害を受けた日本では拒絶する意見も強かったために、必ず「平和利用」の枕詞がつけられた。その最も顕著な例は、昭和30~31年にかけて全国11都市を巡回した「原子力平和利用博覧会」(第15巻所収)である。この博覧会では核分裂の原理や原子炉の模型等が展示されたが、当時原子力の持っていた明るいイメージと相まって、東京での会場となった日比谷公園では連日長蛇の列が出来たという。また、昭和33年に開催された「広島復興博覧会」(第14巻所収)では、「原子力科学館」が設置された。この建物では、原爆投下後の惨状とともに、原子力利用のメリットや日本での原子力研究の状況が紹介され、広島復興博で最大の目玉となったという。こうした事実から、政治・軍事のショーウィンドーとなった博覧会を見出すことができよう。
 
しかし、博覧会を自国の宣伝として利用したのはアメリカだけではなく、前出の広島復興博ではソ連が人工衛星を、「北海道大博覧会」(昭和33年・第15巻所収)では当時、国交のなかった中国が物産品を展示しており、博覧会は東西対立の前線ともなっている。

 「平和」から「軍事」「政治」へ、そして「経済」の一部として原子力の宣伝へ。これはごく一例であるが、博覧会の歴史は様々な読み解き方が可能である。戦後史を凝縮した資料として、本シリーズが多くの方に利用されることを期待する。

「麒麟がくる」を見ていたら                  出版部 K  投稿日:2020/12/15

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」を見ていたら、正親町天皇が
医師の望月東庵と碁を打ちながら、弟の天台座主覚恕との確執を語る場面があった。
堺正章演ずる東庵は舞台回しのための架空の人物であろう。
玉三郎演ずる天皇と小朝演ずる覚恕はドラマと違って
実は仲の良い兄弟だったようだ。なお、覚恕が兄であるとの説もある。
しかし、そのことより私は天皇が碁を打つこと、
勝負事をすることがちょっと意外だった。片膝立てて、
「その石、まった!」などと言うことがあったかもしれない。
 小社は『天皇皇族実録』という復刻版の本を2005年から2010年にかけて出版しているが、
今その電子版を作るべく一揃いが出版部の書棚に置かれている。
思い立って、その中から通巻第99巻『正親町天皇実録 第一巻』を
抜き出し開いてみると、あちらこちらに「御囲棊アリ」という記述がある。
正親町天皇は囲碁が好きだったようだ。ドラマの作り手も、それを確認しているのだろう。
 しかし、囲碁ばかりでない。同書の中には、和歌の催しはもちろん、
源氏物語や伊勢物語などの古典の勉強を行い、また、芸能の催しを楽しみ、
箏を自ら奏することも記されている。さらに闘鶏を折々楽しんでいる。
世は戦国時代、庇や屏が壊れたりしている禁裏の中で、
文化や学問を守ってゆこうという意思が天皇にはあったのだろう。
学術や文化に敬意を払わない政治家やジャーナリストが
大きな顔をしている現代を正親町天皇はどう見るだろうか。
 なお、この『正親町天皇実録』を見ていると、我々が知っている
戦国大名の名前が少なからず出てくる。毛利元就などから献上物が届いたり、
永禄5年7月9日には「三好義興、松永久秀、参内、剣等ヲ献ズ」とある。
さらに永禄12年3月2日に、二人の使者を織田信長のもとに遣わして
「副将軍ノ事ヲ仰セ下サル、但、奉答セズ」という記述がある。
これは、良く知られたことらしいが、天皇は信長を副将軍にしたかったということか。
とにかく朝廷は政局や軍事にも関わっていたことがわかってくる。

 テレビの一場面が発端で思わず戦国時代の朝廷の様子を見ることとなった。
史料、史書を読むのは楽しいことだとあらためて思った。
また、デジタル化は別の読み方、使い方も見せてくれそうだ。
 私のように専門の勉強をしていない者は、翻刻されたものがありがたい。
小社刊行の『江戸幕府日記 姫路酒井家本』を翻刻するプランも動いている。
 今月刊行の『くどきぶしの世界』(倉田喜弘編著)は、
江戸後期から明治にの庶民の世界を知る格好の史料である。
大事件、災害、大火、騒動、恋愛譚、盗賊、敵討などを題材とした
七七調の語り物が印刷物として世に流布されたもので、
「くどき」とか「やんれ」と呼ばれる。佐倉宗吾や国定忠治、
高橋お伝などのヒーロー、ヒロインが活躍するばかりでなく、
黒船来航や疫病、地震などを庶民に伝えたメディアであった。
原本は版本だが、本書は編著者によって翻刻され、私たちにも読めるようなっている。
ぜひ、開いてみていただきたい。
 
 私は主として史料出版に携わってきたが、実は、歴史の勉強は「日本史B」までである。
先生方の御指導を頂きながら、なかみも知らずに本にしたり、マイクロフィルムを作ってきた。
今、引退する年齢になって、ようやく「史料を読む楽しさ」がちょっとわかってきたのだ。
そろそろゆっくりする時間ができるので、史料、史書を開いてみようと思っている。

『住むこと。生きること。――藤井厚二建築著作集の刊行に向けて』    出版部 K.Y 投稿日:2020/12/02

11月1日付でクリスマスとお正月が同居を始めたコンビニの棚、
忘年会と新年会の受付開始を告げる店先の貼紙に、
なにかをいきなり突き付けられたような違和感を覚える。
例年ならば、あぁもうそんな時期になったかと、
ありふれた光景でも風物詩の一つのように受け止めていた。
師走を先取りする気ぜわしさも少しばかり湧いて、そんな心持ちがどこか楽しくもあった。
でも今は違う。季節のうつろいとはそんなものではないと猛烈に反発している。
そんなに急かせて、いったい何をしたいのだ? 
そういえば、この2020年を自分はどうやって過ごしてきたのだろうか。
とりあえず手帖を頭からパラパラめくってみる。

仕事のことで言えば、今年は建築と住まいをテーマとした企画が続いた。
3月に全4巻が完結した学校図書館向け児童書『ビジュアル日本の住まいの歴史』
(監修・小泉和子先生)は、ごくふつうの人間が暮らすことで
積み重ねられるものごとへの関心から企画したものだった。
東京が緊急事態宣言下にあった5月から6月にかけては出社と在宅勤務とで、
「写真集成近代日本の建築」シリーズ第5期『清水組彩色設計図集』
(監修・松波秀子先生)の精緻で美しい手描き図面に
惚れ惚れしながら編集作業にあたっていた。
梅雨が明けてからは連日の酷暑となり、そのさなか、
同シリーズ第6期『藤井厚二建築著作集』の準備に少しずつとりかかった。

『藤井厚二建築著作集』(監修・藤井厚二研究会)は建築史研究のための基礎資料集として、
建築家・藤井厚二(1888-1938)が執筆・編集にたずさわり、
書籍の体裁をとって公刊した資料を柱としている。この11月に刊行する第1回配本には、
今も京都大山崎の地に建ち、2017年7月に昭和期の住宅として
初めて国の重要文化財に指定された自邸「聴竹居」(ちょうちくきょ 1928年竣工)や、
49歳で亡くなる前年に竣工し遺作となった邸宅「扇葉荘」(せんようそう 1937年竣工)
などの作品集のほか、聴竹居のインテリアのアイデアを豊富に描きとめた2冊のスケッチブック、
「其の国の建築を代表するものは住宅建築である」として、
藤井厚二がその生涯にわたり探究しつづけた日本の住宅の理想的なありようをめぐる
考察の軌跡『日本の住宅』の、自筆原稿を収めている。
影印復刻版では十分には伝えられないのが残念だが、とくに聴竹居作品集のためには
オリジナルの和紙が漉かれており、それ以外の著作でも様々な種類の和紙がふんだんに
使われている。そのような本を一冊一冊見ていると、
おそらく書くことも作品の一部と強く意識していただろう彼のような建築家が、
あの当時ほかにもいたのだろうかと思わずにはいられない。

私自身も聴竹居には二度ほど足を運んだ。それから数年が経つけれども、
建物の細部に宿る美しさが瀟洒な空間全体へとつながってゆく様や、
あの室内空間に身を置く心地よさを今でもはっきりと体が覚えている。
藤井厚二が遺した本の手ざわりを通して、手仕事としての住まい、
書くという手仕事について、「新しい生活様式」「ニュー・ノーマル」を目に、
耳にしない日はない今この時こそ、ゆっくりと考えてみたいと思う。

『ツーリスト』と『旅』、2つの旅行雑誌 (出版部T) 投稿日:2020/10/12

今回は、昭和戦前期のふたつの旅行雑誌についてお話ししたいと思います。
小社では、ジャパン・ツーリスト・ビューローの機関雑誌『ツーリスト』(大正2年創刊)の
復刻に続いて、大正13(1924)年に創刊され、戦前期においては
昭和18(1943)年8月まで、およそ19年間にわたって月刊雑誌として
発行された『旅』の刊行を開始いたします。
『ツーリスト』は、ジャパン・ツーリスト・ビューローの機関誌で、
外客誘致の目的もあり、和文と英文で構成され、海外にも広く頒布されました。
対して、『旅』は旅行団体の同人誌を母体とし、戦前期においては旅行の
クラブ組織から発行され続けた旅行雑誌で、国内の観光誘致のための充実した
記事が組まれています。『ツーリスト』と『旅』は、戦前期を代表する2大旅行雑誌なのです。
執筆陣も豊富で、創刊号には田山花袋が巻頭にあたる原稿を書いています。

ざっと執筆陣をながめても、井伏鱒二、村松梢風、馬場弧蝶、木村荘八、丹羽文雄、
岡本綺堂、高浜虚子、武者小路実篤、三田村鳶魚……
そうそうたる文化人が「旅」についての文章をよせています。

さて昨今では、コロナ禍のなか、Go toキャンペーンはあるものの、なかなか以
前のように軽い足取りで旅行には出かけにくいのはないでしょうか。
ちょっとした決心が必要なのではないかと思います。決心を後押しするための
キャンペーンということなのでしょう。

英語では、「旅」は「travel」ですが(他にもtrip,tour,jorneyとかありますが)、
語幹を見てみると「tra」は「tri」に通じていて、つまり「3(trio)」を意味します。
ズバリ、「travel」の語源は、なんと「Tripalium」という3本(tri)の棒(palium)で
造られる拷問器具(!)なのだそうです。中世英語では「travail」、
苦労や困難を意味するとのこと(フランス語では「トラヴァイユ」なので「仕事」の意味で、
つまり語源から考えると「重労働」……)。
つまり「旅に苦労はつきものだ」ということになります。
近世以前は旅は気軽なものではなかったことがうかがえます。
日本語の「旅」も、「他日」「外日」「他火」などが語源として考えられるそうです。
「住んでいる土地を離れる」=「旅」で、やはり決して気軽なことではなかったのです。
現状を考えるとなかなか皮肉な感じがしますね。

さて、『旅』にあわせて、昭和期の『ツーリスト』も刊行中です。昭和に入り、
どんどんと発達していく交通網にあわせて、
旅行は一部の人が行ける高価なものではなくなり、庶民の娯楽として発展していきます。
誌面はガイドブックの役割を果たし、
読者の旅の予習や追体験として愉しまれたのです。

早く、旅が以前のように気安いものに戻ってくれることを祈ってやまぬ次第です。