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ゆまにだより

ナイストライ ―新春を迎えて―    代表取締役 荒井秀夫 投稿日:2009/01/07

今年もまた新春を迎えた。34回目の新たな気持ちだ。月並みだが短いようで長くもあり、長いようであっという間の月日であった。

この34年間の出版点数は5千点を有に数える。しかし、34年間出版に携わっていても未だに結論が出ない。毎日出版文化賞や梓賞を受賞できるような出版文化に優れた書籍を刊行すべきなのか、ベストセラーを狙ってより多くの人々に受け入れられる書籍を刊行するべきなのか。両者を兼ね備えた書籍が一番良いのだろうが、得てして両者は相反する要素を持っている。ましてや、出版精神は前者を目的としているが、営利企業という側面がどうしてもブレーキをかけてしまう。永遠の葛藤なのかもしれない。

この34年間唯一守っているものがある。「ナイストライ」の精神である。

アメリカのベースボールでは難しいヒット性のボールを捕球するため果敢に挑戦して失敗した時、「ナイストライ」と全員で褒め称え、成功したときは「グッド・ジョブ」よくやったと賞賛する。しかし、日本の野球では捕球に失敗したとき「ドンマイ・ドンマイ」気にするなと慰める。

仕事も同じである。わが社では新しいことや難しい仕事に果敢に挑戦して失敗した時、他のものはその失敗をけっして責めることはない。その姿勢は賞賛に値し、勿論成功すれば全員で喜びを分かち合う。常に新しいことに挑戦する精神を何よりも重んじている。失敗もしなければ挑戦もせず、与えられた仕事のみをする者は「ドンマイ・ドンマイ」にも値しない。

今年は、昨年のアメリカのサブプライムローンに端を発した世界的金融恐慌の津波が実体経済として日本経済に大きな影響を及ぼすであろう事は容易に推察できる。かつて出版界は比較的不況に強い業種といわれていたが、今年は十数年前より言われてきた活字離れと重なって大変厳しい年になるであろう。

こんな年こそ「ナイストライ」のわが社の伝統を大いに発揮してこの荒波を乗り切っていこうと、社員一同固い決意で新しい年2009年の新年を迎えた。

『読み方で苦労しています』  (編集部E・Y)  投稿日:2008/12/10

 書名・人名・地名などの読み方で、苦労したことのない編集者はいないだろう。弊社のように戦前の出版物の復刻版を作ったり、近世史料の影印版を出版するところではなおさらである。社内では昨今、奥付の書名や人名にルビを振るよう奨励されている。図書館の司書の方々や書店・取次会社の皆様を困らせないためである。しかし実は、ちょっとやっかいな問題がある。
 12月初め刊行の『学習院大学図書館所蔵丹鶴城旧蔵幕府史料』では、それぞれの巻に収録した史料の名称を副題としている。「一紙目録・当日奉書」「参勤〈御礼前・早参府〉部」「出奔・久離・追放」「雑・人別証文」「江戸御絵図新規出来御用諸達届留」「礼献式」「官省便覧」「前髪・半髪・名改・袖留・惣髪」「親類書認振」「出生・丈夫・実名所判・出家・修験」「自火在府類焼有無之部」「城詰米・国役金・圍米・高役金」。ざっとあげればこんな具合。すらすらお読みいただけただろうか。しかし、これら副題にはあえてルビを振らなかった。
 そもそも史料名に振り仮名など初めから付いていたはずもなく、正しい読み方を確定できないからだ。研究者を含めてみんないわゆる「常識」で読んでいるわけだが、この「常識」がなかなかにくせものなのだ。   
 たとえば、戦国大名で有名な浅井氏を、私の高校の頃は「あさい」と読んでいた。現在でも多くの浅井さんは「あさいさん」と声をかけられるのではないだろうか。15年以上前になるが、日本史辞典の編集をしていた頃、浅井氏の読み方は「あさい」ではなく、中世史では「あざい」が一般的になりつつあると知った時は、驚天動地であった。
 しかし、この話、これで終わらない。そんなわけで「あざい」を採用する辞典も出てきた昨今、『浅井氏三代』(2008年、吉川弘文館)の著者宮島敬一氏が、「「あさい」か「あざい」かをめぐって」(『本郷』第74号、吉川弘文館)という小論を発表された。氏はその中で、平安中期成立の『和名類聚抄』真福寺本と、室町末期成立の『節用集』の古本(慶長以前)をひもとき、何と旧来の「あさい」説を展開。浅井は「本来「あさい」であり、江戸時代に「あざい」と濁った」と結論された。振り出しに戻ってしまった。
 もう一つ。
 今では、静岡県の十国峠を「じっこくとうげ」、五十銭を「ごじっせん」、十把一絡げを「じっぱひとからげ」と言う人は、あまりいないのではないだろうか。「じゅっこくとうげ」、「ごじゅっせん」、「じゅっぱひとからげ」と読んでしまう。しかし、たとえば『広辞苑』など国語辞典では、今でも「じっ」表記である(『広辞苑』第五版まで確認)。「十」は日本に漢字が入ってきたころは「じふ」(歴史的仮名遣い)と振られたそうだが、「じふ」から「じう」そして「じゅう」に変化したという説明がある。本の索引を作るときなどは、このようなしゃべり言葉と乖離している言葉は要注意である。
 というわけで、「十」には常々、心して向き合ってきた次第であるが、また一方、パソコンでは、「じゅっこくとうげ」でも「じっこくとうげ」でも「十国峠」と変換されてしまうし、どちらでもネット検索できてしまうという問題もある。これらが、言葉の変化をさらに速めるのではないかと心配するのも、あながち見当はずれではないだろう。
 さて、今度の『丹鶴城旧蔵幕府史料』の副題の読みについては、間もなく図書館や書店の方々からお電話を頂戴することになるかもしれない。図書情報の整理上、読み方は必須だからである。アナログ時代には何の支障もなかったことが、デジタルになって、こんなところでも問題を起こしている。
 本の副題に関するお問い合わせについては、複数の読みがあって本当なら確定しがたいが、やむなく便宜的にこのように読んでいます、とお伝えしよう。まあこんな背景もあるのかと知っていただければ幸いである。

『満洲グラフ』  (編集部K・T) 投稿日:2008/11/07

 最近「満洲」に関わる資料を手がけた。伝説のグラフ誌『満洲グラフ』(1933-1944)だ。発行は南満洲鉄道株式会社(満鉄)。「満州国」を広く紹介することを目的とした、グラフ誌である。左から右への文字組、紙面を埋め尽くすばかりの芸術的な写真、大胆なタイポグラフィ、英語併記、華麗に展開されるフォトモンタージュなど、時代の最先端を行く斬新な編集がなされている。

 雑誌の性格を決定づけた、これら編集・デザインの中枢を担ったのは、「満洲写真作家協会」(1932結成)の結成メンバーである淵上白陽(1889-1960)である。淵上は1920年代より、日本の近代写真をリードし続けた存在であった。淵上らは編集に当たってソビエト連邦の第一次五ヵ年計画を海外に発信したグラフ誌『C.C.C.P』を大いに参照したそうである。その紙面には確かにロシア・アヴァンギャルドの薫陶を感じ取ることが出来る。
 「満洲国」を広くPRするための誌面は、満洲における生活・風俗・工業・農業・漁業・民族美術・各民族の特集…など極めて多岐の内容で構成されている。まさに満洲写真百科事典とでも言うべき充実した内容である。

 ただ一つ、違和感を覚えることについて触れておきたい。『満洲グラフ』に謳われているのは「民族共和」「王道楽土」である。プロパガンダ誌であるのだから、当然といえば当然だ。しかし、華やかな都市景観ばかりでなく、農民や下層労働者も多く登場する。それらのポートレイトは、多くを語りかけてくるような力に満ちている。それは写真家の「まなざし」が、彼らと同じ高さにあることの表れのように感じられる。何故か?共感と照応がそこになければ、そのような作品は生まれ得ないだろうと思うからだ。その面立ちからは「楽土」ばかりではない、「何か」がにじみ出ているように思う。それら作品をつなぎ合わせ、紙面に展開される流麗なコラージュは、そのつなぎ目の間に、彼らの語りかけるその「何か」を隠してしまう。そんな気がしてならない。おそらくこの違和感は、かなり重要なものだろう。

「鶚軒文庫をめぐって」      (編集部T・T) 投稿日:2008/10/10

 今月の新刊『鶚軒文庫蔵書目録』は、東京帝国大学教授であった医師・土肥慶蔵(慶応2~昭和6〔1866~1931〕)の和漢書蔵書目録です。国立国会図書館所蔵の自筆稿本(昭和4年作成)を底本にしています。土肥慶蔵は、日本における梅毒学(花柳病治療)の第一人者で、吉原病院院長などを歴任した人物。若いときから文学・漢詩文にも親しみ、鶚軒と号しました。土肥の蒐集した蔵書は、医学・文学から、哲学・法学・経済・史伝・地理・芸術に至るまで幅広く、なかには太田南畝旧蔵本なども見られます。土肥の没後、蔵書大部分は三井家が購入(夫人が三井家の血筋だったため)、後に「鶚軒文庫」として三井文庫内の一文庫となりますが、戦後の財閥解体の影響で散逸し、現在は国会図書館・カルフォルニア大学バークレー校などに所蔵されているほか、東京大学総合図書館・東京医科歯科大学附属図書館にも「鶚軒文庫」がコレクションとして収められています。

 今回、東京医科歯科大学が「鶚軒文庫」を受入れた経緯について調査する機会があり、『東京医科歯科大学図書館報』のバックナンバーを確認したところ、終戦直前、前身の東京医学歯学専門学校時代に、土肥家より(三井文庫に移譲されずに土肥家に残されていた分を)直接購入したことがわかりました。購入した本は、その後長く倉庫に埃をかぶって放置されていましたが、昭和53年、当時の図書館長市岡正道(昭和51年8月~昭和54年7月在任、歯学部教授)は、これらがおもに皮膚病学・梅毒学を研究する上での貴重書の宝庫であることを発見、修復と整理に着手しました。のちに、大書架3面余りの雑誌類・皮膚疾患および性病関係の症例写真が新たに見つかります。整理・分類には専門知識を要するため、医学部第3解剖学教室および皮膚科学教室の教員(つまりみんなお医者さんです)が作業に従事し、平成元年2月、すべての「鶚軒文庫」の整理が完了しました。

 前述の市岡教授は、図書館長就任にあたっては図書館の存在価値を高めることを一つの目標にしたと述懐していますが、その思いが結実し、死蔵されていた貴重なコレクションを甦らせたのでした(「崖の下のポニョ」ではないが、「大切なものは、半径3メートル以内にある」のだとつくづく実感)。市岡教授も含めて、整理にあたった多くの医師たちの、本に対する情熱は、まさに土肥慶蔵の衣鉢を継ぐものと言えるでしょう。

「創刊号くらべ―『キネマ週報』と『国際映画新聞』」  (編集部K・Y)  投稿日:2008/09/25

 映画が娯楽の王座にあった時代、活狂(カツキチ。映画好きというより映画狂、活動写真狂)と呼ばれる愛すべき人々が大勢居りました。古きよき昭和の初めに「若き記者の尖鋭なる感覚と推論に依って、斯界に絶えず一抹の涼風を」送らんと、仲間はいるけれど「広告料を集める天才はいないが」『キネマ週報』を創刊した田中純一郎もその一人でした。
 この『キネマ週報』は、戦前の日本映画ジャーナリズム界で『国際映画新聞』(主宰:市川彩)とならんで、密度の高い情報収集で定評のあった週刊誌です。日本の映画ジャーナリズムの草分けである田中純一郎氏、もともとは『国際映画新聞』発行元の国際映画通信社の社員だったのですが…。
 市川彩が『国際映画新聞』を同人4名(石巻良夫・石井迷花・山根幹人・松坂達雄)と創刊したのは昭和2年7月20日のことでした。誌面のうえで「同人」連名中に田中純一郎の名前を見るのは、創刊から半年も経たない12月10日発行の第10号から。翌昭和3年1月5日発行第11号によると地方支局合わせて17名の大所帯となり、雑誌自体もカラーの表紙が付くまでに成長しています。ところが、です。それから2年後の昭和5年の春まだ浅い頃に出た第36号がおそらく、編集後記に(純)と記される最後となってしまいます。その発行は2月10日だったのですが、その翌11日に田中純一郎氏、『キネマ週報』を堂々創刊したのでした。「週報発刊は、私にとって3年振りの計画であったが、最近私の心境にある変動があったので、それを機会に断然この希望を実現することにした。」という田中に対して、『国際映画新聞』翌3月10日発行の第37号で主宰の市川彩曰く、「信ずるものの為めに計らるるのは寧ろ本望」。「この小社を根底から覆そうとしたのもよく判明したが、不幸にしてこの社は小生と同身一体で如何する事も出来ない」。「今更この社が編輯部員の2、3名が退いたとて、本誌の存在には何等の痛痒を感じない」云々、潔く送り出した様子です。
 負けず劣らず強気に刊行継続の『国際映画新聞』ではありましたが、じつは『キネマ週報』「創刊の挨拶」にはハッキリと、「前・国際映画通信(新聞)編輯部」として井上幸次郎、山久緒、十時元雄、後藤保樹、佐々木富美男の5人の名前があり、これに田中純一郎を加えると、6名もの戦力を一度に失っていたのでした。この連袂事件が市川彩と『国際映画新聞』にとって痛手でなかったはずはありません。つづく昭和5年4月10日発行に向けた編集作業では、さすがの市川氏も「余りに馬力を掛け過ぎて原稿と材料が山積」、第38号は新年号並の充実ぶりと分厚さながら値上げは出来ず、ということになってしまいました。
 田中純一郎と市川彩とのあいだに何があったのか。ここではさておき、それぞれの創刊号をめくってみれば、「唯一の映画経済雑誌」『国際映画新聞』創刊号全50ページ、編輯部員は5人。かたや「映画経済の週刊雑誌」『キネマ週報』創刊号全34ページ、編輯部員は7人(総務担当に片桐槌弥、前・九州映画新聞主幹)と、そのはじまりはどちらも、こぢんまりとした所帯だけれど熱意と希望にあふれた活キチたちの船出、目指すところは同じだったのではないでしょうか。

「テタレ」     (編集部M・K)  投稿日:2008/09/01

秋ぐちのエッセイで夏の海外旅行の話とは、つきなみの極致かもしれませんが、しばしお付き合い下さい。
………
 今、私はクアラ・ルンプールの下町にあるデパートにいます。正面玄関の左右にテラスのような場所があり、そこにカフェというか、軽食店というか、りっぱな屋台というか、とにかく飲み物や食事を出す店があります。そこで、テタレ(TEH TARIK、ミルクティです)を飲んでいます。目の前の通りも店内も、休日の家族連れ、若い男女などでにぎわっています。また店内では、何かの商談をしている人たちもいます。 
 ここはインド人街の近くですが、マレー人、インド人が多く、そして旅行者も含めてアラブ系の人が以前より多くなった感じがします。チャイナタウンに行けば、また違った人種構成や建物となります。ただし、インド人街の路上でも、華人の若い男女の販売員たちが、新しい携帯電話の勧誘をしていましたし、もっとも華やかなブランド店の多いブキッビンタン(日本流に言えば「星が丘」)では、アラブから来た黒衣装のヤングミセスやお嬢さん方が闊歩しています。誰がどこを歩いてはいけないということはありません。
 しかし、地方の小さな村へ行っても、学校はマレー系、中国系、インド系の3つあり、宗教施設も、モスク、ヒンズー寺院、仏教寺院が混在しています。この国では、全く違う世界観を持った人々が、同じ土地の上に生活しているということに、ちょっと感動します。
 そんなことを考えていると、KLタワーに黒い雲がかかってきました。ひと雨来そうです。このKLタワーとともにクアラ・ルンプールを代表する建物が、ペトロナスツインタワーです。小社刊行『写真が語る 地球激変』に、隣国インドネシアのスマトラ島から森林を焼き払う煙の被害をうけている写真が掲載されています。この写真ほどではありませんが、その煙で霞んでいるのをかつて見たことがありました。台北国際金融センターやブルジュ・ドバイ(建設中)ができるまでは、世界一であったこのビルは『イエティをさがせ』にも、登場しています。
 近代的でありながら、先のとがった円柱というイスラムの雰囲気を持つツインタワーですが、タワー1はハザマが、タワー2はサムスンが担当しました。そのとき事故で命を落とした日本の技術者の慰霊碑が日本人墓地にあります。この日本人墓地には、明治大正期以来、この地で亡くなられた方々のお墓や慰霊碑などがあり、1977年の日航機事故の犠牲者の慰霊碑もあります。この墓地については、クアラ・ルンプール日本人会が維持管理のため、地道な活動を続けていることを『戦後アジアにおける日本人』で知りました。さらに、調べると12ほどの日本人墓地が、マレーシア各地にあるとのことで、両国の結びつきや、いろいろな歴史が偲ばれます。
 何度か短い観光旅行で訪れたマレーシアですが、やはり、少しずつ変化しています。「Wawasan 2020」といって、2020年には先進国の仲間入りを目指す政策方針がありますが、大都市周辺にはニュータウンやハイテク産業地域の造成などが、バスの車窓からでもわかります。また、何年ぶりかで行った観光地には大駐車場ができていて、この国の経済成長を見た気がしました。
 しかし、個人的には、かつて「テスス」と言っていたミルクティが、「テタレ」と名前を変えていたことに、ちょっとびっくりしました。「テスス TEH SUSU」=「茶+ミルク」、「テタレ  TEH TARIK」=「茶+引っ張る」ということなのですが、とにかく、屋台の品書きから「テスス」が消え「テタレ」となっていましす。何かが変わったのだと思いますが、味は変わらないようです。ナシゴレン(焼き飯)、タンダス(トイレ)とともに、最初に憶えたマレー語のひとつが使われなくなっているのが、ちょっと寂しかった次第です。

 雷鳴とともに雨が降り出しました。これから大通りに出て有料タンダスに寄ったあと、近くに2つある書店に寄ってみるつもりです。