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ゆまにだより

『会館芸術』―幻のモダニズム(出版部 K・Y) 投稿日:2016/09/14


昭和初期モダニズム文化の発信拠点であった「朝日会館」をご存じでしょうか。場所は大阪・中之島。1956年(昭和40年)に解体されるまで、中之島公会堂(大阪市中央公会堂)を上回る音響・照明・空調設備を備えていたことから、音楽堂・演劇場・映画館・展覧会場として市民に愛され利用されていた文化複合施設でした。経営母体は朝日新聞社ですが、時代をリードする独自の活動を展開し続けました。今回復刻する『会館芸術』は、この朝日会館のPR誌として創刊された雑誌です。
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その時既に会館創設から5年を経ていたのですが、幸いにも雑誌創刊までの会館の活動を伺い知ることが出来る資料が、復刻版第1巻に収録した第4輯(朝日会館創設五周年記念号、昭和6年12月5日発行)に附録として収められています。この『朝日会館五ヶ年間各種催物一覧表』には、主として朝日新聞社と朝日新聞社会事業団が主催した催事記録が約60ページにもわたって掲載されています。簡単にご紹介しておきましょう。
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まずは舞台関係から。「演劇上演目録」には大正15年10月の築地小劇場(「狼」、ロマン・ロラン原作、土方与志演出)、11月の宝塚国民座(「或る日の素戔嗚尊」、武者小路実篤原作、坪内士行演出他)から昭和6年11月の構成劇場(「太陽のない街」、徳永直原作、九木芳夫演出)、新築地劇団(「勤務学校」、村山知義原作、土方与志演出)までの60公演。「能楽上演目録」は昭和2年6月から昭和6年9月までの41公演で、五流能楽会をはじめ邦楽・能楽界から超一流の演者が舞台に上がったようです。
続いては音楽。「洋楽上演目録」に目を通すとまさに「芸術の国際ステーション」(創刊・5月号、小倉敬二)という会館の愛称に相応しく、大正15年10月の近衛文麿指揮・新交響楽団第一回演奏会に始まり、声楽家の藤原義江、柳兼子、バイオリニストのヨセフ・シゲティなどの名前があります(昭和6年11月まで162公演)。ちなみに日本を代表する指揮者の朝比奈隆氏が率いた関西交響楽団(現・大阪フィルハーモニー交響楽団)も朝日会館から育ってゆきました。「邦楽上演目録」には長唄から浪花節まで、大正15年11月から昭和6年11月までの107公演。最後は「舞踏上演目録」の65公演で、大正15年10月の花柳寿美「踊りと唄の会」、11月の石井漠舞踏会、映画と舞踏の会に始まり、宝塚少女歌劇公演、クロチルド・サカロフとアレキサンダー・カサロフの舞踏公演、伊藤道郎(ミチオ・イトウ)舞踏団公演など昭和6年11月までの65公演。舞台関係だけでも500公演、単純計算でも年間100の開催数です。
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朝日会館では著名人の講演会も企画されました。「講演会開催目録」には大正15年10月の朝日会館記念講演会の「文芸講演会」(武者小路実篤、菊池寛)に始まり、「映画時代」講演会(森岩雄、横光利一、衣笠貞之助他)、「藤田画伯講演会」(藤田嗣治、岡本一平)と続き、昭和6年11月「満州戦況報告講演会」までの計234講演にのぼります。
つづいて「映画公開目録」。朝日会館は関西映画界にとって異色の存在でもあったようで、大正15年10月から昭和6年11月までの計131件の公開記録が掲載されています。変わったところでは「コドモの会開催目録」で、アサヒ・コドモの会による児童向けプログラム67件を掲載。最後は「展覧会開催目録」。美術団体としておなじみの二科会のほか、国画創作協会、一九三〇年協会、独立美術協会、信濃橋洋画研究所、日本プロレタリア美術家同盟、写真関係団体では全日本写真連盟「第一回国際写真大サロン」、満鉄総務部満州写真連盟「満州写真展」、その他ポスター展など、大正15年10月から昭和6年11月までの計178件が列記されています。これらの記録に目を通すだけでも、当時の新聞社の文化事業が果たす社会的役割は非常に高かったと想像出来ます。
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最後に、朝日会館という建物についてふれておきます。パンフレットの外観写真は弊社既刊『竹中工務店建築写真帖(昭和二年)』(写真集成近代日本の建築 16)からの転載です。復刻版解説によると、1923年(大正12年)の関東大震災後だったこともあり耐震耐火設計も重要視された設計でした。鉄骨鉄筋コンクリート6階建て、地下階に設備機械室と倉庫、1階に新聞発送場、2階に発送事務室とグラビア製版場、3階が展覧会場、4階から6階は天窓から外光が降り注ぐ1,500人収容の公演場という複合文化施設でした。外壁は黒色人造石洗出しの純黒色、室内はエジプト調のデザイン。幅5メートル×高さ20メートルもの大ガラスのカーテンウォールを備え、天窓から自然光を採り入れたホールは現代にも無いそうです。
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朝日会館に通う人々は「会館族」と呼ばれ、最先端の文化に関心がある人々でした。昭和初期のモダニズム文化を担った大阪を中心とする文化圏の華やかさは、今の私たちの想像や、東京一極集中型の思考を間違いなく超えるものでした。『会館芸術』はそれらを丹念にたどることが出来る唯一無二の文化的資料といっても過言ではありません。

「愛ちゃんの夢物語」(第二営業部 T) 投稿日:2016/08/05

先日、神奈川県の相模原市の施設で障害者ばかりが19人も殺害されるという、あまりに残忍な戦後最悪の殺人事件が起きてしまいました。

犠牲者の方々、遺族の方々、被害に合われた方々のことを考えると、胸が詰まるような思いでいっぱいです。

障害があっても一生懸命に生きている人たちの人権を無視し、いとも簡単に命を奪った行為は絶対に許すことができません。

一人の人間としても許せない気持ちなのですが、奇しくも、昨年、障害のある人への理解と協力を…という主旨で、「知っておきたい障がいのある人のSOS(全6巻)」を出版したものだから、余計に許せない気持ちが倍増してしまいました。

本来、ここでは、このあとの文章を記す予定でしたが、あまりに悲しい事件が起きてしまい、また人間の尊厳というものを改めて考えさせられましたので、まず最初にこのことを書かせていただきました。

犠牲者の方々のご冥福を心からお祈りいたします。



さて、突然話は変わりますが、表題の「愛ちゃんの夢物語」…、これはある普及の名作の邦題タイトルなんですが、何だと思いますか?

この名作は、今から約150年前の1865年にイギリスで誕生し、150年もの間、一度も絶版となることがなく、世界中の140カ国以上(方言も含む)で翻訳され、読み継がれ、今日に至っています。

作者は実は男性で数学者であったこと、主人公には実在のモデルがいたこと、主人公の衣装が当初は青いドレスに白いエプロン姿でなかったこと―。
恥ずかしながら、私はこの名作をちゃんと読んだことがなく、これらのことを全く知りませんでした。

この物語の中で出てくるナゾナゾにちょっとだけなぞらえてみたのですが、もうおわかりですよね。
答えはルイス・キャロル原作の「不思議の国のアリス」なんです。

日本では、明治の後半に初めて翻訳され、主人公の名前はアリスではなく、日本名で「愛ちゃん」、「綾子さん」、「美(みい)ちゃん」などと訳されていたそうです。

また、服装もドレスではなく着物姿の和服だったということも、大変興味深い話ではないでしょうか。

さらに、「アリス」は物語だけに留まることなく、絵画・演劇・映画・テレビ・アニメ・音楽・マンガ・アプリ・ファッションといった様々なジャンルにおいても派生作品が次々と生まれています。

現在、公開中の3D映画「アリス イン ワンダーランド 時間の旅」も
その代表的な派生作品の一つです。

今回、ゆまに書房が8月末に刊行する「アリスのワンダーランド」は、そんな数々の派生作品をビジュアルで紹介し、奇妙でファンタジーな世界の魅力をたっぷりと届けてくれる本になっています。

原作を読んだことがある人には「アリス」の更なるディープな世界を、私のように読んだことがない人にも、入門書としての「アリス」の楽しい世界を感じていただけることと思いますので、是非、夢物語の世界をお楽しみください!

〝良い〟本(第一営業部 A) 投稿日:2016/07/08

 先日、帰りの満員電車でとなりに立った女性から鼻をすする音が聞こえてきた。その後その人は、空いた席に座った。チラッと目をやると、文庫本を読みながら泣いていたのだ。カバーがかかっていて何を読んでいるのかは分からなかったが、(すごく気になった)とにかく、その本を読み心を動かされていることは明らかだった。
  こんな満員電車で立っていても読み進めたいと思い、泣いてしまうような素敵な〝良い〟本にこの人は出会ったのだな・・・と思った。

 残念ながら、ゆまに書房では文庫本は発行していないので、その本はうちの本ではないが、ゆまにの本も『〝良い〟本ですね』と言ってもらえるような嬉しいエピソードがあるので、最近のいくつかを紹介したいと思う。

 5月、「近世文学会」に出展した際、慣れない学会販売に一人緊張して座っていると、立ち寄られたある大学の先生が『シリーズ 明治・大正の旅行』のパンフを手に取って、『こういう本の〝良さ〟を学生に知ってもらって、もっと活用してもらえたらいいのだけど・・・』と言ってもらえ、緊張が一気に解けた。

 また、先日、政治・経済の専門の先生より『戦争調査会事務局書類』『戦後日中交流年誌』などの本についてお問合せのお電話をいただいた際、『私のような政経専門の研究者でも、こういった貴重な史料で歴史も学ばなければならない。ゆまにさんは〝良い〟本を出してくれているね。』とおっしゃっていただけて、改めてうちの難しい学術書も研究に役立っているのだな~と実感できた。

  一般・図書館向けの本でも・・・
  
 コインコレクターの方より、『ビジュアル 日本のお金の歴史』について、『貨幣に関する本は専門的で難しいものが多いけど、この本は分かりやすくて〝良い〟本だね。仲間にも薦めたいからパンフレット送ってください。』と、お電話をいただいたり、『大人になるまでに読みたい15歳の短歌・俳句・川柳』の新聞広告を見てパンフレットを請求をされた方から後日、その組見本を見て『・・・編者さんの解説も教科書くささがなくて〝良い〟ですね。早速書店に注文します』とおはがきをいただいたり・・・。

 あるときは、たまたま通りかかった若いお母さんが、ショーウインドウに飾ってあった『子どもの気持ちを知る絵本』を見て、『うちの子が感覚過敏と診断されてしまって・・・こういう本があって〝良かった〟。ここで買えますか・・・』と飛び込んでいらしたこともあった。

 冒頭の女性はもしかしたら有名な賞に輝いたり、ベストセラーのランキングに入る〝良い〟本を読んでいたのかもしれない。
  ゆまに書房の編集者も様々な人に〝良いね〟と言ってもらえる本を日々生み出しているので、これからもひとりでも多くの人にゆまにの〝良い〟本と出会い、いろいろな意味で感動してもらいたい。
 通勤電車で読むにはちょっと大きい本かもしれないが・・・。

最近の私の「楽しみ」を教えましょう(第一営業部 H・K) 投稿日:2016/06/10

 毎朝起きるとまずテレビでニュースを見る、そんな毎日を過ごしています。
たぶんみなさんもそんな毎日を過ごされているのではないかと思います。

 私はいつの日からか、「迎賓館が公開されます」、「園遊会が行われました」、「バナナが絶滅するかもしれません」といったニュースを目にするたびに「これって明治時代や大正時代からあったのかな?」と気になるようになりました。
そしてJKBooks「風俗画報」で検索してみるようになりました。

 さすが、「風俗画報」は江戸・明治・大正の世相・風俗・歴史・文学・事物・地理・戦争・災害を報じているだけあり、ほとんどの疑問に答えてくれるように記事が見つかります!
また記事だけでなく、そのことにちなんだ多彩な図版が見つかり我々を楽しませてくれるのも「風俗画報」ならでは、ではないでしょうか。

 ただ検索をするためには少しテクニックが必要になる場合もあります。
例えば「“バナナ”って明治時代にはなんて呼ばれていたのだろう?」という下調べなどが必要になることもありますが、それも“うんちく”を更にプラスする作業ですのでとても楽しいです。

 見つかった記事を読み進めていくと他にも意外な事が分かったりします。
明治40年に行われた“園遊会”の記事に載っている模擬店で提供されたメニューを見るとビールやサイダー、アイスクリーム、烏龍茶が載っているのです。
ここで新たな疑問もわいてきました。
いったい日本人はいつから烏龍茶を飲み始めたのでしょう?
更に詳しく調べてみたくなります。

 又その“園遊会”の様子を表した図を見ると、ビアサーバーのようなものからビールがつがれて人々がジョッキで乾杯している様子が描かれています。
どこかで見た風景だなと思って思わず笑ってしまいましたが同時に疑問もわいてきました。
さて、いつの時代から日本人はジョッキでビールを飲み始めたのでしょうね?
もっともっと詳しく調べてみたくなります…

 そんな私の「楽しみ」をみなさんにも知っていただきたくてブログを始めてみました。
http://blog.goo.ne.jp/crunch1969
一度のぞいてみてください。
物事の意外なルーツを知ることができたり、更に深く調べたりしたくなるトピックが見つかるかもしれませんよ。
今後もどんどん更新していくつもりですのでご期待ください。

 さらに今年の6月からJKBooks「風俗画報」では新しい検索キーワードが約7700件追加されましたので、今まで出てこなかった検索結果も出てくるようになったのではと思います。
今回は図版のキャプションのほか、人名や地名、慣用表記(例えば、“緑門”→“アーチ”、“遊泳場”→“プール”、“混堂”→“銭湯”)などをキーワードとして多数追加しました。
これによって先ほどの”バナナ”に関する検索の時のような下調べも必要なくなっているかもしれません。
一度試しに検索してみてください!

今後も検索に役立つキーワードをどんどん追加していく予定です。
進化していくJKBooks「風俗画報」をぜひご体験ください!
楽しいですよ、きっと。

かけがえのない思い出 ―創業四十周年を迎えて思い出す人々(終)(H・A) 投稿日:2016/05/13

 またもや日本列島で大きな地震が発生した。被災者の方たちには心よりお見舞いとお悔やみ申し上げます。過日、些少ですが社員全員より募金を行い赤十字を通じて支援をさせて頂きました。
 私たちが居住する日本列島には、周辺の海底も含めると約2000の活断層があるという。それらの中で、いつマグニチュード7クラスの地震がおきても不思議ではない主要活断層が98あるそうだ。しいて言えば私たちは明日地震が起きるかもしれない活断層の真上で日常生活を送っているのである。それでも政府は原子力発電を継続するという。何といっても地震で思い出されるのはやはり2011年3月11日に起きた東日本大震災であろう。あのときは東京にいる私たちも地震の怖さを実体験したので、生涯忘れることはないだろう。東日本大震災は想定外の大津波が発生したため、被災地は広範囲にわたり、死亡者や行方不明者の数は想像を絶するものとなってしまった。また、福島原子力発電所もメルトダウンを起こし放射能をまき散らしてしまったため、放射能から故郷を逃れ、一家離散状態となってしまった家族にはいまだ2011年3月11日で時間がストップしている。何故このような悲惨な状況が生まれてしまったのか。政府や東京電力関係者は想定外の大津波が被害を大きくしてしまったと弁解する。しかしそうであるのであれば、現在稼働を再開した鹿児島の川内原子力発電所には想定外の地震をはじめとする自然災害が起こらないとは想定できないだろう。人間が想定できることなどはたかが知れている。やはり、原子力発電所は直ちに停止し、原子力発電所に頼らないエネルギー源を基本に未来の日本を考えるべきである。
 
 さて、弊社も去る5月1日で創業41周年を迎えることが出来ました。本連載も開始以来1年が過ぎました。「創業四十周年を迎えて」とのタイトルでスタートしたのでそろそろ終了しようと思いますが、本欄を終える前に誰よりも記憶にとどめておかなければならない人がもう一人いらっしゃいます。

 紀伊國屋書店元副社長・高井省吉氏に初めてお会いしたのは、昭和57年の秋のころでした。当時、氏は紀伊國屋書店首都圏西営業部長をされており、私は八王子の営業所を表敬訪問しました。「カミソリ高井」と噂され、あまり版元にはお会いしないと聞いていましたので、正直緊張してドアをノックしたことを昨日のことのようにはっきりと覚えています。しかし、お会いすると氏はとても気さくな方で、「お昼がまだでしたら一緒にどうですか」と事務所内のソファに座る間もなく近所のレストランに行きました。昼食を食べながら自己紹介を兼ねて仕事のことや趣味のことなどいろいろ雑談しました。それを機に氏とはとても長い間懇意に親密にお付き合いをさせて頂き、彼が病に倒れる平成13年まで続きました。仕事では大変お世話になったことは申すまでもないのですが、プライベートのお付き合いの思い出を少し披露しようと思います。

 平成3年の春、彼は突然大きな段ボール箱を抱えて会社にやってきて「これを何とか本にしてくれないか」といって応接室のテーブルの上にその段ボール箱を置きました。中には原稿用紙やら新聞の切り抜き、大学ノートなどが沢山入っていました。「どうしたの?」と尋ねると、一昨年亡くなった彼の父が書き残したものだそうである。話を聞くと、生前中「短歌を書いているので、本にしてくれるよう」頼まれていたので、遺稿集として父に贈りたいとのこと。内容も確かめもせず「とりあえず預からしてほしい」といって、引き受けたのだが、はたして本になるかどうか全体像のチェックに掛かりました。そしてそれらの原稿を大きく5つの分野に仕分けして、全体の構想を立てて彼の了解を取りました。こうして出来上がったのが『高井猛著作集』(平成3年9月16日、ゆまに書房刊)である。
 本書の巻末に彼が生前中残した唯一であろう文章がある。タイトルは「『高井猛著作集』刊行にあたって」。彼の性格がよく出ていて私がとても気に入っているその一部を紹介します。
 「出稿するに当たり改めて読んでみますと、生前の父の人となりが、親としてではなく人間としてなんとなく見えてくるような気がします。子供からみるとあゝしろこうしろといわれたような記憶は余りなく、むしろよく褒めてくれたことが思い出されます。(中略)
 この本はやはり生前に出すべきであったと思います。今では父のよろこぶ顔が見られません。ただこの本を出すに当たり、母が1千余の短歌の中から選集し写し替えてくれました。恐らく雪の中遺影の前で、生前の夫を思いつつ選んだことでしょう。否、一緒になって作業をしたのでしょう。このことを思うと父は怒るかも知れませんが、本の内容は二の次であり、又いかに拙文であっても良いと思っています。」
 本文は彼の優しい一面をよく表していて、この原稿を私に託した彼の気持を何時までも大事にしたいと常々思っています。
 その数年後、富山にて一人で暮らしておられたお母さんが突然脳溢血で倒れて亡くなられたおりに、富山の旧家である御実家までご焼香に駆け付けたことも今では忘れられない思い出となりました。
 今年の2月13日、彼は実家のある富山のお墓でご両親と眠っていたのですが、諸般の事情で東京の新宿に移ってきましたので、機会を見つけて会いに行こうと思っています。

 彼との思い出はそのほかにもたくさんあり尽きることがありません。私が病に倒れて食事療法を学ぶため入院していた時、面会に来てレストランでたらふく食べてビールを飲んでいったこと。ゆまに書房が社運を賭けた大きな企画を立てた時全国の説明会に一緒に来てくれたこと。私の父が亡くなったことを彼に知らせずに帰郷したことがばれて本気で怒られたこと。会社の健康診断を受けてその診断結果を見せて私に診断してくれと毎年頼みに来たこと。私が紀伊國屋書店の仕入担当の役員に近刊の説明をしていたら突然入ってきて応援をしてくれたこと。等々
 しかし、やはり一番の思い出はゴルフの思い出です。私が生涯一番数多く同伴したプレイヤーは高井省吉氏であることは間違いありません。ゴルフの思い出を語りましたら枚挙にいとまがありませんが、先日亡くなられた藤本仁史常務と高井氏とご一緒にしばしばプレイをしたことは、今ではとても貴重な思い出となりました。
 
 
 ゆまに書房はこれからも一年、一年一歩ずつ確実に、社会に少しでも貢献できるような出版活動を続けていきたいと考えております。これからもご指導、ご支援を賜りますよう社員一同心よりお願い申し上げます。

関西オフィスだより(関西オフィスK) 投稿日:2016/04/08

年初に目に留まったニュースにショックを受け、その概要を手帳にメモしていたのだが、その話題は数週間後には週刊誌にも取り上げられていたので、ご存知の方も多いのかと思う。
世界の大富豪62人の総資産合計(206兆円)は、世界の下位36億人の総資産と同額だという現実。
「たった62人と36億人!」この世界の如何ともしがたい格差の現実がそこにある。
先進国を中心に多くの国々は経済最優先の政策を推し進めており、その結果一部の強者と大多数の弱者を生み出してしまい、こんないびつな世界を作り上げてしまった。この流れは今後も続き、より大きな格差を生み出す気配である。
本来、流通を喚起し、人々に豊かさと幸せをもたらすために生み出された脇役のお金が、今やすべてを差し置いて主役になってしまい、人類を支配してしまったかのようである。
書店の棚には「お金」を題材にしたものが、大量にかつ幅広く並べられている。今後の経済状況を予測するものやお金の殖やし方を指南するもの等々お金への欲求はそのタイトルの豊富さからも伺える。
ただ、児童・生徒向けに「お金の歴史」を解説したものはほとんどなかったように思われる。
当社で昨年10月から刊行が始まり、今年1月に完結した「ビジュアル 日本のお金の歴史」(全3巻)は、類書が少ないという理由もあるのか大変好評で、新年度の本格的な販売時期を前に重版の勢いである。
本書は日本のさまざまなお金についてオールカラーの豊富な図版と写真を満載し、飛鳥時代から現代に至る日本経済史を学ぶことが出来るシリーズとなっている。
「お金の歴史」を学ぶことによって、「お金」の本来の役割を子どもたちに学んでもらえればと祈るばかりである。
今年度小学生高学年以上の子どもたちに是非お勧めのシリーズです。

ゆまに書房では他に小・中・高校公共図書館向け新シリーズとしてこの「ビジュアル 日本のお金の歴史」と共に「脳と目の科学」(全2巻)、先月このコーナーで紹介された「15歳の短歌・俳句・川柳」(全3巻)があります。
いずれも今年度渾身の新シリーズです。

『大人になるまでに読みたい 15歳の短歌・俳句・川柳』(編集室T) 投稿日:2016/03/14

『大人になるまでに読みたい 15歳の短歌・俳句・川柳』全三巻の編集をようやく終えたところである。
前シリーズの『15歳の詩』が好調だったので、じゃあ短詩型をという、いささか安直な(?)スタートだったのだが、本の内容が定まるまで、色々と試行錯誤があった。

その昔々、『塚本邦雄全集』を担当したことがあって、原本が編集部には山積みになっており、歌集以外で心に残ったのは、杉浦康平(!)による造本の『百句燦々』などの俳句評釈本だった。
杉浦風とは行かないが、まず、大きく作品を組み、評釈と作家略歴を入れる。というページレイアウトを作った。
問題なのは、短歌・俳句・川柳 の違いを分かるようにしないといけない。
冗談ではなく「短歌って五・七・五ですよね」と真顔で言った人に五人は会ったことがある。
それはともかく、無季俳句だったら、川柳との区別がつかないことも考えられる。
そこで「短」「俳」「川」のロゴを作った。それぞれが、取り上げられているページには必ず刻印されている。

次に選者。
短歌は黒瀬珂瀾さん、俳句は佐藤文香さん、川柳は なかはられいこ さんに、選と評釈をお願いした。
黒瀬珂瀾さんが旧知だったので、佐藤さん、なかはらさん と紹介していただいた。
こちらは思いつきで「短歌・俳句・川柳」としたのだが、この3ジャンルが1つのアンソロジーに組まれることは珍しいことらしい。
非常に企画に興味を持っていただいた。

次に巻立てと内容。
これが一番悩んだかもしれない。『15歳の詩』①愛する ②いきる ③なやむ だったのだが、
今回は収録作品数も多いので(150編)、このお題では、選も大変かということになり、「○○と○○」というように対になるように考え、①愛と恋 ②生と夢 ③なやみと力 ということになった。それでもかなり、ざっくりなのだが、、、、
選者の方々が的確にイメージを拡げ、選をしてくれた。ありがとうございます。
配列は、ジャンル別にすることも考えたのだが、黒瀬さんと相談しているとき、せっかく3つのジャンルが揃うのは珍しいことだし、それじゃつまらないね、ということになり、歌合わせのようにバラバラに並べていく、ということになった。
これが、なかなか大変で各巻の編者にご苦労をかけた。
どこから読んでも大丈夫な本なのだが、どうしてこの順番で作品が並んでいるのか、ということも気にしてもらえたらとても嬉しい。

次に巻頭文。
『15歳の詩』では、谷川俊太郎さんにお願いをし、15歳のころと詩、という観点のエッセイを3点書いていただいた。
今回はちょっとそういうわけにもいかないな、ということで①穂村弘さん、②夏井いつき さん、③長嶋有さんにお引き受けいただいた。
短歌、俳句、小説(長嶋さんは俳句もなさる)という豪華な顔ぶれである。
収録作品に触れていただき、「15歳」と「短詩型」いうキーワードで素晴らしいお原稿をいただいた。
通して読むと、「短詩型」が、ちょっと分かった気になります。

最後にエッセイ。
それぞれ、本当に力作です。
黒瀬珂瀾さんは、愛の歌、句について「愛するとは、他者と出会うこと。」
とやさしく言ってくれました。
佐藤文香さんは、俳句と過ごした日々に触れて「本気で書こうと思ったら、同じ
くらい本気の仲間がいると、すごく面白い。」
と鼓舞してくれました。
なかはられいこさん は、なやむことを力を持つことについて
「世の中で、あたりまえと思われたり言われたりしていることは、ほんとうにあたりまえなのでしょうか。」
と考え続けることの大事さを、語ってくれています。

それぞれ、本当に感動的です。

二人の幕臣が見つめていたもの―川路聖謨と勝海舟―(編集室E・Y) 投稿日:2016/02/12

 川路聖謨(としあきら)は享和元年(1801)、日田金(ひだがね)(日田を拠点に九州の大名たちの蔵元、掛屋をつとめた有名な高利貸したちをいう)で知られる豊後国天領日田の、代官所小役人の子として生まれた。実父内藤歳由は、聖謨3歳の頃、息子を御目見(おめみえ)以上にするという、強い意志を抱いて出府。熱心な猟官運動の結果、文化9年(1812)、御家人川路光房と聖謨の養子縁組に成功する。聖謨は翌年には川路家の家督を相続、小普請組に入る。だが、小普請組は、3,000石未満で無役の旗本・御家人がいたところ。あぶれ者も多かったという。
勝海舟は文政6年(1823)生まれ、父小吉が享和2年生まれであるので、聖謨より一世代下になる。海舟も、江戸の下層御家人の世界に生まれそこから抜け出す道を模索した一人であった。無頼な父小吉の蟄居謹慎期間中に万国地図を見せてもらい、強く世界を意識し、横文字修行を志した。その後、ペリーの来航で時代が大きく変動する中、蕃書調所出役を経て、長崎海軍伝習生から咸臨丸艦長、軍艦奉行、陸軍総裁となったことはよく知られている。
 一方、若き聖謨の猛烈な就職活動と出世の様子は、『勘定奉行・川路聖謨関係史料』第1巻収録の「画入川路聖謨一代明細書」で読み取れる。幼い頃、供に徒(かち)をつれ馬を引く武士と遭遇した時、父からおまえなら絶対そういう武士になれると激励され刻苦勉励したことが解説にも触れられているが、川路は、勘定所の筆算吟味に優秀な成績で合格し、勘定所の支配勘定出役に採用される。のち勘定評定所留役に抜擢され、近江国の村境論争や仙石騒動を裁断し、能吏としての名をあげ、勘定奉行勝手方筆頭まで上り詰める。
 咸臨丸で太平洋を渡り、日米交渉で活躍した勝に対して、長崎で行われた日露交渉を任せられたのが川路である。
「川路は非常に聡明であった。彼は私たち自身を反駁する巧妙な弁論をもって知性を閃めかせたものの、なおこの人物を尊敬しないわけにはいかなかった。彼の一言一句、一瞥、それに物腰までが―すべて良識と、機知と、烱眼(けいがん)と、練達を顕わしていた」(『ゴンチャローフ日本渡航記』講談社学術文庫1867)。
 これは、遣日全権使節プチャーチンの秘書官ゴンチャローフの川路評であるが、プチャーチンは帰国後、川路のことを「いかなるヨーロッパの社交界に出ても、その俊敏で健全な知性と巧みな弁論術ゆえに傑出した人物たりうるだろう」と報告書に書いている(同上)。  
 しかし、勝海舟の川路評はすこぶる悪い。「……川路は取りたてものだから、どうも人が悪くてね。こすく(狡い)てね」(童門冬二「川路聖謨―幕府に殉じた男」『歴史読本』昭和60年10月号)と言う。
明治元年(1868)3月14日勝海舟・西郷隆盛の江戸無血開城交渉の翌日、川路聖謨はピストルで自殺する。68歳であった。後年、明治新政府にも取り立てられた勝が歩んだ道との違いである。
このように両人が交わることはなかったが、興味深いのは、両者ともに江戸幕府の一級の史料を多く残していることである。川路の『御勘定所要録』(『勘定奉行・川路聖謨関係史料』第2巻~第4巻に収録)と、勝が明治期に編纂した『吹塵録』である。いずれも今日では、幕政の実態を詳らかにする貴重な歴史史料となっている。

創業の精神と変革 ―創業四十周年を迎えて思い出す人々(5)(H・A) 投稿日:2016/01/15

 我が草屋の和室に一幅の揮毫「流水不争先」(盛永宗興書、平成三年、ながれるみずはさきをあらそわず)が掛けられている。本揮毫は紀伊國屋書店取締役副社長をされていた吉枝喜久保氏に頂いた書である。同封されていた吉枝氏の書簡によると禅林句集の一節で、「事の勝敗や成否に未練や執着を捨てることの意」。「水は方円の器に従う」というような意味であろうか。
 
 吉枝氏と初めてお会できたのは、まだ新宿の紀伊国屋書店本店6階に本社機能があったので、昭和58・9年の頃だったと思います。ある日、紀伊國屋書店の本社に表敬訪問しました。
 「御陰様で自社倉庫を持つことが出来ました」
 とご挨拶すると
 「あまり倉庫は広げない方が良いですよ。商品を置いておくスペースがあると、安心して営業に気合が入らなくなります。」
 そのような助言を頂いたことが何故か強烈に覚えている。それからはとても懇意にさせて頂きました。紀伊國屋書店の営業所が全国に次々と開設された時代で、その営業所開所式に招待され、毎年1月2日には東京都府中市のご自宅に伺い新年のご挨拶をさせて頂きました。初対面から数年後の1992(平成4)年、我社で『太宰治論集』(山内祥史編著、全19巻・別巻2)を刊行した折、吉枝氏が太宰治を愛読されていたことを度々耳にしていたので本書を謹呈しました。この揮毫はそのお礼として頂いたものです。盛永宗興氏は当時京都大徳寺の僧侶で、吉枝氏は戦後間もなくの厳しい就職難時代に盛永氏の紹介で紀伊國屋書店に縁故入社できたそうです。ちなみに、平成13年に突然くも膜下出血で倒れてしまった高井省吉氏(当時、紀伊國屋書店副社長)は吉枝氏の富山高校の後輩にあたり、吉枝氏の紹介で京都営業所に縁故入社されたそうです。

 私と吉枝氏は21歳の年の差がありました。若くして創業した私にとって吉枝さんのお話は、会社経営に大変勉強になりました。
特に、
 「如何なる企業でも、人間によってつくられた組織である以上は、創業の精神と哲学は変えてはならない。しかし同時にまた、経営環境の変化に即応して絶えざる改革を断行し、守成を果たさなければならない。」
 「そして、経営の世界もまた、創業よりも維持守成が難しい人間の営みなのである。」
 凡そそのような趣旨のお話だったような気がするが、そのお言葉は今でも強烈に残っており、常に私の経営判断の基準としてきました。

 書店の方々との思い出は枚挙にいとまがない。書店の経営者や関係者の多くの方々は、経験が浅く若年で創業した私より年長者でした。そのためか、彼らは常に優しく対応していただき、たくさんの勉強をさせてもらいました。紀伊國屋書店営業総本部の皆さんをはじめ書店の皆さんや取次の方々には親しくさせて頂き、懐かしく思い出されることが少なくありません。私の出版人生の半分は書店や取次の方々との御付き合い人生でもあったといっても過言ではありません。先輩の皆さんは私よりも年上でしたので、今では吉枝氏をはじめ多くの人たちは退職されたか鬼籍に入られてしまいました。寂しい限りです。

 振り返ってみれば四十数年間の経営は、氏の教えの通り創業精神の維持と改革のバランスを保つことの連続でした。ゆまに書房の変革は大きな流れで見ると約7年の周期でやってきました。そのたびに苦楽を共にした社員の愛社精神は、ゆまに書房の創業精神でもあり、何物にも代えがたい宝であると私は今でも自負しています。

 今年はその7年周期で計算すると第Ⅵ期の最後の年となります。出版界の世界は過去に類を見ないほど右肩下がりが続いています。そのような状況下で、創業精神を保ちながら如何に変革を遂げていくかが大きく問われる時代でもあります。特に、前回の本コーナーでKが述べているように、これから迎えるであろうミレニアル世代が読者の大半を占める時代が到来(少々異論はあるが)したとき、「たまたま座った電車の前の席で必死に我社の本を読みふけっている若者の姿を見てみたい」と創業したゆまに書房の創業精神とか、「ゆまに書房の本で私の人生は大きく変わりました」と感想の手紙を頂いた時の喜びは、はたして残っているのだろうか。うまく変革を遂げているのであろうか・・・・。心配は尽きない。唯、確かなことは変革の意識をしっかりと持ちながら1年、1年確実に歩んでいくことしか我々はできないのだと思う。

 人は誰でも「水は方円の器に従うように」自分の出所進退を間違うことなく、晩節を汚したくはないと考えている。私もいつのまにかそのようなことを考える年齢になったようだ。とはいうもののなかなかそれを実践することは容易なことではない。
 性懲りもなくまた新しい年が早足にやってきました。さあ急ごう、ミレニアル世代がやってこないうちに・・。

明るい未来(編集室K) 投稿日:2015/12/11

 「ミレニアル世代の力」という小林いずみ氏のエッセー(註1)を読んだ。「ミレニアル世代(millennial generation)」とは、1980年代~2000年代前半に生まれた世代で、「M世代」とも呼ばれている。「この世代は生まれた時からデジタル化された生活の中にあり、常時インターネットとつながり、これまでの世代とは異なる価値観を持っているといわれている」と述べている。執筆者自身「その実態を十分に理解していない」としながらも、行政も企業もこのミレニアル世代の動向について意識しなければならない、と提言する。
 そういう世代を理解できない、とか、デジタルに頼ってばかりじゃだめだ、とか言っていては、政治や経済は動いていかない。教育も同様だろう。ミレニアル世代がすでに人口の多くの割合を占めて、この国、そして世界に存在していることを前提に、今とこれからを考え、論じなければならない。

 もうひとつ“受け売り”の言葉を紹介したい。ロボット工学の石黒浩大阪大学教授がテレビで語っていた言葉である。「テクノロジーの進歩は、人間の進化である」というもので、言われてみればそうかと思う。東京からニューヨークへ13時間かそこらで移動できたり、一秒間に一京回の演算を行ったりするのは、やはり、人間の進化にほかならない。膨大な情報を、ポケットに入る小さな機械で、どこでもいつでも見られることも進化である。

 そして、ショッキングなニューズがひとつ。野村総研がオックスフォード大学の研究者と共同で研究した結果、現在日本国内で働いている人の49%が従事している業種が、近い将来、機械や人工知能に置き換えられることになるだろう、という予測が発表された。これはやむを得ないことであろう。駕籠かき、馬方、瓦版屋から両替商など、時代とともに消えていった仕事が思い浮かぶ。

 コンピュータ、そしてネットワークが社会を変えるということは言われて久しいが、だんだんその実際の姿が見えてきたということだろうと納得している。ただ、私の最大の関心事である「本の行く末」はどうなるのだろうか。

いつの日か、「電車の中で重そうな紙の束を見つめて、一枚一枚めくっている変な人がいた」などと言われる日が来るであろう。紙という素材も珍しいものになるに違いない。それと、その紙の束を見ている人は、誰ともつながっていない、かわいそうな、あるいは、反社会的な存在と見られるのかもしれない。

2045年頃に、人工知能が人間の脳を超えるという予測がある。超えるかどうかわからないが、生活の様々な分野でデジタル化が一通り揃っていると考えられる。部屋を塞ぐ本棚などという家具は消えているだろうし、本を何冊も詰め込む鞄もいらないだろう。そのことだけで、私にとっては「明るい未来」と言える。ただし、残念なことにその時代にはもう私はいない。
                                    
註1.『経済同友』2015.11。