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ゆまにだより

『語学教育(1942~1972年刊)』刊行にあたって   江利川 春雄(和歌山大学名誉教授・日本英語教育史学会名誉会長) 投稿日:2022/06/13 NEW!

 『語学教育』(1942~1972年刊)は、日本の外国語教育改革をリードしてきた
語学教育研究所(語研)の機関誌である。語研の前身は1923(大正12)年に文部
省内に設立された英語教授研究所で、ハロルド・E・パーマー所長を中心に、音
声を重視したオーラル・メソッドの普及活動、各種の調査研究、英語教科書・
教授法書の刊行、毎年の英語教授研究大会の開催などによって日本の英語教育界
に巨大な足跡を残してきた。
 研究所の機関誌 The Bulletin of the Institute for Research in English
Teaching(第179号まで名著普及会が1985年に復刻)は、戦時下の1942(昭和17)
年2月発行の第180号より『語学教育』に改題され、それまでの英文本位から邦文
本位に改められた。1944(昭和19)年11月には、出版統制により広島文理科大学
英語教育研究所発行の『英語教育』(ゆまに書房が2020?2021年に復刻)を併合
し、戦時下で唯一刊行を許された語学教育専門誌となった。
 今回の復刻版は、『語学教育』の初号である第180号(1942年)から終刊の301
号(1972年)までの30年間に刊行された、合併号を含む全122号・114冊である。
すでに復刻されているThe Bulletin と連続することで、創設から半世紀に及ぶ
研究所の活動の全容が初めて明らかになる。それは同時に、1920年代から50年間
の日本の語学教育史そのものを通観させてくれる。
 『語学教育』は、当初は英語以外にドイツ語、フランス語、中国語、タガログ
語、日本語などに関する論考も掲載され、戦後は英語教育を中心とするようにな
った。月刊誌として出発したが、敗戦前後に1年8カ月のブランクがあるなど、
平均すると年に3.8冊の刊行だった。その実体に合わせるかのように、1967(昭
和42)年11月の282号から季刊となった。
 『語学教育』は、アジア・太平洋戦争期に始まり、敗戦・占領下の学校教育
改革期を経て高度経済成長期へと続く、語学教育の激動の足跡を証言する第一級
の基本文献である。たとえば、戦時下での陸海軍の学校における外国語教育や
「大東亜共栄圏」の諸言語に関する希有な論考、戦後の新制中学・高校での外国
語教育のあり方や教材の扱い方、大衆化する大学での英文科の改革問題や教師教
育の課題など、貴重な論考の宝庫である。必修語彙の選定や英語科教育課程の検
討などの調査研究も有益である。それゆえ、川澄哲夫編『資料 日本英学史』
(大修館書店、1978?1998)に収録されている論考も少なくない。
 しかし、その学術的な価値の高さにもかかわらず、1945(昭和20)年春の大空
襲による研究所の焼失や敗戦直後の混乱もあり、『語学教育』は散逸がはなはだ
しい。同誌を全冊揃える図書館は存在せず、語研にも全冊は揃っていない。その
ため長らく復刻が待たれていた。このたび語学教育研究所理事会の了承を得て、
完全復刻にこぎ着けることができた。ついに幻の雑誌の全貌が明らかになるので
ある。
 『語学教育』の寄稿者は、市河三喜、福原麟太郎、土居光知、櫻井役、青木常
雄、山本忠雄、石橋幸太郎、星山三郎、飯野至誠、五十嵐新次郎、寺西武夫、皆
川三郎、外山滋比古など、日本の語学教育界を代表する錚々たる人々で、質の高
い論考を提供している。英語教育を中心としつつも、ドイツ語、フランス語等も
含む語学教育の目的論、教授法、教材論、教師論、人物論、調査研究、実践報告、
書評など実に包括的で、小学校の英語教育から大学の語学教育までをカバーし、
今日的な示唆に富むものが多い。毎年の語学教育研究大会の報告も、英語教育界
の歩みを知る上で欠かせない。
 2022(令和4)年はパーマー来日100周年、翌年は語学教育研究所の創設100周
年にあたる。こうした記念すべきときに『語学教育』の全冊が復刻される。語学
教育が混迷を深めるいま、未来の展望を切り拓くために、先人たちの過去の知的
営為から謙虚に学びたい。積極的な活用を願ってやまない。

『東邦協会会報』監修にあたって      有山輝雄(メディア史研究家) 投稿日:2022/05/23

 今回復刻する『東邦協会会報』は前回復刻した『東邦協会報告』に引き続き、
日清戦争中の一八九四(明治二十七)年から第一次世界大戦直前の一九一四
(大正三)年までの長期間発行された東邦協会の機関誌である。これだけ
長期間発行されたということこそ、この雑誌の最も重要な資料的価値である。
東邦協会は副島種臣を中心に一八九一(明治二十四)年に成立し、朝鮮半島
政略に積極的役割を果たしたが、そうした国権主義的団体が三国干渉、
北清事変、日英同盟、日露戦争、韓国併合、辛亥革命といった複雑な東アジア
情勢に対してどのような認識をもったのかは非常に興味深い問題である。
日清戦争前までは比較的まとまりをもっていた国権主義者達もこの時期に
なると多様化し、様々な志向をもつようになる。『東邦協会会報』には
そうした過程が直接間接に反映されているはずである。
 ただ『東邦協会会報』はその「東邦協会会報発行の理由」にうたっている
ように「現今の政事」を論ずる論説記事を避け、「専はら学術的範囲」に
属する情報や論説に限定していた。これは新聞紙法の定める保証金を避ける
ための措置であるが、それだけではなく、政事論説を掲げて会内の分化を
引き起こすよりも、東アジア状勢や国際情勢についての客観的な情報を提供
していこうとする東邦協会の基本的性格がこの時期も引き継がれていることを
示している。いわゆる国権派があやふやな認識にもとづく誇大な論議に傾き
がちであっただけに、こうした編集方針は重要である。会報各号に満載されて
いる情報はその収集に多大の労力が必要であったはずで、これを持続発行して
いた東邦協会の活動力はひとかたならぬものである。そしてその情報収集は
漫然としたものではなく、一定の方向性がうかがえることも注意しておくべき
だろう。
 東アジアにおける日本の位置、日本の対外認識が改めて問われている今日、
それを歴史的に考えなければならないが、『東邦協会会報』はきわめて重要な
資料なのである。

『第69回尾高賞』     製作部・S 投稿日:2022/04/19

「第69回尾高賞」の授賞作品が発表になった。
  
尾高賞(おたかしょう)は、日本の現代音楽の作曲家に与えられる作曲賞である。
  
 今回の授賞作は西村朗作曲「華開世界~オーケストラのための」(2020年作曲)と、岸野末利加作曲「チェロとオーケストラのための What the Thunder Said/雷神の言葉」(2021年作曲)の2作品。
第69回尾高賞は、本来なら2020年に発表されたオーケストラ曲から選ばれるはずだが、新型コロナウイルスの影響で、20年と21年の2年間に発表された曲 からの選考となった。これは70年に及ぶ尾高賞の歴史の中で初めてのこと。
 西村氏の尾高賞受賞は、2011年の「オーケストラのための『蘇莫者』」以来で、これが6回目。尾高賞を最多の6回受賞し、「受賞男」と呼ばれた三善晃氏についに並んだことになる。また、岸野氏は今回初めて尾高賞に選ばれた。
女性作曲家の受賞は2009年の原田敬子氏以来、13年ぶり4回目。
西村、岸野氏の受賞作品は、7月1日開催の「N響Music Tomorrow 2022」で再演される。

 弊社からも今秋『日本の音楽の歴史(仮)』を刊行予定。こちらも併せて注目して頂きたい。

『琉球文学大系』刊行にあたって   波照間 永吉 『琉球文学大系』編集刊行委員会委員長 投稿日:2022/03/23 NEW!

 琉球文学研究が始まって約120年が経つ。この間、伊波普猷・仲原善忠・外間守善・池宮正治など多くの研究者がこの未開の大地を耕して豊饒の沃野とし、さまざまな成果物を世に送ってきた。しかし、まだこの領域のテキストを体系的に整理し、研究者はじめ多くの人々に提供する仕事は成されていない。
 『おもろさうし』や琉球歌謡のテキストについては、評価すべき仕事はなされているが、琉歌・組踊はじめ説話、沖縄芝居、琉球和文学・琉球漢文学、そして文学を支える歴史・民俗などの基礎資料を含めた、琉球文学を一望するテキストの制作がなされなくてはならない。琉球文学研究、そして琉球・沖縄文化研究の拡大と深化のために、研究水準を保ったテキストの整備が必要である。『琉球文学大系』を構想する所以である。
 今回、名桜大学が『琉球文学大系』を構想し、その実現に向けて確たる一歩を踏み出したことは、琉球文学研究史にとどまらず、ひろく琉球・沖縄文化研究の世界で特筆されることである。文学領域を主要な部分とするが、文学と表裏をなす歴史・民俗などの領域についてもその必須文献を収録することとしている。これを整備し公刊することによって、琉球・沖縄文化研究は大きく裾野を広げることができるにちがいない。その概要は、全35巻。文学領域27巻、歴史領域4巻、民俗・地誌領域4巻である。これまでの研究の粋をあつめ、信頼される本文を構築し、細密な語注を施し、全巻に解説を付す。そして、現代語訳の必要な文献については可能な限り訳文も付けていく予定である。
 この事業の完成によって、ユネスコが「消滅の危機に瀕した言語」とした琉球語の表現の豊かさ・多様性が多くの人々に共有されることになるだろう。未来につながる琉球語へ永遠の生命を吹きこむ仕事になるにちがいない。
 1992年、関根賢司氏は「アンソロジー〈琉球弧の文学〉の構想」(『省察』第4号)の中で「琉球文学古典大系(あるいは全集、あるいは集成)、全一〇〇巻(あるいは全六〇巻、少なくとも三十六巻)という企画を構想しなければならない」と書いた。我々の構想の魁であることを記しておきたい。一方、氏はこれを「幻の〜」とし、その実現は「ほとんど絶望的だ」とも書いた。しかし、今、氏が負の要素として挙げた研究者の協力態勢は整い、そして編集・刊行の経済的問題も、山里勝己前学長の思想と沖縄への篤い思いに導かれて、名桜大学が本事業を地域文化への貢献事業と位置づけることによって、道が開けた。幻ではなくなったのである。10年〜12年という時間は『琉球文学大系』の完成のためにはむしろ短い。世紀の大事業の完成に向けて心して歩んで行きたいと思っている。

内閣調査室と思想の自由      編集部 M 投稿日:2021/12/15

 弊社では2020年11月より、『内閣調査室海外関係資料 「焦点」』という書籍を刊行している。「焦点」とは内閣調査室(以下、内調と略す)が1963年から1972年まで、主に社会主義圏の政治情勢について、ソ連・中国等の公開情報を元に作成した、週刊のレポートである。その質量の豊富さ、情報の正確さは、現在においても研究資料として十分に通用する。
 2020年9月、内閣は日本学術会議より推薦のあった会員候補105名中、6名の任命を拒否した。内閣はその理由を明らかにしていないが、学術会議会員の一部が、中国の軍事研究に参加していたのではないか、という「疑念」を理由と見る向きもあった。
 ところで、「焦点」を眺めていると、興味深い記事があった。それは、1964年9月7日発行の第76号に掲載された「北京科学シンポジウム終る」である(第5巻所収)。この記事は、中国が同年8月、北京で開催した国際的な学術会議に、日本からは東京大学などの国公立大学教員、気象庁などの政府機関職員、合計34名が参加した事実を述べ、日本からの報告には核物理学等、機微に触れる内容もあったことを問題視する、というものである。当時、日本は中国を承認していなかった上、中国が核兵器の開発を進めていたという状況では、内調が懸念を表明するのは無理からぬことであっただろう。これを読み筆者は、「参加した日本の科学者らは、その後、不利益を被らなかったのか?」という疑問を抱いた。
 学術会議問題が未解決のままとなった、翌2021年4月19日、同会議元会員で、気象庁元職員の97歳の男性が、会員候補6名の任命を求める6万名余の署名を内閣府に提出した、というニュースが報じられた。このニュースを読み、筆者は「焦点」の記事を思い出したため、読み返してみたところ、やはりこの97歳の男性は、1964年の北京科学シンポジウムに参加した一人であったことを確認した。
 学術会議問題について、ある識者は国家の「欲動」という比喩を用いた。しかし、政府が、中国での学術会議への参加を把握して男性について、学術会議会員に任命したこともまた事実であり、これは国家の「自制」と言えよう。
 冷戦期と現代とでは政治状況の違いは極めて大きい。その違いを差し引いたとしても、政府が学術会議の人事に容喙しなかったのは、思想の自由が極端に弾圧された戦時下を記憶している人が多かったからではないだろうか。
 現時点においても、政府が6名を任命する見込みは薄いが、「焦点」を読み込むことで、当時の国家の意思を知り、また先人の叡智を学ぶ糧としたい。

『近世日朝交流史料叢書 Ⅱ』刊行に際して      編集部 E.Y  投稿日:2021/11/25

 本書は『近世日朝交流史料叢書』の第Ⅱ巻として、文禄・慶長の役後の寛永6(1629)年、
初めて日本使節が、対馬と朝鮮の都城である漢城(現ソウル)を往復した時の貴重な記録で
ある。
 本書に収録するのは、日本側使節の正使である規伯玄方(方長老)の日記と、彼らを接待
した朝鮮側官人の記録であるが、さらに言えば、日本側の記録の方は、のちに編纂されたこ
の正使の記録「方長老上京日史」のみでなく、ほぼリアルタイムで綴られた、副使である杉
村采女智広の家人の日記「御上亰之時毎日記」(ごじょうけいのときまいにちき)も残存し
ており、これは本叢書 Ⅲに収録の予定である。あわせ、歴史事象を立体的・多方面的に研
究する好個の史料となる。

 近世の日朝交流と言えば、朝鮮通信使( 1607(慶長12)年の第1回から1811(文化8)年の
12回にわたる)、主として徳川将軍の襲封を祝賀する朝鮮からの使節が思い浮かぶ。そして
それは、日本と朝鮮の極めて平和な、「信(よしみ)を通わす」使節であったとされている。
しかし、実際はどうだったのだろう。
 朝鮮側の記録の書き手は、当代随一の名門氏族で中央政界の官僚である鄭弘溟である。
あえて「飲冰行記」(いんぴょうこうき)と名付けねばならなかったほど、胃のきりきり痛
む状況で役目の重さを認識して書かれたとされる。
 この「飲冰」という聞きなれない言葉は 『荘子』からの一節で、楚王の命を受けて斉に赴
く葉公子高が、朝方に命を受け夕方には氷を飲むほど熱が出て体調が悪化するなか、重大
な任務を受け、敵国に向かわざるを得ない追い詰められた苦しい状況を意味すると言われ
(本書吉田光男氏解説)、鄭弘溟の心をそのまま映したタイトルとされている。
 朝鮮側は、玄方一行が国王使を名乗りながらそれを証明する国書を見せないため、本当の
国王使がどうか、終始対応に苦慮する。
 日本側はどうであったか。日本使節は漢城への上京が許された後、輿の使用や従者数につ
いて朝鮮側との駆け引きを続けながらも、玄方は要求を次々と呑ませることに成功する。
玄方の一世一代の晴れの舞台は、朝鮮国王に拝謁し、文士たちと漢詩を唱和し、その才を称
賛される場面であった。実際はどうだったか。
 玄方の書いた「方長老上京日史」では、玄方は正殿(慶徳宮)の階段を上り殿舎に進み、
そこで朝鮮国王に対して四拝礼(粛拝のこと。大きくかがみこむように四拝する)を行っ
たとあるが、これは玄方のかくありたいという想像だったという。副使の家人の記録
「御上亰之時毎日記」では、正殿の扉は閉じられ、国王が出御していないのが明々白々の中、
玄方は野外の殿庭の土の上で拝礼させられたという。 
 この朝鮮国王に対する粛拝儀礼は、宗氏が朝鮮国を宗主国になぞらえた属国としての朝貢
儀式であり、宗氏が中世から行ってきたことであると言われるが、今回その儀礼さえ土の上
での拝礼という屈辱的な儀式となってしまった。
が、一方、対馬宗氏にとっての事情を勘案すると、宗氏にとっては、使節を朝鮮へ送ると
いう外交は欠かせない事業であった。特に「国書」を持参する「国王使」派遣に伴う朝鮮と
の貿易は、その金額が格段に良いといわれる。そうした背景を考えれば、玄方の恥辱もそれ
を単なる不名誉と考えてよいか否かは、歴史上のものの見方に関わり興味深い。
 幕藩体制下、中国の冊封体制とは距離を保つ日本と、中国の冊封体制下の朝鮮と、まった
く異なった体制の国家どうしが対面を傷つけずに、約270年間外交を続けることが出来た謎が
この史料の中に隠されているかもしれない。


※ 本史料集の米谷均氏及び吉田光男氏の解説並びに編著者の田代和生氏の「近世の日朝関係」
(『日本学士院紀要』第72巻特別号)を参考にさせて頂きました。

 「戦前・戦中・戦後のジェンダーとセクシュアリティ」刊行にあたって      編集部 K・T 投稿日:2021/10/26

 去年の冬、2月は某企画でほぼほぼ「カンヅメ状態」になっていた。作業の合間に
豪華客船のことをネットニュースで見ていた。3月の前半にはジュディ・ガーラン
ドの伝記映画を楽しみにしていたのだが、その頃にはコロナ禍に突入してしまっ
たので、結局映画は見ずじまいである。

この10月より、『戦前・戦中・戦後のジェンダーとセクシュアリティ』(岩見照
代・監修)が刊行される。第1回は「変容する〈性〉」で、戦前~戦後を通して
の性教育、性言説を扱った本を集成した。
このシリーズは「現代的な観点から、ジェンダーとセクシュアリティについての
戦前・戦中・戦後の著作をテーマ別に集成」し、「変容を続けるジェンダーとセ
クシュアリティの様相をとらえることを」企図している。
復刻企画ではあるけれども「「LGBTQ+」といったセクシュアリティの多様性の
中で、性自認の再構築が求められている」(監修のことば)、という現代への問
いかけなのである。

なぜ、マクラに映画の話をしたのかというと、LGBTの象徴にレインボーフラッグ
が用いられるのは、ジュディの「虹の彼方に」(” Over the Rainbow")が由来
だからだ。生前の彼女はセクシャル・マイノリティに理解を示していたので、同
性愛のコミュニティに人気があったため、だという。だがジュディ本人も、父親
は同性愛者であり、支配的な母親の元、子役の頃から人気を得るために、ショウ
ビズのダークサイドに向き合わされ続けた。娘ライザ・ミネリの「母はハリウッ
ドに殺された」の発言の通りなのだ。『ジュディ・ガーランド・ショウ』の彼女
は40代半ばのはずだが、60代半ばにしか見えないほどやつれている。

企画の制作にあたっては、まず、シリーズ『近代日本のセクシュアリティ』
(2006~2009)を見返すことから始めた。既に10年以上が経過しているので、
「一昔前」のことである。旧企画の観点がやや古くなっていることに(復刻版で
あるのに)、やや驚かされた。この10年で世界でも日本でも、LGBTを取り巻く状
況は劇的に変化したということなのだろう。確かに話題としても日々耳目を集め
ており、そういう点ではもはや「マイノリティ」とは言えないかもしれない。

新企画『戦前・戦中・戦後のジェンダーとセクシュアリティ』が、刻々と変容を
続けるセクシュアリティの様相をとらえ、現代の性の急激な変貌を考えていくた
めの一助となることを願ってやまない。

藤井厚二 旅と住まいと――藤井厚二建築著作集によせて      編集部 K・Y  投稿日:2021/08/18 NEW!

我が家の近くにあった古いアパートがこの夏、解体された。何十年か振りに更地となったその場所は、おそらくもとは畑であったのだろう、ここ数日に降りつづいた大粒の雨をたっぷりと受けて昔の記憶を取り戻したのか、あっというまにさまざまな植物が芽吹き、そのうち葉をのびのびと広げたかと思うと、今ではほっこりと掘り起こされた土も見えなくなった。一面の緑がゆらり、ゆらり、涼しげに揺れている。停滞しきっている人の世のことなんぞどこ吹く風といった風情に、静かに、圧倒される。

建築は、「作品」と言われる一方で、気づかぬうちに解体され、やがては人の記憶からも消えてなくなるものも多い。はたして人と建築は縁が濃いのか薄いのか。
そのことを思えば、「聴竹居」は幸せものである。自身の実験住宅として「聴竹居」を手がけた藤井厚二は、大正10(1921)年に最初の著作となる『住宅に就いて』を私家版として、世に送り出した。「私は永い以前から吾々の住宅をもっともっと愉快な便利な而して楽しいものにしたいと思ってをりました。」という一文ではじまるこのささやかな冊子は、その瀟洒な住まいとともに多くの共鳴者や協力者を得て、その手で守られ、今に伝えられている。

「藤井厚二建築著作集」は昨年11月に配本をスタートし、今月末にはその第2回配本の運びとなる。第1回・第2回のいずれもコロナ禍での製作進行となった。じつは先の『住宅に就いて』に先立つ大正8(1919)年11月から翌9(1920)年8月にかけて、藤井厚二はヨーロッパ・アメリカへ視察旅行に出かけているのだが、それは今からほぼ100年前のスペイン風邪流行のころに重なっている。その旅で藤井がほぼ毎日付けていた日記を、第2回配本では『藤井厚二欧米視察日記』として収録し、さらにはかの地で藤井自身が撮影した写真や、家族に宛てて書いた絵葉書などを「藤井厚二欧米視察関係資料」として刊行する(「藤井厚二建築著作集・補巻全2巻」 藤井厚二建築著作集・第3回配本として2021年10月刊行予定)。
偶然とはいえ、おそらくこの時だからこそ汲み取れるものもあるのではないだろうか。これも歴史の面白さである。

マッチ一本火事の元、マッチ一折……?      編集 T・T・M 投稿日:2021/07/16

 『近代機密費史料集成』というタイトルには、読者をして想像(あるいは妄想)を逞しくさせるものがありそうです。政界の裏面で秘密裡に動く大金、張り巡らされた策略と仕掛けられた陥穽、それらを陰から操る真の実力者……。
こうしたイメージで頭が一杯になっていると、今月刊行の『内閣機密費編』に収録された某通信社の領収証を目にして、巷間まことしやかに囁かれる「○○」陰謀論の証拠をつかんだと早合点しかねないかもしれません(?) 実際には、これは多数の通信社に毎月支払われている「通信料」の領収証のひとつに過ぎず、単なるニュース配信などの料金の支払を示すものであろう、という以上の意味は見出しがたいのですが。
 他方で、本書には新聞社や通信社の関係者への支出が内閣機密費から行われていた実態が金額と個人名付きで記録されています。これらは確かにメディア工作の一環だったのでしょう。また、衆院総選挙前に行われた原敬内相への5万円の交付(しかも、そのうち3万円は外務省機密費からの違法な流用)は選挙資金として使用されたと推測され、これも赤裸々な政治工作の痕跡といえるかもしれません。
 ――などと知った風に書いてきてしまいましたが、以上は本書の監修・編集・解説者である小山俊樹先生の解題を参照しながら自分なりにまとめてみたものに過ぎません。というのも、全くの門外漢である私(近代でなく古代、日本でなくローマ、歴史でなく文学を専門としています)には、何を隠そう、問題の原敬による領収証の崩し字も読めないのですから。
 一次史料は、それを扱う訓練を何ら受けていない私にとって、木を見て森を見ぬこと、あるいは逆に虚妄の森を幻視してしまうことへの恐れと不可分のものです。実際、明らかなプロパガンダである一次史料から歴史の「隠された真実」が発見されてしまうような現場を、インターネットは日々リアルタイムで見せつけてくれます。そこまでではなくとも、一次史料のナマの迫力には、ときに読む者の遠近感を狂わせるものがあるのではないでしょうか。
 本書の中では、首相官邸の日常経費を記録した「諸買上品仕払控簿」(第3巻収録)がまさにそのようなものだと感じます。冒頭、明治44年9月の支出の内訳からは、「マッチ一折」を3銭で購入したことや、「電話口消毒」で「東商會」に30銭を支払ったことが分かります。これらはそれ自体で確かに貴重な記録かもしれませんが、しかし前述した内相への5万円のような事実を捨て置いて、こうしたトリヴィアルな部分のみに耽溺するサブカル的?オタク的?態度は、偽史的あるいは歴史修正主義的態度と紙一重だとすら感じるのもまた事実です。
 ――などと(また)知った風なことを書いてしまいましたが、私もどちらかというと細部に拘るオタク気質の持ち主であることは否定し得ないわけで……内閣発足当初に電話口消毒を行っているのを見て、最初は「桂太郎の口をそんなにばっちいと思っていたのか?」などと考えてしまいました。しかし翌月以降をよく見てみると、電話口消毒料とは明記されていないものの、同じ「東商會」(月によっては「東商社」と書かれている)に30銭ずつが支払われ続けていることが分かります。どうやら、主の交代に際して特別に消毒が行われたわけではないようです。よかった。(なお、1929年から31年にかけての『官報』に「東商會」が「電話口消毒器及消毒薬」の広告を出していることが、国立国会図書館デジタルコレクションで確認できました。これは同一の会社なのでしょうか?)
 こうやって調べていくうちに、この電話口消毒30銭という細部から、もっと大きな問いに向かうことも可能ではないかと思えてきました。新しい機器にまつわる衛生の感覚、そしてそれに対応した産業の発達。では、マッチ一折3銭はどうでしょうか。マッチが(今日と異なり)生活必需品であったことは分かりますが、うーん、それ以上はさすがに厳しい? いずれにせよ、マッチ一本火事の元、ましてマッチ一折あれば、薄暗がりの中にある歴史の襞を丹念に照らしていくことも、偽史の炎に巻かれて火だるまになることもできそうだと感じた次第です。

『唐長安 大明宮』の校了にさいして思うこと        編集 K・Y 投稿日:2021/05/14

 本書の著者である楊鴻勛先生(1931-2016)は、世界的に著名な中国建築史・
建築考古学の大家として知られる方で、建築史学・建築理論を基礎としたその主要な成果は、
中国の造園理論を追求した中国園林史(庭園史)と、歴代王朝の宮殿建築を対象とする
建築考古学に代表されます。著者の経歴については向井佑介先生による「監訳後記」に
詳しいのでそちらをご覧いただきたいのですが、生前に出版された著作としては本書が
最後になりました。
 担当が決まった当初は400ページ近くもある中国建築考古学の本だということしか分からず、
取り付く島がない…ように思われました。ですが、時間をかけて翻訳原稿に向き合い、
今ようやく校了を迎えて思うことは、とにかく単著とは思えないスケールを持つ研究書で
あるとの一言に尽きます。

 素人ながら印象に残ったのは、裏付けとして提示される同時代の資料の豊富さです。
それには二つの意味があり、一つは歴史書(文字や画像)や碑文などに加え、
絵画や敦煌莫高窟などの石窟壁画、唐三彩馬俑を始めとするいわゆる美術品、漢詩など、
様々な分野の作品や文化財が挙げられていること。そしてもう一つは、それらは全て
その当時の人々の手で丁寧に記録され、描かれたものであり、後世の人の手で今日まで
守り伝えられてきたという歴史の厚みのようなものです。
 翻訳原稿を通して感じた限りですが、書き遺された一つひとつの資料と真摯に
向き合う著者の姿が想像されて、そのまなざしには、「科学研究は常に段階的なものである」
(上巻「序」)との言のとおり、自身も歴史的存在であるという謙虚さに溢れています。

 専門の研究者の方にはもちろんですが、精緻で堅実な歴史考証に裏付けられた美しい
建築復元図はぜひ多くの方に御覧いただきたいと思います。