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近代日本アート・カタログ・コレクション 第1期 全82巻

近代日本アート・カタログ・コレクション 第1期 全82巻

[監修] 青木茂 [編纂] 東京文化財研究所

揃定価1,337,600円(揃本体1,216,000円) 
ISBN 978-4-8433-0284-2 C3371
刊行年月 2004年10月

関連情報

本書の内容

◎明治初期から戦前まで、全国に散逸した美術展資料を集成。 近代日本美術研究に不可欠の資料、展覧会関係文献を復刻集成。

本企画は、明治初年から第二次世界大戦前までに開催された美術展のカタログを集成するものです。アート・カタログには、作品目録・図版・関係論文・作品解説・年譜などが含まれており、これらは美術研究に欠かせない資料といえます。しかし、会期中に会場で販売され、書店などの通常の流通経路にのらないため、図書館・研究機関などでの所蔵が極めて少ないのが現状です。本企画は公共機関・私立の団体・個人等の所蔵者のご厚意のもとに復刻集成の運びとなったものです。
関東大震災や第二次世界大戦の災禍により失われた美術作品や、海外に流出した日本の美術品を辿ることが出来るほか、新たに発掘された作品を固定する材料でもあります。何を創り、集め、どう評価したか、また美術が社会にどのように受け容れられてきたかという視点は、個々の作品・作家からだけでは得られません。開化以来西洋文化の強い影響をうけた日本文化が、伝統の上に近代化されていく過程を探求することが出来る、もっとも基礎的な資料です。

★特 色
●団体・テーマごとに、気鋭の研究者による解説を付す。
●災禍で失われたものや海外に流出したものにあたることが出来ます。
●展覧会会場での限定版売のみのものが多いため、所蔵機関も極めて少なく、これまで閲覧が非常に困難であったものばかりです。

★特にお薦めしたい方
美学・美術史・芸術学・文化史などの研究者・研究室。大学図書館。美術館。公共図書館。アートマネージメント関係者、美術館学芸員、キューレター、ギャラリー経営者など。

近代日本アート・カタログ・コレクション 第1回配本 内国絵画共進会/観古美術会/明治美術会/太平洋画会 全12巻

刊行年月 2001年05月 揃定価184,800円 (揃本体168,000円) ISBN978-4-8433-0285-9 C3371
A5判上製/函入

■内国絵画共進会
 明治政府は、明治六年のウィーンの万国博に参加し成功を納めた。この経験から、産業政策の一環として、伝統美術の振興を奨励することになる。『内国絵画共進会』は、明治維新以降、衰退した日本美術を振興するために創設された官催の日本画展である。太政官令第十三号により、明治十五年(十月一日より十一月二十日まで)と、明治十七年(四月十一日より五月三十日まで)の二回、農商務省を中心に東京上野公園に於いて開催された。十五年のフェノロサの講演(『美術真説』)をもって洋画の出品拒否を決定した文字通り国画のための展覧会であった。
 『内国絵画共進会』は、絵画だけの共進会という初めての場で、伝統的日本画の復活をめざしたこと、そして、各地に孤立分散していた各流派の相互交流によって新しい段階を迎える起動力となったことに意義がある。

■観古美術会・・・一部品切れ
 『観古美術会』は、内務省博物局により開催された。博覧会事業と、それに絡む欧米でのジャボニズムの購入力をあてこんだ輸出を前提とした古器物保獲および殖産興業政策の一環であった。しかし、明治十三年に第一回展が開かれたその翌年、十四年の第二回展から明治十九年の第七回展(最終回)までは、この官設の美術展は、日本で最初の私設の美術団体である”龍池会”に継承されることになった。
 ”龍池会”は、芸術思潮を標榜し作家を中心に組織される現在の美術団体とはだいぶ性格が異なる。結成メンバーは、大蔵省、内務省の官僚らが中心となり、輸出業者・起立工商会社がこれに加わるかたちで編成され、ことに、龍池会の中心であった会頭の佐野常民は、大蔵卿で、殖産興業政策の中で重要な位置を占めた内外博覧会事業の最大の大立役者であった。『観古美術会』展の継承はパリでの日本美術縦覧会の開催等、”龍池会”の活動の拡大発展に大きく貢献することになった。私設とはいいながら、国家の経済を賭けた政治性の強いその活動は、十九世紀末の日本とヨーロッパの美術産業事情を映し出す鏡といえよう。

■明治美術会・・・オンデマンド
 『明治美術会』は、明治二十二年に結成された日本最初の洋画家団体である。会頭に、東京大学総長渡辺洪基(のち枢密顧問官田中不二麿、宮内次官花房義質が継ぐ)をむかえ、浅井忠、山本芳翠ら美術家=通常会員と、外山正一、林忠正、田中芳男らの賛助会員で構成された。第一回展を同年十月、東京上野公園池の端競馬場の馬貝処で開催した。この展覧会は、森鴎外などの本格的な美術評論を誘発した展覧会として記憶されている。『明治美術会』の一回展は秋に開かれ、以後は毎年春に開かれるのが慣例となり(第六・七回は秋)、二十九年は開けなかったが、三十三年の十一回展まで続けられた。また第一回展からの各国、各時代にわたる参考品の陳列は、その後の各団体展にあまり見ないところであり、毎年入場者を啓発するものであったらしい。

■太平洋画会・・・オンデマンド
 『太平洋画会カタログ』(画報社 明治三十五年十月)編者叙言の冒頭は、
 我太平洋画会は明治美術会の後身也。人も知る如く明治美術会は、一時非常の盛況に達して、雄然斯界の覇を称せしに、近年種々の情実を生じて、其曲折に堪へず、会運一蹶、復た振ふ能はざるに至りぬ。会員の一部此に慨するあり、昨年の秋、根本的改革案を提出して、会の容るる所となりしを以て、先づ会名を改めて、従来の積弊を一洗し、奮て会務の伸張を図らんとす、我太平洋画会即ち是れ也。
とある。もちろん会頭などのいない年齢も若い三十名の作家のみによる美術団体である。構成は旧通常会員から石川寅治・都鳥英喜・吉田博・丸山健作(晩霞)・満谷国四郎・新海竹太郎ら十五名、旧準通常会員から石井満吉(拍亭)・大下藤次郎・中川八郎・長尾黙・庄野宗之助ら十名、まだ会員ではなかった磯部忠一・高村真夫・藤島英輔ら五名であった。第一回展を上野公園第五号館において開催、明治三十七年、谷中清水町に洋画研究所を開設し、翌年研究所を谷中真島町に移し後進の育成に努めたが昭和四年同研究所を太平洋美術学校と改め、初代校長に中村不折氏を推し、官立美術学校と対抗して名実共に在野における唯一の存在として幾多の英才、鬼才をわが洋画壇に送り大いに活躍した。
 大正十五年五月、東京都美術館が創立、同館記念聖徳太子奉賛美術展開催、本会より中村不折氏他多数が出展する。この年は竹ノ台陳列館にて第二十二回展。昭和二年二月第二十三回展を東京都美術館にて開催。以来休むことなく同館にて開催を続け今日に至っている。

近代日本アート・カタログ・コレクション 第2回配本 白馬会/日本美術協会 全13巻

刊行年月 2001年11月 揃定価246,400円 (揃本体224,000円) ISBN978-4-8433-0435-8 C3371
A5判上製/函入

■白馬会・・・品切れ
 ………主義は自由平等なり(中略)形にのみやかましきは我々の執らざる所なれば、此会には規則もなし役員もなし(明治29年5月27日「毎日新聞」より)。
 白馬会は明治29年に発足した。発会の話は、5月に山本芳翠、小山正太郎、黒田清輝、久米桂一郎の間で起こり、同6月の神泉亭の会合には森鴎外、高山樗牛、大橋新太郎のほか明治美術会の主要な会員であった松岡寿、長沼守敬らの姿があった、という。黒田、久米、岩村透らの帰朝者を中心としたこの会は、自由で平等な気の置けない会という本人たちの意識とは別に、モティーフや色調などに新風をもたらし、展覧会の会場設営に新機軸を打ち出し、美術家だけによる自由で平等な団体をかたちとして示すなど、当時の画壇に新しい「美術」概念をもたらした。また、美術を社会の中で認知させ、また美術家・芸術家は社会通念から自由に自立して自己表現をするものである、という芸術家像を創り出すなど、白馬会の意義は美術の枠にとどまるものではなかった。

■日本美術協会・・・一部品切れ
 日本美術協会は、現在に至るまで若い芸術家、美術工芸家の支援育成を中心に活動を続けている美術団体である。明治20年、有栖川宮熾仁<たるひと>親王を総裁として、その前身である龍池会(本コレクション005~007「観古美術会」解説参照)から日本美術協会と改名。明治政府の勧業政策を後押しすべく発足した半官半民の組織であった。
 「日本美術協会規則」の第一条に「本会ハ広ク優逸ナル新古美術工芸品ヲ採集陳列シテ公衆ノ観覧ニ供シ、以テ美術ノ進歩ヲ促ス目的トス」とあり、美術展覧会が協会の重要な活動であったことがわかる。立派な古美術を示して当時の作家たちにその技を磨かせるという目的のもと、新製品と古製品とを比較対照し、あわせて新製品の優秀なものに褒賞を与えていた。そのスポンサーが農商務省であったが、明治24年から宮内庁の助成金が毎年下賜されるようになると事業が拡大し、年2回の展覧会のほかに、青年美術家と美術工芸家の育成事業などを強化している。

近代日本アート・カタログ・コレクション 第3回配本 无声会/烏合会/光風会/フュウザン会/草土社 全10巻

刊行年月 2002年05月 揃定価132,000円 (揃本体120,000円) ISBN978-4-8433-0555-3 C3371
A5判上製/函入

■无声会(むせいかい)
美術団体。明治33年(1900)1月創立。自然主義を標榜し、結城明の主唱により集まった平福百穂、福井江亭、島崎柳塢、石井柏亭、大森敬堂、渡辺香涯の7名で結成された。柏亭を除く6名は川端玉章門下であったが、洋画風を大胆に取り入れた作風を実験し、同年3月上野公園五号館で第一回展を開催、大正2年(1913)まで続く。小杉放庵、森田恒友、杉浦非水、川端龍子、橋口五葉、名取春仙らも参加。同会解散後、百穂、龍子、春仙に小川芋銭、小川千甕、山村耕花らを加えて珊瑚会が結成され、4年第一回展を開催、第10回展まで続いた。

■烏合会(うごうかい)
美術団体。江戸文化を好み、浮世絵の伝統を生かした新しい風俗画を目指して明治34年(1901)創立される。会員は鏑木清方、都筑真琴、山中古洞、鰭崎英朋、大野静方、河合英忠、高田鶴仙、福永耕実の8名、のち山村耕花、池田輝方、竹田敬方、吉川霊華らが参加する。34年6月、日本橋上槙町八重洲館で発会式をおこない、第一回展を開催。同年9月日本橋万町の常盤木倶楽部で第二回展を開催し、以後45年まで毎年展覧会をおこなった。

■光風会
美術団体。明治45年(1912)、前年解散した白馬会の会員であった中沢弘光、山本森之助、三宅克己、杉浦非水、岡野栄、小林鐘吉、跡見泰の七名によって発起され、同年6月第一回展を上野竹之台陳列館で開催。創立会員7人は黒田清輝の弟子で、その後も小林萬吾、南薫造、辻永など白馬会系の画家たちが会員となった。外光派風の穏健な作風が主流を占める。絵画部、工芸部があり毎年春に公募展をおこなう。

■フュウザン会
洋画団体。大正元年(1912)結成。斎藤与里、岸田劉生、清宮彬の発起で組織され、大正元年10月銀座読売新聞社楼上で第一回展をヒュウザン会と称し開催。太平洋画会の青年グループ、葵橋洋画研究所のグループを中心に、アブサント会同人らが中心をなし、後期印象派やフォーヴィスムの影響を受けた青年画家を中心に168点が出品され、おもな出品者には、与里、劉生をはじめ萬鉄五郎、高村光太郎、木村荘八、小島善太郎らがいた。同年雑誌『ヒュウザン』を創刊する。翌年3月第二回展をフュウザン会展として開催したが、斎藤、岸田の間で主張が分れ、5月に解散、雑誌『フュウザン』も第四号で廃刊した。同年、高村、劉生、木村、岡本帰一の4人はヴィーナス倶楽部で生活社展覧会を開催、これが草土社の前身となった。

■草土社
フュウザン会を引き継ぐ洋画団体。大正4年(1915)岸田劉生を中心とする現代の美術社主催第一回美術展覧会(銀座、読売新聞社)が開催され、これが草土社の第一回展となった。同展の同人は劉生の他、中川一政、河野通勢、木村荘八、椿貞雄ら11名。会名は、劉生が代々木の道を歩きながら、道ばたの草を見て思いついたという。5、6年には春秋二回展覧会を開催し、第二回展からは劉生を中心とした同人と社友だけの展覧会としての性格を持ち、四回展で劉生の作品に代表される草土社風の作風がほぼ確立された。7年以後毎年一回展覧会を開催し、大正11年第九回展に至ったが、同人の間に劉生を離れて自己の道を歩みだす者も出て、九回展を最後に自然解消した。会の主要な作家は、のち春陽会創立に参加した。

近代日本アート・カタログ・コレクション 第4回配本 二科会/春陽会 全16巻

刊行年月 2002年11月 揃定価255,200円 (揃本体232,000円) ISBN978-4-8433-0746-5 C3371
A5・B5判上製/函入

■二科会・・・一部品切れ
大正3(1914)年創立の美術団体。文部省美術展覧会第二部(洋画部門)を、第一部(日本画)と同じように新旧二科に分ける運動が、大正3年に起こったが、当局に受け入れられず、在野団体として設立された。同年10月第一回展を開催。石井柏亭、津田清楓、梅原龍三郎、山下新太郎、小杉未醒、有島生馬、斉藤豊作、坂本繁二郎、湯浅一郎、安井曽太郎、森田恒友、政宗得三郎、熊谷守一、中川紀元、小出樽重、黒田重太郎、古賀春江、児島善三郎、里見勝蔵、東郷青児、国吉康雄、藤田嗣治、北川民次らが参加し、新傾向作家を擁する代表的美術団体として活動した。
 しかし、会員の出入りが多く、昭和5(1930)年の独立美術協会、昭和11(1936)年の一水会、昭和13(1938年)の九室会、昭和20(1945)年の行動美術協会、昭和20(1947)年の第二紀会(後に、二紀会と改称)、昭和30(1955)年の一陽会などが分離独立することになる。
 大正8(1919)年に彫刻部、昭和20(1945)年に工芸部・理論部、昭和26(1951)年に漫画部・商業美術部、昭和28(1953)年に写真部を新設し活動範囲を拡大。現在は、絵画部・彫刻部・商業美術部・写真部の四部からなり、毎年秋に公募展を開催している。

■春陽会
大正11(1922)年創設の美術団体。日本美術院洋画部を退会した小杉放庵、森田恒友、山本鼎らが、梅原龍三郎、岸田劉生、木村荘八、中川一政、さらに石井鶴三、萬鉄五郎らを迎えて結成された。翌年5月、第一回展を上野公園竹之台陳列館で開催。のち、斉藤与里、山脇信徳、小山敬三、林倭衛、長谷川潔、鳥海清児、岡鹿之助らも加わった。昭和3(1928)年の第6回展からは、山本鼎が日本創作版画協会の設立に関わったことから版画室を設置し、長谷川潔を会員に迎えた。昭和4(1929)年には、春陽会洋画研究所を開設、全国各地で夏季洋画講習会を開催し、機関誌『イーゼル』を発行するなど後進の育成にあたった。研究所は昭和12(1937)年に閉鎖するが、昭和18(1943)年に春陽会教場を発足して活動を再開した。
 二科会に次ぐ歴史を持つ団体であり、現在は絵画部・版画部の二部制をとり、毎年春に公募展を開催している。

近代日本アート・カタログ・コレクション 第5回配本 白日会/国民美術協会 全5巻

刊行年月 2003年05月 揃定価84,700円 (揃本体77,000円) ISBN978-4-8433-0973-5 C3371
A5判上製/函入

■白日会
光風会の主導者であった中沢弘光と、フランスのサロン・ド・トンヌに入選を果たすなどしていた川島理一郎が中心となり発足。創設メンバーは、光風会・太平洋画・二科会・日本美術院系などの作家たちであり、一会派に偏らない、所属団体以外での研究発表の場となった。設立の年に第1回展を開催(三越呉服店・日本橋)、第2回展から一般公募の規定を設け東京府美術館にて毎年開催、合わせて小品展や、昭和7年には朝鮮総督府教育会後援で白日会朝鮮展覧会(京城府)を開催するなどしている。終戦の翌年には復活第1回展を呼びかけ第22回展を開催し、戦後は伊藤清永を中心に発展した。会は絵画部と彫刻部から成り、毎年公募展を開催して現在に至っている。

■国民美術協会
明治44年の白馬会解散後、「美術家共通の利害問題を処理すべき一大機関」とするべく、フランスのソシエテ・ナショナル・デ・ボザールに倣い、松岡壽・小山正太郎・黒田清輝(初代会頭)・岩村透らを中心として大正2年3月に創立。洋画部のほかに、彫塑・建築・装飾美術・日本画・学芸部が順次組織された。国民美術協会展の開催とは別に、「仏蘭西現代美術展覧会」や松方幸次郎のコレクション展(「松方氏蒐集 欧洲綴織及絵画展覧会」)等を主催し、さらに大典記念美術館建設を東京府に建議、また帝展への工芸部門新設を積極的に働きかけるなどした(大正14年に東京府美術館着工、昭和2年に帝展第四部工芸が開設)。大正12年12月には、機関紙『国民美術』(『美術月報』の改称)を創刊した。

近代日本アート・カタログ・コレクション 第6回配本 国民美術協会主催展/国画創作協会/国画会/日本自由画壇 全11巻

刊行年月 2003年11月 揃定価200,200円 (揃本体182,000円) ISBN978-4-8433-1036-6 C3371
A5判/上製/函入

■国民美術協会(こくみんびじゅつきょうかい)
国民美術協会は大正2年の西部第1回展から同10年まで毎年展覧会を開催した。第3回以降は会員による出品公募展に加え、特別陳列が企画された。また外国美術展として「仏蘭西現代美術展覧会」「独逸現代美術展覧会」やエミール・ベルナールの個展等を主催した。松方正義による絵画やタペストリーのコレクション展も開催された。

■国画創作協会(こくがそうさくきょうかい)
文展の曖昧な審査基準等への不満から、京都市立絵画専門学校の同窓生で若手の小野竹喬・土田麦僊・村上華岳・野長瀬晩花・榊原紫峰の5名により、大正7年(1918)に結成。「国画創作協会宣言書並ニ規約」を発表、鑑査顧問に竹内栖鳳と中井宗太郎を迎え第1回展を京都と東京で開催、その折に入選した入江波光が同人となる。大正15年に梅原龍三郎・川島理一郎、昭和2年に富本憲吉・金子九平次を迎え、それぞれ第2部(洋画)と、工芸部・彫刻部を新設。しかし文展に代わる帝展の創設や協会組織の運営上の問題等により、母体の第1部(日本画)が昭和3年(1928)に解散した。

■国画会(こくがかい)
国画創作協会の第1部(日本画)解散後、第2部(洋画)と彫刻部・工芸部は国画会と改称して活動を継続し昭和4年(1929)に最初の公募展を開催、第2部併設以来の回数を追い国画会第4回展とした。その際に高村光太郎・椿貞雄・浜田庄司・バーナード・リーチらが会員として参加した。昭和6年には平塚運一を中心として版画部、同14年には野島康三・福原信三により写真部を新設した。同年彫刻部全員が退会するが、戦後38年にS・A・S(彫刻家集団)の全委員が合流して再開された。現在も絵画・版画・彫刻・工芸・写真の5部門を擁して、毎年春に公募展を開催している。

■日本自由画壇(にほんじゆうがだん)
大正8年(1919)11月、厳選な審査が問題となった帝展第1回展開催を契機に、南画家の池田桂仙が中心となって京都在住の画家16名(井口華秋・伊藤小坡・猪飼嘯谷・上田萬秋・植中直斎・小村大雲・水田竹圃・庄田鶴友・加藤英舟・林文塘・西井敬岳・渡辺公観・高山春凌・玉舎春輝・広田百豊)により結成された。「芸術ニ於ケルト同ジク凡テノ行動ニ何等拘束ヲ受クル処ナク」発表することを目的とし、翌9年の第1回展を京都・東京で開催、以降毎年開催するとともに臨時に試作展を開き、公募鑑査のうえ陳列した。昭和17年(1942)まで存続した。

近代日本アート・カタログ・コレクション 第7回配本 日本南画院、自由美術家協会/美術創作家協会 全6巻

刊行年月 2004年05月 揃定価115,500円 (揃本体105,000円) ISBN978-4-8433-1201-8 C3371
A5判/上製/函入

■日本南画院(にほんなんがいん)
京都南画界の青年画家研究団体として水田竹圃・河野秋邨・三井飯山らにより、田近竹邨・山田介堂・池田桂仙の三元老を迎え、富岡鉄斎・長尾雨山・内藤湖南を顧問として、大正10年(1921)3月に結成される。まもなく矢野橋村(大阪)・小室翠雲(東京)も参加し、東京・京都・大阪の南画界の提携が成った。「形式格式に拘束されざる真の南画的芸術精神に立脚したる作品」を理想とし、毎年1回展覧会を開催することとした。同年10月に第1回展を京都で開催して以降、昭和11年(1936)の第15回展まで継続したが、同年9月新文展参加問題について分裂、解散を決定した。昭和35年再興、現在に至る。

■自由美術家協会/美術創作家協会(じゆうびじゅつかきょうかい/びじゅつそうさくかきょうかい)
昭和12年(1937)2月、長谷川三郎・浜口陽三・大津田正豊・津田正周・村井正誠・荒井龍男・瑛九、国画会会友を辞した矢橋六郎・山口薫を会員とし「純粋にして積極的なる美術家の大同団結により、各人の芸術の自由なる発展と時代の芸術精神の振興とを期す」ことを掲げ自由美術家協会を創立。第1回展を同年7月に日本美術協会で開催した。昭和15年、戦時色の深まりの中で自由の名が不適当とされ、美術創作家協会と改称、難波田龍起・小野里利信・森芳雄・中村眞等が加わった。戦後旧名に復して、昭和21年に第9回展を開く。昭和25年に抽象系の作家が退会してモダンアート協会を創立、39年麻生三郎ら十数名が退会するに伴い、自由美術協会と改称した。

近代日本アート・カタログ・コレクション 第8回配本 槐樹社、1930年協会/独立美術協会/一水会/美術文化協会 全9巻

刊行年月 2004年10月 揃定価118,800円 (揃本体108,000円) ISBN978-4-8433-1553-8 C3371
A5判・B5判/上製/函入

■槐樹社(かいじゅしゃ)
大正13年(1924)、斉藤与里・田辺至・吉村芳松・油谷達・金井文彦・高間惣七・熊岡美彦・金沢重治・牧野虎雄・大久保作次郎・奥瀬英三ら、帝展で活躍していた若手作家によって結成された。昭和6年(1931)12月に解散するまで毎年公募展を開催し、機関誌『美術新論』(斉藤与里主幹)を発行するなど、帝展の衛星的な存在として洋画界に大きな足跡を残した。昭和33年、堀田清治が同志をつのり新槐樹社として再興、現在にいたる。

■1930年協会(せんきゅうひゃくさんじゅうねんきょうかい)
ミレー、コロー、ドーミエらの1830年派にならい、大正15年(1926)に在仏中親交のあった前田寛治、佐伯祐三、里見勝蔵に、木下孝則と小島善太郎の5名で組織された。同年に京橋区北槇町日米信託ビル階上で第1回展を開催、フォービスムの作風を基調とし、第5回展まで開催。昭和5年(1930)の独立美術協会が創立すると、会員の大半が同会に加わり解散した。

■独立美術協会(どくりつびじゅつきょうかい)
昭和5年(1930)11月に二科会を脱退した里見勝蔵、児島善三郎、林重義、林武、川口軌外、小島善太郎、中山巍、鈴木亜夫、鈴木保徳に、三岸好太郎(春陽会)、高畠達四郎(国画会)ほか伊藤廉、福沢一郎、清水登之が参加し結成。様々な画風の作家があつまるが、一般的には「日本的フォービスム」を基調とする印象をあたえた。創立の翌年1月には東京都美術館で第1回展を開催。二科会とともに在野の有力団体として、現在も活動を継続している。

■一水会(いっすいかい)
帝国美術院会員となり二科会を退会した、石井柏亭、山下新太郎、有島生馬、安井曽太郎、および硲伊之助、小山敬三、木下孝則、木下義謙の8名により、昭和11年(1936)12月に創立。のちに安宅乕雄、池部鈞、高野二三男、田崎廣助、中村善策、彫刻の藤川勇造が加わった。「会場芸術を非とし、技術を重んじ、高雅なる芸術を尊重すること」を提唱し、12年12月に第1回展を東京府美術館にて開催する。第7回展をもって戦争激化のため中断するが、戦後は昭和21年に第8回展を開催し活動を再開、現在にいたる。

■美術文化協会(びじゅつぶんかきょうかい)
昭和14年(1939)5月、「正しい美術文化の在り方を構想し、具現すること」を目的として、独立美術協会を退会した福沢一郎を中心に、麻生三郎、古沢岩美、糸園和三郎、小牧源太郎、寺田政明、吉井忠ら、独立や二科会の前衛傾向の作家41名により結成。同年8月に機関誌「美術文化」を創刊、翌昭和15年4月には第1回展を東京府美術館にて開催した。戦争の激化と文化統制のため弾圧を受け、昭和19年の第5回展で活動を中断する。戦後は昭和21年に第6回展をもって活動を再開、現在にいたる。