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新聞における美術批評の変遷

新聞における美術批評の変遷
(朝日新聞調査研究室報告)

[著] 竹田道太郎 [解説] 山盛英司

定価16,500円(本体15,000円) 
ISBN 978-4-8433-3477-5 C3070
B5判/上製/クロス装/函入
刊行年月 2010年11月

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本書の内容

朝日新聞に掲載された明治から昭和前期までの美術記事およそ六十年分を丹念に調査追跡。日本の美術批評を検証する上で不可欠の基本文献。

※「美術手帖」2011年2月号に書評が掲載されました。

 朝日新聞社の美術記者として活躍した竹田道太郎が、同社調査研究室在籍時、主に東京朝日新聞に掲載された明治から昭和10年前後までの美術記事を丹念に追った内部報告書「新聞における美術批評の変遷」(朝日新聞調査研究室報告 社内用52 1955年)を、要旨(朝日新聞調査研究室報告要旨53-2 1953年)と併せて復刻。
 既成の書物からではなく、当時の新聞に直接目を通した実証的な記述の重みは圧倒的である。新聞という当時最も大きなメディア上での言説が及ぼした影響や、美術批評の形式化など、今日まで続く日本の美術批評を研究するためには欠くことのできない基本文献である。

[解説] 
山盛英司 朝日新聞東京本社文化グループ・文化担当エディター
(※本データはこの書籍の刊行時のものです)

『新聞における美術批評の変遷』復刻の意義    美術評論家・女子美術大学教授 北澤憲昭

 朝日、読売、毎日という三大紙の美術評が公募団体展を取り上げなくなって、かれこれ20年ほどの年月がたつ。各紙がこうした構えを鮮明に打ち出したとき、ぼくは、即座に疑問を呈した。新聞というメディアが一般社会と相渉るものである以上、公募団体を無視するべきではないと主張したのである。公募団体というのは、いってみれば美術における結社のようなもので、俳句や短歌のそれと同じく作者と鑑賞者がなだらかにつながり合う場であり、そのような在り方こそ、日本の芸術の重要な特質であると考えたからだ。
 むろん、その当時、美術活動は多様化し拡張しつつ、その主軸は、学芸員によって主導される美術館へと移っていた。他方、公募団体の多くは、その創立理念を磨耗させ、美術界をリードする役割を終えつつあった。公募団体の作品を評し、団体の動向を報道することに、どれほどの価値があるか、それについて批判的に考え直すべき時期に来ていたことはたしかである。だから、公募展からの撤退がひとつの見識であったことを認めるのに、ぼくは決してやぶさかではない。
 しかしながら、美術というのは、いうまでもなくひとつの社会的存在であって、作者と作品だけで完結するものではない。そこに観衆がいなければ、美術は成り立ちえない。公募団体にせよ、美術館にせよ、作者や作品を観衆へと媒介するための社会的装置として成り立ってきたのであり、新聞もまた、そのような役割を担ってきたのである。観衆のなかにはコレクターも含まれ、美術と経済をつないでいる。作者も、プロフェッショナルな存在ばかりではない。あまたの日曜画家たちが存在し、結社としての公募団体においてプロ集団たる画壇とつながっているのである。美術界は、一部のスターやリーダーたちによって導かれているかにみえて、じつは、エドゥアール・グリッサンのいう社会的な「合力(レズユルタント)」によって方向づけられてゆくものなのだ。「社会の公器」である新聞には、こうした社会現象としての美術を、作品評や展覧会評も含めて総体として捉える構えが必要なのではないか。これが、ぼくの持論だった。
 1955年に刊行された竹田道太郎の『新聞における美術批評の変遷』が、このたび復刻されるという報に接して、まず脳裏をよぎったのは、以上のような記憶である。明治から昭和戦前期に至る新聞の美術評をたんねんにたどり、懇切な分析と批評を加えた本書は、日本近代美術変遷史としても読むに堪えるものであり、その質は極めて高い。しかし、本書は朝日新聞社の内部資料(報告書)であったため、これまでなかなか目にすることができなかった。このたびの復刻は、まことによろこばしい出来事であり、まちがいなく美術批評史の研究に大きく寄与するにちがいない。しかも、本書は、冒頭に述べたような新聞における美術評の現在の在り方を考えるよすがともなるのにちがいない。
 竹田は、本書の末尾で、あるべき美術批評について「時代精神、時代思潮を背景とする考察から美術の動向を集約し、社会に関心せしめるだけの能動的側面を持つこと」と主張し、画家に追随するのではなく、むしろ、画家たちを先導する批評を求めている。くしくもこの報告書が刊行された1955年は、中原佑介が「創造のための批評」をひっさげてデビューした年にあたっているのだが、この符合は、竹田一流の“特ダネ”感覚に由来するものであったというべきかもしれない。
 ここに“特ダネ”というのは、新聞における美術記事を竹田が、どうみていたかということにかかわっている。竹田は、画家を先導する批評の必要性を説きながらも、それが新聞における美術批評の中心的役割とは考えていなかったのだ。美術批評全般と新聞の美術評を彼は弁別的にとらえていたのである。竹田の『美術記者30年』を読むと、社会部に所属して画壇にまつわる特ダネを追いかけていたようすが如実に描き出されているが、竹田は学芸部次長をつとめた経験があるとはいいながら、長い年月を社会部で過ごしたのであった。げんに彼は、先に引いた一節の少しまえに「優れた批評は、従来多く見られたような「作家のみのための批評」では決してあり得ない」と書き、また、その少しあとには、新聞は「画家よりも遥かに多数の画家でない読者を持つている」としているのである。彼が、新聞の美術評の理想型を「方向を持つた印象批評」に求めたのも同じ理由によるというべきだろう。このように竹田にとって新聞の美術記事は、あくまでも社会的な事件史にかかわるものであったわけで、それゆえ新しいタイプの美術批評家の登場への期待が“特ダネ”感覚に通ずるように思われもするのである。新しい批評の登場もまた社会的事件として捉えられるはずだからである。
 20年ほどまえ、公募団体展というすぐれて芸術社会学的な対象が新聞の美術評から除外されたときに感じた異和感の由来を、竹田道太郎は50年以上前に言い止めてくれていた。現在の新聞の美術批評は、竹田が求めた「時代精神、時代思潮を背景とする考察から美術の動向を集約し、社会に関心せしめるだけの能動的側面」を、かなりの高さで実現しえていると思うし、公募団体評の排除も、むしろ、それゆえのことであったというべきかもしれない。しかしながら、美術の領域が拡張されてゆくにつれ、美術と社会現実との接点も多様化し、場合によっては「美術」という領域の確定さえ危うく思われる昨今の状況に照らすとき、文化資本にまつわる趣味の階級制を総覧しつつ、社会と美術のかかわりを問いただすことは、新聞のみならずジャーナリズムの最も大きな課題というべきだろう。竹田道太郎の本書における提言が、新聞美術評の現在の在り方を考えるよすがとなると思うゆえんである。
 批評家としてのぼく自身についていえば、目立たないが凄みのある作品を探し出して、言葉を彫琢することに大きな意義を感じているが、「クール・ジャパン」という名の新手のジャポニスムが横行しつつある昨今の状況を思うと、新聞の美術評は、作品や作家の動向を追うのみでは成り立ちがたいといわざるをえない。美術家や作品を、あるいは美術そのものを成り立たせている社会的、政治的、経済的枠組みを批判的に捉え返す構えが、あらためて新聞の美術記事には求められているのである。

竹田道太郎(たけだ・みちたろう 1906-1997)

早稲田大学独逸文学科卒、1932年に都新聞入社し金井紫雲のあとを受けて美術記者を務める。1936年より朝日新聞社に勤務、社会部記者、学芸部次長等を歴任し、長年にわたり日本の美術界と関わる。『美術記者30年』(朝日新聞社 1962)『続日本美術院史』(中央公論美術出版社 1976)など著書多数。

目次から

■序論 わが国、新聞の美術批評
1, 新聞と美術 
2, 美術批評と美術展覧会批評
■本論 新聞は美術をどう批判したか
1, 日本画批評の変遷概況 
2, 西洋画批評の変遷概況
付、新聞美術批評発展史図
■各論 日本に於る新聞美術批評の発展史
●1, 明治前期(20年まで:東朝創刊以前)
第一回内国勧業博覧会/フェノロサの美術振興策/明治十五年前後の新聞/明治十五年前後の画界/新聞と美術の結合
●2, 明治中期(上:30年まで)
〈明治21年、22年〉
東京朝日新聞の発刊と美術附録/東京美術学校創設と新聞記事/新聞と明治リアリズム運動/わが国最初の西洋画展評/イタリー彫刻展の不評
〈明治23年〉
第三回内国勧業博覧会/勧業博覧会素人評/純粋美術論文掲載
〈明治24年、25年―シカゴ博前年〉
風俗取締の厳密強化と美術/書評の威力/シカゴ博に対する意気込み
〈明治26年、27年―シカゴ博、日清戦争〉
シカゴ大博覧会―海外から送る最初の「日本美術評」/国内状況/日清戦争と美術展 
〈明治28年―第四回内国勧業博覧会〉
裸体画問題起る
〈明治29年―新興絵画運動起る〉
戦後の影響と新絵画運動
●3, 明治中期(下:40年以前)
〈明治30年〉
日本美術史の編纂/ヴェニス博出品の成績
〈明治31年―美校騒動と院展成立〉
東京美術学校騒動/論説「美術局設置の必要」を説く/日本美術院設立/明治のチャタレー公判
〈明治32年―美術論活況を呈す〉
論説「日本美術刷新の時期」/美術論の活況
〈明治33年〉
記念美術館(表慶館)建設と東朝論説/論説「日本画家の洋行をすすむ」/院展と朦朧画
〈明治34年〉
当時の社会状勢/論説三年間の傾向/東朝の展覧会評
〈明治35年〉
美術批評の質的大飛躍/論説「美術と教化」
〈明治36年〉
第五回内国勧業博覧会/諸展の批評
〈明治37年〉
日露戦争と新聞写真/太平洋画会展と東朝/セントルイス博覧会 
〈明治38年〉
戦争と美術界
〈明治39年〉
文展開設建議運動/院展評
●4, 明治後期(40年以後)
〈明治40年―博覧会と文展第一回〉
多事な四十年/博覧会審査問題激化す/「審査の審査」を浜田青陵東朝に書く/官展開催と反対運動/官設美術展評―批評態度鮮明なり
〈明治41年〉
小松原文相の文展ようかい/文部省、玉成会両展覧会評
〈明治42年〉
「日本画の危機」論/文部省展覧会評
〈明治43年〉
「現今の洋画界」論/西洋画展評にぎわう/「文芸行政論」「個展について」/二つの文展批評/海外美術情報
〈明治44年〉
新しいものへの欲求/文展と新聞面/文芸欄にて近代的美術感覚啓蒙さかんになる
〈明治45年=大正元年〉
与謝野「アンデパンダン展」観/文展二科制となり文展雑報多し/漱石の文展評「文展と芸術」
●5, 大正前期(6年まで)
〈大正2年〉 
文展と新聞/文展評/新聞の文展観
〈大正3年〉
「在野団体出でよ」/美術評壇の賑い/文展と美術院/脇本と瀧の理想派と現実派
〈大正4年〉
院展の傑作
〈大正5年〉
美術記事の重視/文展に於る裸体作品の撮影、出版禁止
〈大正6年〉
文展日本画評、洋画評、彫刻評/大阪毎日と裸体画問題
●6, 大正後期(15年まで)
〈大正7年〉
二科展影うすし
〈大正8年〉
二科会展の安井の傑作/文展改組して帝展となる
〈大正9年、10年〉
大戦後の新傾向流入/翻訳出版/画家の渡欧、エコール・ド・パリ/内田魯庵の所感/院展評、東朝仲田勝之助/二科展評、東朝春山武松/帝展評
〈大正11年、12年〉
新聞美術批評の変遷/震災と新聞社の美術展企画
〈大正13年〉
裸体問題再燃/アクション解散と三科会結成
〈大正14年〉
堂々たる院展評
〈大正15年〉
東京都美術館竣工、印象/一九三〇年協会/聖徳太子奉讃展評/二科展評、坂崎坦/院展評、帝展評
●7, 昭和期(2年から10年まで)
〈昭和2年〉
美術愛好心の普及/春の美術シーズン/東朝の美術品解放精神/秋の美術シーズン
〈昭和3年〉
春陽会展評/国展日本画評/国展の解散/院展評、二科評/帝展評/大調和展、阿部個展
〈昭和4年〉
春陽会評/新興大和絵展の短評で論争/裸体画、プロ美術、弾圧と憲兵隊の撤回命令/青龍社展/二科展評/院展評/帝展評/パリ日本美術展と藤田嗣治展
〈昭和5年〉
春陽会展評/個展評(佐伯米子個展、向井の模写展)/ローマ日本美術展評/二科展評と児島喜久雄の登場
〈昭和6年〉
小展覧会の短評多し/論説「美術の秋」/帝展彫刻に撤回命令
〈昭和7年〉
児島喜久雄の独立展評―「世代」の喰いちがい歴然
〈昭和8年〉
帝展評の児島喜久雄―帝展に対する適確性、妥当性
〈昭和9年〉
二科展評―近代的造型精神の欠如
■結論
1, 新聞に於る美術批評の分類
 批評と鑑賞/印象批評/解説批評/作家批評と非作家批評
2, 新聞美術批評、美術論説の影響と効果 
 模倣問題/日本画対洋画/審査批評の影響 その他、寛選論、検閲/美術館建設の主張
3, 新聞に於る美術批評の在り方
 批評の立場と思想性の欠如/美術批評の機能
■附論 新聞に於る美術以外の芸術評論概況
(音楽批評を主として)