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末松子爵家所蔵文書 全2巻

末松子爵家所蔵文書 全2巻

[監修] 堀口修 [監修] 西川誠

揃定価55,000円(揃本体50,000円) ※分売不可
ISBN 978-4-8433-1008-3 C3321
A5判/上製/函入
刊行年月 2003年09月

本書の内容

伊藤博文の女婿末松謙澄が残した明治史研究必須の書翰・書類を初公刊。

刊行にあたって        堀口 修
 末松謙澄(1855年~1920年)は、明治・大正期の官僚・政治家・文学者・法学者で、青萍と号した。明治初年、高橋是清に英学を学ぶ。明治8(1875)年、伊藤博文の知遇を得て、官界に入る。以後、いくつかのポストに就くが、同10年山県有朋の秘書官として西南戦争に従軍。その後外交官として渡欧。この時、外交官を辞し、ケンブリッジ大学に入学して法学士の資格を取得。また滞英中、世界で初めて『源氏物語』を英訳(但し、1帖~17帖までの部分)・出版。同19年帰国。以後官界で活躍する一方、演劇改良運動、翻訳等の面でも活躍する。同21年文学博士。翌22年伊藤博文の次女・生子と結婚。同23年第1回衆議院議員総選挙に在官のまま当選し、以後3回連続当選。爾来、第2次伊藤博文内閣の法制局長官兼恩給局長、貴族院議員、第3次伊藤博文内閣の逓信大臣、第4次伊藤博文内閣の内務大臣、枢密顧問官等を歴任。また日露戦争時は、渡英して対日世論工作に奔走。さらに文筆・歴史編纂面でも活躍し、『孝子伊藤公』・『防長回天史』・『修養宝鑑明治両陛下聖徳記』・『日本美術全書』等を著し、晩年は、ローマ法研究も行っている(『ユスチニアーヌス帝欽定羅馬法学提要』を刊行)。明治40年帝国学士院会員。大正7(1918)年法学博士になる。大正9年、枢密院会議の席上で倒れ治療するも逝去(65歳)。最終爵位は子爵。
 右にみたように、末松の人生は実に多彩に満ちたものである。中でも岳父伊藤博文との関係から明治政界の重要な局面を知る立場にもいた。しかしどういう訳か末松謙澄の生涯を書き記した本格的伝記が編纂されていない。そうした現状から明治政府中枢部の高位高官との交流を示す非常に興味深い書翰(写)が多い『末松子爵家所蔵文書』を刊行する意義があると判断したのである。『末松子爵家所蔵文書』は、明治天皇の伝記(=「明治天皇紀」)を一般に縮約・公刊することを目的に宮内省内に設けられた公刊明治天皇御紀編修委員会が筆写蒐集したものである。確かに歴史研究はできる限り一次史料を用いなければならない。しかし末松の一次史料が豊富でない現状から『末松子爵家所蔵文書』が持つ価値には高いものがあると判断する。
 『末松子爵家所蔵文書』は、1.伊藤博文、山県有朋、井上馨、松方正義、黒田清隆、桂太郎、山田顕義、陸奥宗光、田中光顕、西園寺公望、原敬、林董、牧野伸顕、尾崎行雄等の末松謙澄宛書翰、2.伊藤博文起草文案・書類、3.伊藤博文宛谷干城、徳大寺実則、末松謙澄等、第三者間の書翰、4.伊藤博文や末松謙澄の家族宛書翰等からなる。1の末松謙澄宛書翰は、彼の多方面に渉る活動を反映して多士済々の政治家・官僚との折衝・交流を示すものが多い。だが『末松子爵家所蔵文書』の価値はそれだけに留まるものではない。2と3にはかなり質の高い政治情報が書き込まれており、例えば伊藤博文を中心としたものに岩倉使節団時の条約改正、欧州での憲法等の調査、韓国関係等についての重要且つ政治上の機微に触れる書翰・書類があり興味深い史料である。4の伊藤博文や末松謙澄の家族宛書翰は、政治という世界で見せる姿とは異なる素顔が垣間見られて新たな発見をした思いがする。こうした内容を持つ『末松子爵家所蔵文書』は、末松謙澄や伊藤博文の研究を深化させるのに役に立ち、延いては明治史研究をも進展させるものと思う。

【第1冊】山県有朋書翰、末松謙澄宛、山県有朋意見書【第2冊】井上馨、陸奥宗光ほか書翰 末松謙澄、伊藤博文宛【第3冊】井上毅、寺内正毅ほか書翰 末松謙澄、伊藤博文宛【第4冊】黒田清隆、品川弥次郎ほか書翰 末松謙澄、伊藤博文宛【第5冊】大久保利通、曽根荒助ほか書翰 末松謙澄、伊藤博文宛【第6冊】栗野慎一郎、原敬ほか書翰 末松謙澄、伊藤博文宛【第7冊】徳大寺実則、芳川顕正ほか書翰 末松謙澄、伊藤博文宛【第8冊】九鬼隆一、伊東巳代治ほか書翰 末松謙澄、伊藤博文宛

【第9冊】小松原英太郎、穂積陳重ほか書翰 末松謙澄宛【第10冊】西園寺公望、山本権兵衛ほか書翰 末松謙澄、伊藤博文宛【第11冊】末松謙澄、生子ほか書翰 伊藤博文、末松謙澄ほか宛【第12冊】伊藤博文書翰 父、母ほか宛【第13冊】伊藤博文書翰 父宛【第14冊】伊藤博文書翰 末松生子宛【第15冊】伊藤博文書翰 末松謙澄ほか宛、伊藤博文諸文案等【第16冊】伊藤博文岩倉使節随行時等諸文案等/解説